アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

飛来

f:id:dubius0129:20160513020014p:plain

ヴェネツィアにもいるコチドリ。イタリア語名Corriere piccolo)

 

f:id:dubius0129:20190216210805j:plain

2018年の新作

 

f:id:dubius0129:20180210220715p:plain

2017年の新作

 

Nono Books

2014年以降の主な新刊

f:id:dubius0129:20190216211017j:plain

 

2019

Irene Lehmann

Auf der Suche nach einem neuen Musiktheater: Politik und Ästhetik in Luigi Nonos musiktheatralen Arbeiten zwischen 1960 und 1975

Wolke Verlag 448 pp.

Intolleranza 1960からAl gran sole carico d’amoreまでの中期作品の演劇的要素に焦点を当てた分析。なので本文に楽譜は一切出てこない。

 

2018

Jonathan Impett

Nuria Schoenberg Nono (Foreward)

Routledge Handbook to Luigi Nono and Musical Thought

Routledge 527 pp.

刊行は当初予定よりかなり遅れたが当初予定より200頁近く増量。ノーノの生涯とその全作品を辿り尽くした網羅的大作。

*

Angela Ida De Benedictis and Veniero Rizzardi (eds.) / John O'Donnell (trans.)

Nuria Schoenberg Nono (Preface)

Nostalgia for the Future: Luigi Nono's Selected Writings and Interviews

University of California Press 490 pp.

2007年にイタリアで刊行されたLa Nostalgia del Futuro (il Saggiatore)の英訳。ただし英語版だけのExcursusとして、Enzo Restagnoによる1987年の自伝的ロングインタビューを含めたインタビュー4篇と書簡1篇(1965年の「ロサンゼルスからの手紙」)が追加収録されている。

 

2017

Roberto Calabretto

Luigi Nono e il cinema <<Un’arte di lotta e fedele alla verità >>

LIM Editrice Srl. 539 pp.

ルイジ・ノーノと映画」というお題で500頁を上回る本を書く『白鯨』スタイル。

*

Friedemann Sallis, Valentina Bertolani, Jan Burle and Laura Zattra (eds.)

Live-Electronic Music. Composition, Performance, Study

Routledge 340 pp.

ノーノについての記述を数多く含む、ライヴ・エレクトロニクス音楽全般に関する論文集。

*

Carolin Abeln

Sprache und Neue Musik: Hölderlin-Rezeption bei Wilhelm Killmayer, Heinz Holliger, Wolfgang Rihm und Luigi Nono

Rombach Verlag 281 pp.

ノーノを含む現代音楽作曲家のヘルダーリン受容についての本。

 

2016

Birgit Johanna Wertenson und Christian Storch (Hrsg.)
Luigi Nono und der Osten
Are Musik Verlag 437 pp.
ルイジ・ノーノと東側諸国」のテーマに沿った論文15篇を収録。原稿を募集していたのが2011年だから出るまでにずいぶん時間がかかった。

*

Luigi Nono e Giuseppe Ungaretti / A cura di Paolo Dal Molin e Maria Carla Papini

Per un sospeso fuoco: Lettere 1950-1969

il Saggiatore 476 pp.

ノーノとウンガレッティの往復書簡集。Cori di Didoneの草稿も収められている。

 

2015

Carola Nielinger-Vakil

Luigi Nono: A Composer in Context

Cambridge University Press 343 pp.

これは本当にいい本です。

*

Friedrich Geiger und Andreas Janke (Hgg.)

Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt

Waxmann 248 pp.

ヴェネツィアとノーノ」という魅惑のテーマをめぐる論文集。

*

Joachim Junker

>>Die zarten Töne des innersten Lebens<< Zur Analyse von Luigi Nonos Streichquartett Fragmente - Stille, An Diotima

Pfau 306 pp.

毎年のようにノーノの本を出している驚異の出版社Pfau Verlagより、2015年はFragmente - Stille, An DIotimaの分析本。

*

Krzysztof Kwiatkowski

Mistrz dźwięku i ciszy. Luigi Nono

Krytyki Politycznej 304 pp.

ポーランド語で書かれたノーノの本。表題は『音と沈黙のマエストロ』。

*

Luigi Nono / prepared by André Richard, Marco Mazzolini

Risonanze erranti. Liederzyklus a Massimo Cacciari

CASA RICORDI

遂に刊行のはこびとなったRisonanze erranti新編集版スコア。詳しくはこちらで紹介。

*

※特記事項。2015年になってRICORDIから出ているPrometeo普及版のスコア(オリジナルの縮小コピーを束ねただけのもの)が超大幅値下げ。従来の10分の1ていどの価格になり、日本円でも1万円台で購入できるようになった。

 

2014

Elfriede Elisabeth Reissig

Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< Text - Musik - Struktur

Pfau 250 pp.

毎年のようにノーノの本を出している驚異の出版社Pfau Verlagより、2014年はDas atmende Klarseinの分析本。

*

Nuria Shoenberg Nono (a cura di / edited by)

Per Luigi Nono Dediche / For Luigi Nono Dedications

Fondazione Archivio Luigi Nono ONLUS 83 pp.

ノーノ生誕90周年を記念してFondazione Archivio Luigi Nonoが出版した本。前半はノーノに献呈された署名入りの本を写真で紹介。後半はそれらの人々とノーノの交流のもようを綴った記事。伊英二ヶ国語。

 

Nono Records

2014年以降の主な新譜

 

f:id:dubius0129:20190216211103j:plain

2018

Luigi Nono: Prometeo (Stradivarius – STR 37096)

André RichardとMarco Mazzoliniの編集による新版スコアに基づく2017年5月テアトロ・ファルネーゼでのライブを収めたマルチチャンネルSACD

*

Luigi Nono: LA FABBRICA ILLUMINATA (all that dust – ATD5)

La fabbrica illuminata一曲。ダウンロード販売のみ。

*

Luigi Nono: MUSICA MANIFESTO NUMERO 1 (Die Schanchtel – DS37)

1969年のテープと声によるMusica-Manifesto n.1: Un volto, del mare - Non consumiamo Marxの復刻。LP(DS37/3)、CD(DS37/2)、LPとCDの両方に特製ブックレットとポスターを付けた限定ボックス版(DS37/1)の3種類あり。

*

Luigi Nono / Paulo de Assis (KAIROS – 0015022KAI)

Como una ola de fuerza y luzの久々の新録音。.....sofferte onde serene...は初演時に使用された後すぐに紛失してしまったステレオ再生によるオリジナルのテープを復元したものを用いての演奏。Paulo de Assisのunfolding waves... con luigi nonoは.....sofferte onde serene...の管弦楽編曲を発展させた作品。

*

Luigi Nono: .....sofferte onde serene... (Orpheus Institute Series)

上述のKAIROS盤で使用されている復元テープを作成したOrpheus Instituteから発売されたCDと24頁の冊子。テープの復元作業に携わったPaulo de Assisがピアノも演奏している。

 

2017

Edizione delle opere vol. 1 Luigi Nono: Risonanze erranti (shiiin – eln 1)

Fondazione Archivio Luigi Nonoの2016年のニュースレター(YouTubeにあがっている)で仏shiiinレーベルからLuigi Nono Editionという5枚組のDVDを出しますよという夢のような予告があって、その第1弾がようやく実現したのがこのマルチチャンネルSACD。2014年パルマのテアトロ・ファルネーゼでの演奏と1987年10月パリでの決定版初演の録音を収録。予告どおりならこの後Prometeo、A floresta é jovem e cheja de vida、60年代の電子音楽作品、Composizione per orchestra n. 2と続く。

*

Classici di Oggi Stefano Malferrari pianoforte vol. 1 (EMA Vinci Records – 40052)

... sofferte onde serene ... の私が知るかぎり14番目の録音。

 

2016

ノーノ作品集:力と光の波のように/墓碑銘 第1曲 わが心のスペイン 墓碑銘 第3曲 故人のための祈り (KICC 1320)

再発売ですが音質が良くなったらしいよ。

*

ブーレーズ・ライヴシリーズ:ノーノ『断ち切られた歌』/シュトックハウゼン『グルッペン』 (ALT346)

ブーレーズ指揮、1959年の録音。

*

Absolute-MIX 矢沢朋子ピアノ・ソロ(GEISYA FARM GF-002)

... sofferte onde serene ... 収録。... sofferte onde serene ... のたぶん第13番めの録音である。

 

2015

Italia: Verdi, Scelsi, Nono, Pizzetti, Petrassi (hänssler CLASSIC 93.329)

イタリアの作曲家の合唱作品集。ノーノの Sarà dolce tacere を収録。これは2006年に同じレーベルから出ているリヒャルト・シュトラウスワーグナーとノーノの合唱曲集(93.179)からの再録。

*

Pierre Boulez: Le Domaine Musical 1956...1967 (Deutsche Grammophon 4811510)

2006年に8枚組で出ていたブーレーズの「ドメーヌ・ミュジカル」のCDが、ブーレーズ90歳おたおめ記念で10枚組に増量・減額になって再登場。ノーノ作品は Incontri だけ収録。

*

LES CONCERTS DU DOMAINE MUSICAL (Doxy DOZ427)

それとは別にLPも復刻されている。同じく Incontri 入り。

*

POLLINI & ABBADO: The complete Deutsche Grammophon recordings (4821358)

ポリーニアバドのコンビによるドイツ・グラモフォンの録音を集めた8枚組の全集。ですから Como una ola de fuerza y luz が入っております。

*

Masterworks of the 20th Century (Sony Classical 88875061902)

ColumbiaとRCAからむかし出ていた現音系LPを復刻した10枚組の箱。10枚目にノーノの Epitaffio per Federico García Lorca 第2曲 Y su sangre ya viene cantando を含む。ブルーノ・マデルナ指揮、1967年の演奏なり。

*

PROMETHEUS (Euroarts 2001944)

前にDVDで出ていた『プロメテウス 神話のさまざまな変奏』とかいうやつのブルーレイ版。Prometeo のヘルダーリンの章の演奏のもようが、それはそれは世にもヒドイ画像処理つきで収録されている。

*

Noël Akchoté + Luigi Nono (Noël Akchoté Downloads LGD-3, LGN-4, LGN-8)

ギタリストのノエル・アクショテがノーノの声楽曲3曲(Sarà dolce tacere と"Ha venido". Canciones para Silvia と ¿Donde estás hermano?)をギター版に編曲。iTunesその他でダウンロード販売

 

2014

LOST IN VENICE WITH PROMETHEUS: Bach, Beetoven, Wagner, Liszt, Nono, Holliger (Fuga Libera - FUG716)

ベルギーのレーベルFuga Liberaから出た、Jan Michielsの弾くピアノのアルバム(3枚組)。 ... sofferte onde serene ... 収録。... sofferte onde serene ... のたぶん第12番めの録音である。

*

Luigi Nono: Seguente (Edirion RZ - ed. RZ 1031-32)

箱入り2枚組。

CD1

  • A Carlo Scarpa, architetto, ai suoi infiniti possibili (1984)
  • A Pierre. Dell'azzurro silenzio, inquietum (1985)
  • Guai ai gelidi mostri (1983)
  • La terra e la compagna (1957/58)

CD2

  • La terra e la compagna (1957/58)
  • 1° Caminantes.....Ayacucho (1986/87)
  • 2° No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij (1987)

1枚めの前3曲はノーノが亡くなった1990年に出た黒いLPのCD化。4曲めのLa terra e la compagna はCD初出。

*

Wolfgang Rihm / Luigi Nono: Passion Texts(AEON - AECD1441)

リームとノーノの声楽作品集。ノーノ作品はSarà dolce tacereと¿Donde estás hermano?の2曲を収録。

 

Luigi Nono Late Works Discography

... sofferte onde serene ... 以降の作品別ディスコグラフィ。原則としてLPは除く。

断ち切られない歌 後篇の中 1/14

メルヴィル、船の歌

帆柱を立てる

f:id:dubius0129:20180209215413p:plain

Prometeoの序章Prologoは、シューマン『マンフレッド序曲』冒頭の激烈な三連打の引用で締めくくられる。スコア上に4群のオーケストラの52段に跨る総奏が突如屹立する光景はまさしく音の柱だ。しかしここで見逃してはいけないのは楽譜の最下部である。

 

f:id:dubius0129:20180209215645p:plain

垂直に立つマンフレッドの「足元」から、独奏陣の一員であるチューバの持続音が水平に延びている。つまりノーノはマンフレッド初登場のこの場面で、「↑→」という漂泊者のアイコンを譜面に描いているのだ。帆柱↑と航跡→、あるいは直立↑歩行→。5つの島を経巡るプロメテオの航海は、原初の混沌から創成した世界の片隅に「進みゆくもの」の姿が出現するこの地点から始まる。

 

人間が直立歩行するということは、直立が歩行の準備姿勢になるということである。立つ姿勢が体現する垂直性は人間の場合、上昇でも停止でもなく前進の含意になる。つまり人は帆柱のように立つのである。船の帆柱が垂直に屹立するのは帆に風を受け水平方向の推進力を産み出すがためである。「人間の視線は本来、この地球の水平線をはうことになっておるのじゃ。さもなくて神がその蒼天を仰げというのならば、視線は頭のてっぺんから開いておるはずじゃ」――「おずおずと天をのぞく」四分儀を甲板に叩き落す直前にエイハブが言い放ったその言葉 *1 のとおり、直立した人間の視線は帆を立てた船が洋上に引く航跡のように水平に伸びる。まなざしが指し示す水平方向とはこの地上に生きる人間の通常の進行方向である。

 

壁に古代ギリシャの遺跡や彫像の写真の白黒コピーを何枚も貼り付けた仕事場でノーノはPrometeoの作曲を進めていた。 *2 ノーノはこれらの画像にどういうわけだか直交する矢印↑→を矢鱈と書き込んでいる。 *3

 

f:id:dubius0129:20180209215439p:plain

Fondazione Archivio Luigi NonoのWebサイトのトップページにも掲げられているこのもっとも見慣れた一枚は、古代ギリシャの植民地マグナ・グラエキアに属していたシチリア島はセリヌンテの遺跡(Tempio C)である。その画面の右上に赤色で書かれた↑→。 *4

 

f:id:dubius0129:20180209215456p:plain

別の例。見上げる円柱の横腹から水平に矢印が伸びてその先にWANDERERと書かれている。 *5

 

古代ギリシャの遺跡の写真の一枚にノーノはrotto(破壊された)と書き添えている。 *6 「ノーノは廃墟に魅せられていました(André Richard談)」。 *7  二千年を超える歳月を経て孤立した幾本かの柱へと崩壊を遂げたかつての壮麗な神殿の成れの果てに、ノーノは「断片」という存在様式のひとつの典型をみていたのかもしれない。Prometeoの作曲当時ノーノが仕事場の壁に始終眺めていた廃墟の円柱のきわめて直接的な具現化が、Isola Primaで音楽の流れを幾たびも寸断して突発的に立ち上がるオーケストラの咆哮である、Lydia Jeschkeはそう指摘している。 *8 1985年のミラノ版で新たに付け加えられた『マンフレッド序曲』の引用も、まさしくそんなSäulen-Komposition(Column-composition)の好例である。Prologo末尾の、オーケストラの総奏によるマンフレッドの柱状の断片と、その足元から水平に伸びていく独奏チューバの持続音の組み合わせが示しているのは、Prometeoの音の柱はその場に突っ立っているだけの単なる柱ではない、ということである。それは柱が指す天地の方向に直交する水平方向へどこまでも進むことのできる柱、進まねばならない柱、すなわち、柱は柱でも帆柱である。

 

Fragmente = Caminantes

ノーノがPrometeoの作曲に取り掛かった1970年代の後半には既にニーチェのDer Wandererを主なモデルとして胚胎していた漂泊者のテーマは、Prometeo初演後の1985年(86年説もあり)に訪れたスペインへの旅以降、Caminantes(進みゆくもの)と名を変えてノーノの中でいっそう大きな存在へと育っていく。トレドの修道院の壁にノーノが見つけた例の落書きの文句(Caminantes no hay caminos hay que caminar)を、ジョルダーノ・ブルーノの『英雄的狂気』の流儀にならって紋章に図像化してみよう。

 

Caminantes
進みゆくものと聞いて脳裏に浮かぶ人間の姿は蹲っている人ではないだろうし、ましてや横たわっている人間ではあり得ない。直立二足歩行をする人間にとっては停止でも上昇でもなく前進の含意である垂直の立ち姿がCaminantesの喚起する基本イメージである。したがって、
Caminantes ↑垂直=直立

*

no hay caminos
進むべき経路を規定する決まった「道がない」という事態を指す言葉。そのような意味での道がない空間とは要するに海である。トレドの落書きの実質的な原典に当たるアントニオ・マチャードの詩「諺と歌」はこう詠っている、「旅びとよ それはただ海の上の航跡だけで 道ではない(大島博光訳)」。1987年のEnzo Restagnoのインタビューでこの言葉の意味を問われたノーノが語っていたのも航海のイメージである、「ニーチェの漂泊者、その不断の探究。カッチャーリのプロメテウス。それは、その上で航路がつくり出され、探し出されていく海です」。 *9 それが海だという基本認識が日本語圏の人々に浸透していないように見受けられるのは、原文にはない「進むべき」という言葉を勝手に付け足している訳のせいで、イメージの中にひろがるべき海が干拓されてしまっているからである。したがって、
no hay caminos 海

*

hay que caminar
進みゆくものの進み方はいろいろだが、大方の人は崖をよじ登るだとか海に潜ってゆくだとかいった特殊例ではなく、直立した人間が前進すなわち水平方向に進んでいくさまを真っ先に思い浮かべるだろう。したがって、
hay que caminar →水平=歩行

 

ただし現実に人は海の上を歩くことはできないので、直立↑歩行→のイメージは帆柱↑と航跡→の船のイメージで代理表象される。ノーノの生涯最後の5年間の座右の銘であったCaminantes no hay caminos hay que caminarから聞こえてくるのは二種類の歌である。no hay caminosの海の歌とCaminantes↑ hay que caminar→ の船の歌。

 

トレドの金言を三つに区切って表題に組み込んだノーノのカミナンテス三部作は、上記のイメージのかなり忠実な再現である。

 

Caminantesの垂直(帆柱)

Caminantes...Ayacuchoの開始から約3分の2までの範囲には、PrometeoのIsola Primaの突発的なオーケストラの炸裂や、Prologoの末尾からStasimo Primoにかけての前半部に10回現れる『マンフレッド序曲』冒頭の引用を彷彿とさせる強音の(帆)柱が何本も立っている。

*

no hay caminosの海

Caminantes, no hay caminos... Andreij Tarkowskijの全篇は連綿と連なるG音の海原である。

*

Hay que caminarの水平(航跡)

“Hay que caminar” soñandoを特徴づけるのは、微かに揺れ動きながら何小節にもわたって延びていく弦の持続音の航跡である。

 

Fragmente=Caminantes ――後期ノーノの二大キーワードを等号で結ぶ。船はfragments of the land陸の断片だと、メルヴィルは『白鯨』の第14章で書いている。断片だという点に関しては島も船も同じである。しかし島は進みゆくものではない、船は進みゆくものである。Fragmente=Caminantesである断片は島ではなく船である。進みゆくものであるか否かという船と島の差異は両者の形態の差異に反映されているので、たとえ動いていなくても船と島は一目で識別することができる。島には東西南北の向きがあるが前後左右はない。船には前後左右はあるが東西南北はない。向きが外的に規定されるか、それとも内的(主体的)に規定されるかの違いである。船とは異なり、島にはそれ自体の向きがないと言うこともできる。島の東西南北が一意に定まるのは、地質学的な時間の尺度で考えないかぎり島が地球上で不動の位置を保っているからである。船の前後の軸は、進みゆくものである船の通常の進行方向を表す。島=断片を最小限の要素に切り詰めていくと、一個の点(・)になる。船=断片を最小限の要素に切り詰めていくと、点ではなく矢印(→)になる。

 

島のない可能性。ノーノの音の断片を慣習的に島に喩えてきたのは思い違いだったのだろうか。弦楽四重奏曲Fragmente – Stille, An Diotimaの音の断片は、後期ノーノが掲げるsuono mobileのモットーのとおり、「島」と呼ぶにしては不似合いなほど動的に、小刻みに揺れ動いている。あれらの断片は間断なく波の打ち寄せる島の渚のざわめく音景なのだと私はこれまで解してきたが、本当は船着場で舫につながれて進みはしないが絶え間なく波に揺られている船だったのではないか。島ではなく船だとすることで、後期ノーノのはじまりと終わりを縁取る弦楽四重奏曲Fragmenteから弦楽二重奏曲“Hay que caminar” soñandoへの推移を自然に解釈できるようになる。Fragmenteの頃は舫につながれていた船が10年後のHay que caminarではともづなをほどかれて、沈黙の海に持続音の航跡を引いているのだ。だとすれば、Fragmenteの断片性とHay que caminarの連続性は同一のものの二通りの様態を示していることになる。

*1:ハーマン・メルヴィル『白鯨』118章「四分儀」、阿部知二

*2:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag: 201-202.

*3:Luigi Nono (2005). Studi per Prometeo. In: Stefano Cecchetto and Giorgio Mastinu (eds.). Nono Vedova. Diario di bordo. Torino: Umberto Allemandi & C.: 73-91.

*4:Ibid., p. 77.

*5:Ibid., p. 73.

*6:Jeschke (1997), p. 201.

*7:Entretien avec André Richard. [pdf]

*8:Jeschke (1997), p. 202.

*9:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 72.

断ち切られない歌 後篇の中 2/14

断片=船

Risonanze errantiの四分音符=30の大海原に浮かぶ断片も島ではない。メルヴィルの詩句を原文から切り出して、ノーノは島ではなく船を造った。先ほど言ったように、島と船を識別することは容易である。島には向きがないが船には向きがある。それが船なのであれば、群島のごとく一見バラバラに散在している断片を結びつけ、船の竜骨と同じ方向に伸びていく一筋の航跡を見つけることができるはずだ。竜骨?一文字にまで分解され尽くしていない限り、語句断片には必ず竜骨のような軸があり舳と艫のような極性がある。たとえばpastの語を構成する4文字は必ずこの順に並ばなければならない。順序は同じでもtsapでは向きが逆だ。この点からみても、語句断片はもともと島より船にずっとよく似ているのである。

 

Risonanze erranti決定版の歌詞を構成するメルヴィルの詩句断片は、イタリアで独自に編まれたPoesie di guerra e di mare(戦争と海の詩)という題のメルヴィル詩集に収録の4篇の詩から引かれている。

 

南北戦争を主題とする詩集Battle-Pieces and Aspects of the War (1866) より

Misgivings (1860)

The Conflict of Convictions (1860-61)

Apathy and Enthusiasm (1860-61)

生前は未公表で1924年刊行のメルヴィル全集に初出の詩群より

The Lake (Pontoosuce)

 

ノーノは例によってこれらの詩から飛び飛びに抜き出した一部の語句のみを音楽化している。たとえばMisgivings第1連のうち歌詞に使われているのは茶色太字の詩句のみである。

 WHEN ocean-clouds over inland hills

  Sweep storming in late autumn brown,

 And horror the sodden valley fills,

  And the spire falls crashing in the town,

 I muse upon my country’s ills---

 The tempest bursting from the waste of Time

On the world’s fairest hope linked with man’s foulest

        crime.

あるいはThe Lakeの全96行のうち、Risonanze errantiで歌われるのは60行めのBut look—and hark! からさらにandを抜いたBut look / harkのみである。こうした言葉の扱いを評してJürg Stenzlは「まさしく破壊的な手法geradezu zerstörerischer Weise」だと述べている。 *1 本当にそうなのかを見極めるためには、歌詞をもっと丁寧に吟味しなくてはいけない。

 

断片性のみかけの下に潜んでいる連続性。

 

詩集Battle-Pieces全72篇の時間は序詩The Portentの1859年から巻末のA Meditationの戦後まで、一本の背骨のように概ねリニアに流れている。ノーノが参照していたPoesie di guerra e di mareには72篇のうち15篇が収録されており、Risonanze erranti決定版のためにノーノが選んだ3篇は、1860年の晩秋から翌年春の開戦までの経過を辿った、序詩The Portentに続く巻頭の一続きの戦前詩篇(ただしThe PortentはPoesie di guerra e di mareでは省略されている)である。

 

f:id:dubius0129:20180209215852p:plain

Poesie di guerra e di mareの目次

 

リニアな時の流れはこの3篇の範囲にも明瞭に認められる。

 

Misgivings (1860年、晩秋)

The Conflict of Convictions (1860年、初冬~)

Apathy and Enthusiasm (I 1861年の冬の終わりまで II 1861年春~開戦まで)

 

上の3篇の詩をとおしての決定的な転機は一箇所、IとIIの2部構成をとるApathy and Enthusiasm IIの1行めのSo the winter died despairing, である。絶望のうちに冬が死に絶える、そして訪れた春、凍った河が溶けるように、草が萌えいずるように顕在化してきたのは、冬のあいだじゅう潜伏していた戦争への欲望であった。春の暖気のなかで、奇妙な高揚にとらわれたアメリカの市民が争いの渦に呑みこまれていく。1861年4月12日、サムター要塞砲撃を発端として南北戦争開戦。Risonanze errantiの歌詞の範囲は季節を分断するSo the winter died despairing,の行までであり、この時の断層の向こう側の戦争へと連なる語句は採られていない。

 

曲中で実際に歌われている言葉を時系列に沿って並べたRisonanze errantiの歌詞を吟味すれば明らかなとおり、ノーノはBattle-Piecesの3篇の配列を音楽のなかでも忠実に守っている。Battle-Piescesを流れる開戦前夜の冬の時間的な脈絡は、いっけん破壊的な詩句の断片化過程を経た後もなお保存されているのである。

たとえ頭を落としても脊椎を傷付けてはいけない

私たちは時間を傷付けてはいけないからだ

熟れて落ちた果実を食べてもその種には傷付けてはならないように

脊椎を肉から取り出すこと これはまだ一度しか成功していない *2

 

1986年6月のトリノでの再演の折にノーノが書いたRisonanze errantiのプログラムノートの末尾には、シューベルトのWinterreise冬の旅へのやや謎めいた言及がある。

il “WINTERREISE” di F. Schubert, pfffpppfpppppppfffff nel mio cuore *3

Risonanze errantiがWinterreiseである理由の一つは、メルヴィルの歌詞を誘導体として、1860年の晩秋から翌年の冬の終わりにかけてのアメリカの、戦争の予兆を孕んだひと冬の時の推移が移植されてきていることによるのかもしれない。

 

Risonanze errantiの作品世界をゆくBattle-Piecesの船は結局いかなる港に辿り着くこともなく、音楽の終盤に4度繰り返されるdeathの語をもって、『白鯨』のピークォド号のように海の只中で難破し視界から消え去ってしまう。メルヴィルからの引用語群の終端に置かれたdeathの由来にはいくつかの解釈が可能である。その出典をBattle-Piecesの3篇に求めるのであれば、deathの語はApathy and Enthusiasmの中には見当たらず、The Conflict of Convictionsのほぼ結尾のDeath, with silent negativeに現れるので、3篇の詩の登場順が乱れている唯一の例外ということになる。第二の出典候補として、Risonanze errantiの前半部に一箇所だけBut look / harkの三語が挿入されているThe Lake の最終行の文末もdeathである。だがもう一つ、別の解釈がある。メルヴィルの船影が消えた海に、それまで三たび片鱗を覗かせていたバッハマンの鯨が本格的に浮上してくる。メルヴィルのdeathの後を引き継いだバッハマンの歌詞の最初の一語はVerzweiflung(絶望)である。ノーノはメルヴィルのdeathとバッハマンのVerzweiflungの組み合わせによって、Battle-Piecesの冬と春を分かつ時の断層を再現しているのではないだろうか。

 

So the winter died despairing,

died = death

desparing = Verzweiflung

 

1986年3月の初演から翌年10月の決定版初演までの間に、ノーノはRisonanze errantiの大きな改訂を3度行っている。86年3月の初演の段階では、のちの決定版では削除されたメルヴィルの別の3つの詩からの抜粋が歌詞に含まれていた。その3篇とは、Battle-PiecesよりDupont's Round Fight (1861) とAn Uninscribed Monument の2篇、1888年に私家版として刊行された詩集John Marr and Other Sailors with Some Sea-PiecesよりTo the Master of the "Meteor" である。なんでもかんでもアップロードされることで有名なYouTubeに一時期あがっていた86年3月のRisonanze erranti初演版のライブ録音を聞いてみると、終結部のバッハマンのVerzweiflung, Verzweiflung noch vorとich? Du....の間に、演奏時間にして5分強の決定版には存在しないエピソードが挟まっており、その中で上記の3つの詩の断片が歌われている。死deathと絶望Verzweiflungの断層を踏み越えたその先に到来するのは、Battle-Piecesの作品世界を流れる時間と同様に戦争状態(DuPont's Round Fight/An Uninscribed Monument)だったのである。翌年の決定版に到るまでの改訂の過程で、しかしノーノはこれら3つのメルヴィルの詩を削除し、バッハマンの詩句だけを終結部に残した。戦争は回避されたのだろうか?いやそうではない、戦争という怪物の正体を暴き出す役割が残されたバッハマンの詩句に専ら委ねられたのだ。この点は第3部「バッハマン 鯨の歌」で検討する。

*1:Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 119.

*2:桑原徹『時間的猥褻物(書肆山田)』より「時間の背骨」

*3:Link

断ち切られない歌 後篇の中 3/14

かわく船

「海に浮かぶ○○島」と比喩的に言われることは多いが、本当に海に浮かんでいる島はひょうたん島くらいなものである。いっぽう船は例外なく本当に海に浮かんでいる。船の魅力の半分くらいはこの「浮いている」という海との絶妙な関係性にある。飛ぶことのできない船は片時も海から離れることがない、と同時に、海との関わりにおいて文字どおり「浮いた」存在である。船と海との関係はあくまで表面的だ。海に浮かぶ船は濡れることと乾くことの両義性である。濡れすぎた船は沈没し、乾きすぎた船は燃焼する。難波による死と船火事による死の可能性の両極の間を揺蕩いながら、船は危うく存在している。

 

death死へと向かうメルヴィルの船の航跡を上空から一望してみると、ときどき海面に浮上してくるバッハマンの鯨は気まぐれに遊弋しているのではなく、いたって規則正しい関係をメルヴィルと取り結んでいることにすぐ気がつく。順番に登場するBattle-Piecesの3篇の詩の節目にバッハマンが挟まっているのだ。

 

Melville 1 Misgivings

Bachmann

Melville 2-1 The Conflict of Convictions

Bachmann

Melville 2-2 The Conflict of Convictions

Bachmann

Melville 3 Apathy and Enthusiasm

 

ただし、原詩でも引用の分量でも最も長い2篇めのThe Conflict of Convictionsはバッハマンによってさらに前半と後半の節に区切られている。前後半の構造の違いはこれまた一瞥しただけで明らかである。限られた少数の語彙が単調に反復される、「時間の背骨」の喩にふさわしい椎骨を連想させるメタメリズム(分節繰り返し構造)が、後半部のほぼ全域に認められる。この部位では、通常は構造の曖昧化へと向かうはずの断片化によって、逆に断片化前の元の詩と比べてよりrigidな構造が発達してきている。濡れることと乾くことの間で揺れ動いている船の羅針がいっとき乾燥化のほうへと大きく傾いている相がMelville 2-2である。

 

わけても船の乾きが頂点に達するのは、timeとpast、とりわけpastの反復構造が出現する箇所である。

time time time time time

past slave past

past past past past past past

a a ahimé

ahimé

ahimé

ノーノがRisonanze errantiの歌詞選びに繙いていたメルヴィルの詩集Poesie di guerra e di mareは頁の左側に英語の原詩、右側にイタリア語の訳詩を併記する構成になっている。訳詩でtime (olden times) はsecoli lontani、pastはpassatoである。しかしノーノは英語の原詩を歌詞に用いた。これはシャンソンのこだまからなる母音主体の音韻の海を渉っていくことができるだけの堅牢な船板を得るために必要な選択であった。典型的な開音節言語であるイタリア語は船の素材に用いるにはあまりにも柔らかく、みずみずし過ぎるのである。

 

f:id:dubius0129:20180209220005p:plain

ノーノがBattle-Piecesから引いてきた語群の特性はRisonanze errantiの冒頭の一節に端的に表れている。

tempest bursting ... waste ... time

閉音節言語の代表格たる英語のなかでも、阻害音の連続したstや

tempest bursting waste fairest storming starry cloistered past stones strong against frost

やはり阻害音の一種であるpのような

tempest hope sweep deep past pain purpose despairing

とりわけ硬質な響きの感触を具えた語をノーノは意識的に選び取っているように見受けられる(川原繁人の近刊より阻害音の定義:発音する際に口腔内気圧が上がる音。音圧の変化は非周期的で角ばった形をしており、「男性的」「角ばった」「ツン」「近寄りがたい」などのイメージにつながる *1 )。中でもpastは最上級の硬度を誇る選りすぐりの一語である。唯一の母音aを子音p-stの、文字どおり水も漏らさぬ堅固な外骨格で厳重に封じ込めた言葉のカニ(いっぽうイタリア語のpassatoは殻から軟体が常時はみ出している言語の世界のオウムガイである)。とは言え、この鉄壁の蟹型要塞からも、その気になれば水分を抽出することは可能である。甲羅を力ずくで引っぺがしてやればよいだけのことだ。Risonanze errantiとほぼ同時期の作品であるOmaggio a György Kurtág (1983/86) の歌詞は被献呈者の名前György Kurtágである。口に出して一息に発音すればウオノエのごとく喉に引っ掛かりそうなこのゴツゴツといかついGyörgy Kurtágを、ノーノは音素レベルにまで徹底的に分解して歌にした。Omaggio a György Kurtág の音の海は、György Kurtágがその堅い表皮の下に隠し持っていた母音の体液を溢れ出させて時空間にひろげていくという、見ようによってはややスプラッター的な作曲技法を駆使して生み出されている。翻ってRisonanze errantiでは、言葉がもはや船板として機能しなくなるほどの容赦なき解体作業はおおむね回避されている。ノーノはメルヴィルの詩からいくつかの単語を切り出してきたが、それぞれの単語をさらに腑分けしていく二次加工は基本的に行われていない。

 

Risonanze errantiのpastの反復部では、解体とは別種の処理がこの語に対して施される。6つのpastの矢継ぎ早な連呼である。

 

f:id:dubius0129:20180209220051p:plain

唯一の母音aに強勢が置かれていることに起因する若干の潤いがpastにはまだ残っている。しかしこの語を早口言葉のように高速で唱えたとき、母音aの弱化が生じることは避けられない。pastは脱水され、船の甲板で陽に曝され乾涸びていく蟹のように、乾ききった皮殻だけの空疎なp-stへと変質する。

 

メルヴィルの歌詞=船の乾きは生物の発生における誘導体のように近接するこだま=海に作用して、音の海の変質を引き起こしている。こだまの海洋性は、母音主体の音韻特性の素地に2種類のライヴ・エレクトロニクスの効果(リバーブによる輪郭の溶解と、複数のスピーカー間での再生時機調節による疑似的な流動化)がさらに加わることにより成っている。ところがMelville 2-2の内部では、ライヴ・エレクトロニクスの効果をどちらも欠いた、水のように輪郭がぼやけてもいなければ水のように空間を流動することもない乾いたこだまが連続して出現している(06B 07A 08A)。

 

ID 小節 歌詞 流動パターン 残響時間 (s)
01A 36-40 malhuer me bat E 10
02A 60-65 adieu B 20 / 4
02B 66-68 ah... ah... E 4
03A 83-85 -lheur me E 4
04A 103-111 ahimé ahimé A 20
05A 133-137 [ah...ha] E 4
05B 137-138 u B 70 / 4
06A 188-194 pleure A 60
06B 196-196 ah E 4
07A 214-218 ahimé uh eh uh ah ahimé E 4
08A 242-245 a a ahimé ahimé ahimé E 4
08B 245-247 ah C 20
09A 256-261 adieu B 30 / 4
09B 262-265 adieu D 30
10A 288-293 adieu mes amours ah! ah! A 10
11A 319-320 adieu B 50 / 4
12A 357-366 pleure A 80
13A 369-371 malheur E 4

こだまの流動パターン:

  1. 旋回運動
  2. 中央から四囲へ拡散する動き
  3. 左側から右側への動き
  4. 前方へ遠ざかっていく動き
  5. 動きなし

 

※1986年3月の初演時のライブ録音を聞いて最も驚いたことのひとつが、上のリストの07Aのこだまに非常に深いリバーブがかけられていたことであった。しかしこれは、初演後も固定を免れ生きもののように姿態を変化させていくノーノの後期作品ではままあることである。Prometeoのドラマの流れに大昔からそこに存在していたかのような自然さで溶け込んでいるシューマン『マンフレッド序曲』冒頭の引用が、初演の翌年のミラノ再演版で後から付け加えられたものであるという驚きの事実はその好例である。

 

では結局のところ、Melville 2-2 にみられる船の乾燥化のそもそもの原因は何だったのか。当該の節の歌詞を構成する語が含まれる連の詩行を追っていくと、

 What if the gulfs their slimed foundations bare?

もし湾が、その軟泥の地盤を露わにしたらどうだろうか?(山田省吾訳

という詩句が目に留まる。

I know a wind in purpose strong –

 It spin against the way it drives.

What if the gulfs their slimed foundations bare?

So deep must the stones be hurled

Whereon the throes of ages rear

The final empire and the happier world.

 

(The poor old Past,

The Future’s slave,

She drudges through pain and crime

To bring about the blissful Prime,

Then – perished. There’s a grave!)

メルヴィルの詩の世界で海が干上がり、船の素材が乾く。メルヴィルの詩の世界から切り出されてノーノの音楽の世界へと移植された詩句断片の乾いた船がノーノの音楽の世界の海を同様に干上がらせる。船はメルヴィルの作品世界で生じた環境の異変をノーノの作品世界へと伝達する誘導体である。Melville 2-2は海の一時的なひき水による座礁の時間ということになる。だがこれと正反対の見方も可能である。

 

Risonanze errantiの全航程のなかでも遠洋航海の気分がある面で最も色濃く顕れているのがMelville 2-2である。その単調、その紋切型、その生硬、その不毛のゆえにMelville 2-2は外洋的だ。『白鯨』の大半を占める外洋の日々――モービィ・ディックが浮上してくる瞬間を洋上で空しく待ち侘びていた、毎日が昨日の繰り返しのようなあの無味「乾燥」な日々を想うこと。毎日が昨日の繰り返しのような時のメタメリズムとはつまり、past, past, past, past......である。

 

生物学者のJ. Lee Kavanauは言う *2  、外洋に住む魚たちは眠らない、眠る必要がないからだ。睡眠が肉体の休息のためのものならば、マグロやカツオやシイラはよほどタフな連中なのかという話になるが、そうではない。睡眠とは第一義的に、脳の、脳による、脳のためのものである。脳の学習の基本原理は「くりかえし」である。ある記憶にかかわる神経回路は、くりかえし賦活されることによって結合が強化され、安定化していく。日常的に何度も体験する事柄であれば、実際の体験による再活性化自体が反復効果をもたらすことになるが、そうでなくても神経系はその内部で自律的な活動の波を発生させ、記憶を何度も「脳内再生」させることによって、記憶を定着させる仕組みを持っている。神経系の自律的な活動はしかし、外界からの感覚刺激による攪乱を避けがたく受ける。感覚情報を処理する神経回路と、記憶に関わる神経回路が重複しているためである。とりわけ、高度に発達した眼が進化してそれまでとは桁違いの膨大な視覚情報がまさに洪水のごとく脳に流入するようになると、外界からの感覚刺激の干渉はいよいよ深刻なものとなった。脳というサーバの保守作業を行うことのできるようなオフラインの時間が必要になってきた。それゆえに動物は眠る。感覚刺激に反応する閾値を引き上げ、瞼があれば瞳を閉じて、外界から押し寄せる感覚情報に対する堅固な防波堤を築くことによって、脳はその水面に自身が自由に波を刻むことのできる内海となる。こうして、その日目覚めているあいだに経験したことは眠りの中で反復再生され、記憶として記銘される。もっと以前の記憶も同様に賦活されて、記憶の保持が図られる。

 

外洋は、構造らしい構造のほとんど無い、とめどなく広がる水また水の世界であり、また陸上や沿岸に比べてずっと安定した環境である。外洋性の魚類は、毎日が昨日の繰り返しのようなこの単調な世界に何百万年と住み続けてきた。彼らが生きていくために必要なノウハウの多くは遺伝的な記憶として既に固定されて、各々の個体が新たに学ぶべき事柄は限られている。遮断せねばならない感覚情報にも、日々の生活で新たにつけ加えられる経験にも乏しい外洋は、睡眠の機能において前提となる二大条件をともに欠いていることになる。刺激と経験の貧困な外洋、あらゆる主語を沈めてしまう青一色の世界で、脳はもはや睡眠を必要としなくなった、そうKavanauは考える。

In their many millions of years of existence in the relatively constant epipelagic and mesopelagic conditions (including interactions with prey and predators), continuously swimming fishes very likely encountered all potential contingencies, and incorporated responses to all of them into their repertory of inherited memories (excepting possible interactions with humans and conditions of human origin).

外洋性魚類において顕著に進行しているとKavanauが推測する行動形質の遺伝的な固定(genetic fixation)とは、細胞質の海を漂うゲノムの船に形質の決定因子が仕留め鯨のごとく引き揚げられたということである。柔らかな海のエピジェネティクスから堅い船のジェネティクスへ。Kavanauの仮説は水にまつわる皮肉な教訓である。水の中の歳月が魚から水のような柔軟性を奪い去った。魚の生は水の中で堅く乾いて、定型的な行動パターンの寄せ集めへと形骸化していった。Melville 2-2はその只中に生きるものの心象をカラカラに乾涸びさせるdeserto del Mare(Prometeo第4島のリブレットより)の情景なのかもしれない。

*1:川原繁人『「あ」は「い」より大きい!? 音象徴で学ぶ言語学入門』、ひつじ書房、199頁

*2:J. Lee Kavanau (1997). Vertebrates that never sleep: Implications for sleep’s basic function. Brain Research Bulltin 46 (4): 269-279. [pdf]

断ち切られない歌 後篇の中 4/14

船の配偶子

エルンスト・ユンガーの『母音頌』に則ってRisonanze errantiの言語を二種類に分類していたが、

 

  • メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片:子音と母音の結合状態:語詞 Wortsprache
  • シャンソンのこだま:遊離状態の母音:音韻 Lautsprache

 

本当のところ、Risonanze errantiにはもう一つ別の言語がある。語詞が「子音と母音との合成」 *1 であり、こだまが遊離状態の母音であるのならば、音韻の世界には片割れの子音も同じく遊離状態で存在しているはずである。Risonanze errantiの作品世界でそれに相当するものが打楽器群である。Risonanze errantiは寡黙な音楽だが、半面でひどく饒舌な印象も受ける。何事かを告げ知らせるかのような打楽器の夥しいざわめきが第三の言語となって全篇にわたり鏤められているからである。

 

  • メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片:子音と母音の結合状態:語詞 Wortsprache
  • シャンソンのこだま:遊離状態の母音:音韻 Lautsprache
  • 打楽器群:遊離状態の子音:音韻 Lautsprache

 

『母音頌』のユンガーが繰り出す言葉と生物のアナロジーから母音に対する原形質や肉質、子音に対する甲皮の喩を取り上げて、個々の単語を子音で母音を包み込んだ細胞のようなものだと想像するだけでは不十分である。ただ皮膜で中身を包んだだけでは生きものにも言葉にもなりきれないから。

 

定まった形と体積を持つものとは固体全般についての定義である。固体ににんべんが付いて個体になるためには、さらなる条件が必要とされる。個体を構成する諸要素は正しい場所に正しい向きで配列されていなければならない。パーツが同じでも配置のされ方が狂ってしまうと福笑いで、遊びの世界では笑い事で済むが、現実の世界に実在していたら化け物である。単に上下が全体として逆さまになっただけでも個体の顔はいっぺんに「読みづらく」なる。これは人だけでなく魚(メダカ)でも同様だという。 *2 徹頭徹尾方向づけられていること、極性こそが生命線であること。まさにその点において、人間の言語は生きものに、そしてその生きもの全ての根源的な共通語であるDNAの言語によく似ている。一文字単位にまで分解し尽くさないかぎり、語の極性はあたかも磁石のように執拗に残り続ける。『母音頌』に出てくるいくつかの比喩のなかでは、「甲皮」より「骨格」の語が子音にふさわしかろう。語において子音とは、単独では水のように不安定に移ろい続けて止まない母音に一定の順序関係を与える方向づけ因子である。

 

メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片、それは定まった形/極性を持つ言葉(狭義の言葉)、船(と鯨)の歌。シャンソンのこだま、それはもはや定まった形/極性を失った言葉。海の歌。打楽器群、それはいまや定まった形/極性を得つつある言葉、小さな舟の歌。

 

ともに音韻に属しながらもこだまと打楽器は位相がずれている。こだま(母音)は過ぎ去ったものの残響であり余韻であるが、打楽器(子音)は来るべきものの予兆だ。こだまは個別の出来事の輪郭を失い、原始的な情動言語へと溶解した液状の記憶である。いっぽう打楽器は、こだまの到来に先駆けてざわめき始める *3 とともに、メルヴィルがMisgivingsでThe hemlock shakes in the rafter, the oak in the driving keel. (簗では栂が、疾駆する竜骨では樫が、きしみ揺れている:山田省吾訳)と書いたような、やがて始まる戦争の微かな予兆的シグナルでもある。この差は母音と子音が具える性質の非対称性に起因している。「母音は子音によって捕らえられる」 *4 ことによって語詞になるとユンガーは言っているのであって、その逆ではない。子音は母音への走性を示すが、母音は子音への走性を欠いている。子音は音韻の世界から語詞の世界を志向する小さなベクトル(舟)である。Risonanze errantiの打楽器はしばしば、歌手が発するメルヴィルの歌詞をなぞるような挙動をみせる。語への憧れ。個体を作りたいという飢えは子音の側にのみ宿る。音韻の海に休らう水である母音に個体化への志向は発生しない。「ともに鳴り響きたい」という欲望は、その名のとおり子音=consonantから母音へと向けられた一方通行の片思いなのである。

 

母音と子音の非対称性は卵と精子の配偶子の非対称性である。

 

地球の重力下を方向性をもって進んでいこうとするものが必然的に具える体制が左右相称であるから、そんなわれら左右相称動物Bilateriaに「Caminantes=進みゆくものたち」の名はぴったりの愛称だ。カミナンテスは2種類の配偶子をつくる。卵は細胞質をふんだんに湛えた母音的な水の天体である。精子は細胞質を極力そぎ落として運動機能に特化した子音的な骨皮筋右衛門である。『母音頌』で母音を細胞質(原形質)になぞらえたユンガーは、『ヘリオーポリス』で原形質を海に喩えた。 *5 前後の極性がその存在のほぼすべてであるかのような精子を記号化すれば、一本の矢印になる。卵が海ならば、精子はその海を目指して進んでゆく小さな舟である。

 

卵は誘引物質を分泌して精子を誘惑はするものの、自ら精子に向かって進んでいくことはしない(できない)。卵における極性、とりわけ前後軸の喪失は卵の自発的で方向づけられた運動機能の喪失、つまりは進みゆくものとしてのアイデンティティ喪失の危機を示している。左右相称動物においては雄が――配偶子になってもなお明瞭な前後軸を維持し、前進することを止めようとしない忙し気な雄が、カミナンテスの魂の継承者である。精子は微睡む卵に発破をかける、Caminantes no hay caminos hay que caminar 卵よお前は進みゆくものだ、たとえ道はなくても進まなくてはならない、と。グレゴリー・ベイトソンがよく書いているカエル、あるいは線虫C. elegansなどの動物では、たしかに精子が卵の極性復活の引き金になっている。「受精前のカエルの卵は放射対称体であり、動物極と植物極への分化は見られても、中心と赤道を結ぶ半径相互の間にはいかなる差異も存在しない。では、この卵が左右対称の胚へと生長するとき、対称の軸面を決定する一本の経線はどのようにして選ばれるのだろうか――。答えは知られている。カエルの卵はその情報を外部から受信するのだ。精子の突入点が(実は細い繊維の先で一点を突ついただけでいいのだが)、一つの経線を他の経線と差異づけ、その経線に囲われた面が、生起する左右対称の軸面になるのである」。 *6 左右相称動物の発生は、卵という小さな球体の海に前後軸、背腹軸、左右軸を導入して、個体という一艘の船へと作り変えていく過程である。

 

Risonanze errantiには、メルヴィルの船という「左右相称動物」がdeath死に到るまでの一生の軌跡が描かれている。そこに母音的なこだまと子音的な打楽器が加わる。ところで、打楽器=子音の妥当性は一度吟味してみる価値がある。打楽器は子音的だって?本当に?鐘をひとつきする。するとまず聞こえてくる立ち上がりの音はたしかに子音的なkだ。しかしその一瞬のkの後に続くのは、彗星のように長く尾を曳いて沈黙の海へと曖昧に溶け込んでいく、ひたすら母音的なaaa...のこだまである。

 

kaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa

 

お分かりいただけただろうか、打楽器の音は大半が母音でできているのである云々と言いたいのではない。逆にこうして吟味することによって、打楽器がたしかに子音の性質をもつことが明らかになるのだ。打楽器の音響には子音の本質的特徴が見事に顕れている――明瞭な前後の極性。彗星のような、あるいは精子のような。打楽器に関して改めるべきは、その音を点的だとか点描的といった常套句で形容しようとする悪しき慣習である。打楽器が発する音は全然点ではない、矢印だ(時間に放出された精子)。打楽器とこだまの対比は極性が有るか否か、方向づけられているか否かの対比でもある。死に向かって前進していくメルヴィルの詩句は一艘の大きな船のCaminantes、打楽器は無数の小さな舟のCaminantes、卵に似て前後の極性が甚だ不明瞭なこだまは海洋的なno hay caminosである。

f:id:dubius0129:20160512002619p:plain

 

3年前に描いたRisonanze errantiの作品世界のスケッチ。四分音符=30の大海原をゆくメルヴィルの船という構図の難点は、Risonanze errantiの海であるところのシャンソンのこだまが、テンポこそほぼ四分音符=30で統一されているものの、見たところ潮だまりのようにちっぽけな十数個の断片でしかないという点である。こだまの断片性を連続性へと変換するために提案したのが島型に替わる穴型の断片であった。こだまの断片性は群島性ならぬ群穴性であって、照葉樹の密な葉叢の向こうにチラチラと覗き見える海の青のように、すべてのこだまは見えない(聞こえない)背後でひとつに繋がり合っていると解したのである。それから3年の月日が流れ去り、別の見方も可能だとこの頃では思うようになった。こだま=穴説に替わるこだま=卵説。メルヴィルの船は個体としては作品の終盤で死を迎えるが、その生涯をとおして配偶子を活発に生産していたのではないか。打楽器は船の精子、小さな舟。こだまは船の卵、小さな海。どうやら雌雄同体らしいメルヴィルの船が産んだ卵の数はたかだか十数個だが、精子の数は無数と言えるほどに厖大である。Risonanze errantiの打楽器に適用されているライヴ・エレクトロニクスは、生の演奏音をディレイとフィードバックによって大量に複製する電子的な精巣である。

 

Risonanze errantiはこだまと打楽器の受精により生を享けたメルヴィルの船の、Tempestの堅い産声で始まる。メルヴィルの船の最期を告げる言葉はmorteでもTodでも死でもなく、deathでなければならなかった。船の終焉のもようがdeathという語それ自体によって表現されているからである。deathはpastと同じく閉音節言語の典型的特徴を具えた語で、母音eaが子音d-thの皮膜ですっぽり包み込まれている。しかしdeathにはpastのような鉄壁の堅牢さの印象はない。thの無声歯摩擦音θのところで皮膜に破れが生じて、内容物が漏れ出しているからだ。船体崩壊による沈没の徴候。だからこれは船火事ではなく難破による言葉の死なのだ。船が死んだ時、中から水が漏れ出してくるのはどうしてだろうか?船は受精時にまで遡ればもともと小さな海だったからである。

*1:エルンスト・ユンガー「母音頌」、『言葉の秘密』、菅谷規矩雄訳、法政大学出版局、14頁

*2:Mu-Yun Wang and Hideaki Takeuchi (2017). Individual recognition and the ‘face inversion effect” in medaka fish (Orzias latipes). eLife 2017; 6:e24728. [link]

*3:Marinella Ramazzotti (2017). Risonanze erranti o la Winterreise della memoria. shiiin – eln 1, p. 40-42.

*4:ユンガー『パリ日記』、山本尤訳、月曜社、258頁

*5:ユンガー『ヘリオーポリス・上』、田尻三千夫訳、国書刊行会、114頁

*6:ベイトソン『精神の生態学(改訂第2版)』、佐藤良明訳、新思索社、508頁

断ち切られない歌 後篇の中 5/14

船の生殖孔

Risonanze errantiの作品世界には、南北戦争勃発直前の時の経過を描いたBattle-Pieces巻頭の三篇の詩が時間的配列を保ったまま現れることによって、死へ、そしてその先の戦争へと向かう一筋の不可逆的な時の流れが引かれている。この片道航路には「しかし」、一箇所「穴」が空いている。Battle-Piecesの三篇以外のメルヴィルの詩の引用を、ノーノは決定版でも一箇所だけ残した。生前は未発表のTha Lake (Pontoosuce) は秋の湖畔の瞑想をうたった全96行の詩で、ノーノがRisonanze errantiの歌詞に採った60行めのBut look...hark!(原文はBut look—and hark!)は、前半のAll dies万物は死ぬから後半のAll revolves万物は流転するへと舵を切る転機の一行である(「聞けhark」というのは、湖畔の空き地に生えるヒカゲノカズラが女性の人格を得て、「すべては死ぬだなんて溜息をついているのは誰?」と詩人に語りかけてくるからである)。 *1

 

All dies → But look...hark!  → All revolves

 

The Lakeの穴は、112小節から120小節にかけてバスフルートとチューバ、クロタルが専らC#音を奏でる平坦な音の「湖面」である。『白鯨』のピークォド号の航路にもやはり同じように一箇所穴が空いており、その穴もやはり同じようにThe Lakeであった。忘れ得ぬ87章The Grand Armada大連合艦隊。狂奔する鯨の大群の中心部に「a serene valley lake静かな谷間の湖」のように静謐な海域が一時的に形成される。奥行きの開示をかたくなに拒んでいた海が、そこでだけは「いちじるしく深いところまで、おどろくほど透明(阿部知二訳)」に透き通り、海中を平和に遊弋する鯨の姿をいっとき垣間見させてくれる。それをメルヴィル(イシュメイル)はThe Lakeと呼ぶ。

...as if from some mountain torrent wa had slid into a serene valley lake.

*

The Lake, as I have hinted, was to a considerable depth exceedingly transparent...

 

Risonanze errantiのTha Lakeの穴はなにを垣間見させてくれるのだろう?一面においてこの穴は、Prometeoに到る5作品をカッチャーリと共に制作していた70年代半ばから80年代半ばにかけての日々へとつうじる覗き穴である。But look...hark!(しかし/見よ/聞け)の三語それぞれにカッチャーリの思想の残響を聞き取ることはたやすい。look...harkはカッチャーリが編纂したDas atmende KlarseinのテキストのSIEHE /  Ascoltaに直接つうじる。AscoltaがPrometeoの中心的キーワードにしてモットーであることは承知のとおりである。 Guai ai gelidi mostriの註釈でカッチャーリはフランツ・ローゼンツヴァイクの「勝利する<しかし>」(le puissant Mais)にふれている。『救済の星』の『詩篇』第一一五章の文法的分析 *2 からカッチャーリが引いてきた「しかし」は、手短に言えば、死へと向かって継起する時間に穿たれた「穴」(=瞬間のいま)そのものを指している。 *3

 

「マッシモ・カッチャーリに捧げる連作歌曲」の副題をもちながらも、Risonanze errantiはPrometeoへと連なる多島海の風土とは相当に趣の異なる異郷の響きに満ちた音楽である。まず声。Das atmende Klarseinにとりわけ顕著な天使的平静とは打って変わって、ノーノがプログラムノートでpfffpppfpppppppfffff nel mio cuoreと書いているとおりの、人間的な感情の起伏に富んだ歌唱。Risonanze errantiの楽譜の声のパートにはwütend憤激、wie Schrei叫びのように、addolorato – triste深い嘆き――悲しみ、dolcissimoごく甘美に、wütend – contro tutti!憤激――すべてに対する、kalt冷たく、zweifelnd!疑い、mit Überraschung!驚きとともに、duro wie Anklage告発のように厳しく、といった感情表現に関する但し書きが随所に書き込まれているのが特色である。打楽器。カッチャーリとの共作群ではいったんほぼ鳴り止んでいた打楽器(5作品をとおして打楽器の使用はPrometeoのグラスのみ)がRisonanze errantiでは一転して大々的に復活する。そして管楽器。早くも2小節めから現れるピッコロの、Prometeoまでの後期作品ではついぞ聞き慣れぬ、耳をつんざくような、取り付く島もない、凛冽にして硬質な音の蒼穹はGalina Ustvolskayaの世界に迷い込んだかと錯覚を起こすほどだ。その中にあって、112~120小節のThe Lakeの穴では、armonici – eolien – varia qualità del suonoの奏法指定の下で、ピッコロと持ち替えのバスフルートによる風のような呼吸音を孕んだ柔らかい多孔性の響きが、カッチャーリともに創ったPrometeoを核とする作品群のエキスのように湧出してくる。特にRoberto Fabbricianiの演奏では、Das atmende Klarseinの最初のフルート独奏部で4たび奏でられる甘美なハーモニクスもharkの歌声に重なり合って一瞬出現する。Risonanze errantiのフルートでarmonici – eolienの指示が付されているのはここを含めて3箇所のみである。

 

カッチャーリの穴とノーノの穴を比べてみよう。「天使のこの幼児性が輝ける休止符、つまり時間に穴を穿ち、その連続を引き裂く亀裂を生み出す」。 *4 カッチャーリ/ローゼンツヴァイクの「しかし」の穴は、クロノロジカルな時間の連続性を断ち切り、死へと向かう時の流れを束の間ではあれ止める機能をもつ穴である。「このしかしの時間、無にも等しい継続から切り取られた断片は、真に諸時間のなかの時間たる一片である」 *5 「新しい時間は、天使が休むことなく正しい表象を探求する時間、現在=瞬間、中断、継続の停止、いま=ときである」。 *6 いっぽうノーノ/メルヴィルの「しかし」の穴は、そこにおいてAll diesがAll revolvesへと転じる穴であった。動物でいえば、All diesとは個体の死をもって文字どおりのdead endを迎える体細胞系列、All revolvesとは受精によって次世代へ、さらにその先へ連綿とつづいていく生殖細胞系列である。ノーノの穴はクロノロジカルな時の流れに乗り死に向かって進んでいくメルヴィルの船の船体に設けられた産卵、放精、あるいは分娩のための生殖孔である。この穴がもたらすものは流れの停止ではなく、別の流れへの進路変更である。

 

穴は流れの途絶で有り得るだろうか。穴それ自体はたしかに動かない。しかし、「器という形が自然にそこに水のイメージを溜めてしまう様に」、 *7 穴は自然にそこをとおる流れのイメージを発生させてしまう。これは穴が総じて具えているアフォーダンスである。路傍に洞穴を見つければ入って探検してみたくなるのも、とんがりコーンの穴に指を突っ込んでみたくなるのも、穴が不可避的に生じさせる動線に誘われての所作である。最近出たドーナツの穴をめぐる本 *8 の一章で、「穴と呼ぶ空間は後から外力を加えてあけた空間である」 *9 という穴の定義が提唱されていた。この定義は穴というものにつきまとう作為性を巧く言い表している。別の惑星に降り立ってそこに穴と呼び得る構造を数多く発見したとき、この星にはなにか生きものが棲んでいるのではないかとの疑いを誰もが抱くだろう。そのような穴を空けることのできる力と意図を有するなにものかの存在を穴が暗示するからである。ものの形を知覚することは、その形が形成されるまでの過程を時を遡って再現する試行だと言う人もいる。 *10 穴の時間を遡っていけば、過去のある時点で穴が空いている方向にはたらいた穿つ力のイメージが必ず喚び起こされるはずだ。

 

 西欧式の楽譜のように左から右へと横に流れている時間に穴を穿つ。するとその穴が空いている前後方向に別の時間の流れが生じる。穴は流れを断ち切るのではない、流れの向きを変えるのである。ノーノの最大の理解者であるAndré Richardは、切断ではなく漂泊の一手段としての穴の効能を流石はよく心得ている。「裂け目によって中断された音楽の流れは、その危機と官能と決断の刻をとおして別のかたちの把握へと、旅や漂泊の想念へと導かれていきます」。 *11

 

補足:島型断片・穴型断片・船型断片についてのメモ

「断片のメタファーと言えばね、まあ島なんですけれども」

「穴や船って可能性もあるだろ!」

*

穴は2種類の動きを誘発する。

  • 知覚的補完による 穴の向こう側の見えない空間への 際限ない拡散運動
  • アフォーダンスによる 穴をくぐり抜ける 方向づけられた運動

 

人間が無限を見るための一番良い方法は穴越しに見ることである。

 

f:id:dubius0129:20180209220159p:plain

上の図は二通りに解釈できる。白い面の上に青い円形の物体が島のように置かれている。白い面に穴が空いて向こう側の青が覗き見えている。白/青を図地の地/図とみるか、図/地とみるかの違いである。青を穴(つまり図地の地)とみなすということは、白と青を境界づける線の所有権を白に帰属させるということである。輪郭線を失った青は白に隠れて見えない背後の空間にとめどなく水のように拡散する。イメージの中で発生するこの拡散運動にはまさしく際限がない。私たちは無限の拡がりを直接一望のもとに見渡すことはできないが、なにものかの背後に無限の拡がりを間接的にイメージすることならできる。

 

穴が誘発する第二の運動は、今しがた述べた、穴をくぐり抜ける運動である。

 

f:id:dubius0129:20180210095648p:plain

穴が誘発する2種類の運動イメージを1枚の画面に描くと「広大無辺の海原を進みゆく船の航跡」の図になる。穴をとおしてイメージの中に拡がる海には必ず船が浮かぶのである。

 

f:id:dubius0129:20180210095702p:plain

穴型の断片は断片性を2種類の連続性に――すなわち、知覚的補完によって果てしなく拡がる海の連続性に、アフォーダンスによって船の進行の連続性に――変換する特性を具えた断片である。穴型断片と船型断片の関係は深い。穴が誘発するイメージの空間には船がつきものだからである。いっぽう穴型断片と島型断片は図地反転の対蹠的な関係にある。穴が島に反転するとただちに船影も消える。

*1:ノーノが参照していたイタリア版のメルヴィル選詩集Poesie di guerra e di mareの目次はDa: Battle-Pieces and Aspects of the War、Da: John Marr and Other Sailorsの二部構成をとり、The Lakeは前者の末尾に置かれているので、この詩集だけを見ていると恰もThe LakeがBattle-Piecesの一篇であるかのような印象を受ける。

*2:フランツ・ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、387~391頁

*3:カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、77頁

*4:同上、49頁

*5:同上、77頁

*6:同上、76頁

*7:桑原徹「凹のプログラム」、『要素(書肆山田)』所収

*8:芝垣亮介・奥田太郎編『失われたドーナツの穴を求めて』、さいはて社

*9:芝垣亮介「私たちは何を「ドーナツの穴」と呼ぶのか」

*10:Michael Leyton (1992). Symmetry, Causality, Mind. Cambridge, Massachusetts: MIT Press.

*11:Entretien avec André Richard. [pdf]

断ち切られない歌 後篇の中 6/14

とりあえずシンメトリー、略してとりシン

 「正面性」ということに関して穴と左右対称とのあいだには互換性がある。無地の平面に穴をひとつ空ける、するとそれだけで正面向きの印象が生まれる。穴を空ければ穴をとおる前後方向の動線が自然に生起するからである。左右対称の図形をなにかが横を向いている姿だと想像することも非常に難しい。左右対称形は穴と同様に、垂直に立つ対称軸に直交する前後方向の動線を強力に暗示する。地球の重力下をまっすぐに方向性をもって進んでいくCaminantesの基本体制が左右対称だからである。「われわれは何を頼りに、これらを動物であると識別しうるのであろうか。その識別の基礎をなすものはほかでもない、動物の左右対称性という特徴である」。 *1 そしてこの穴と左右対称は、どちらもノーノの譜面上に頻出する。穴は断片化の進んだノーノの音と音のあいだにひらく沈黙の空隙である(それを穴として捉えれば沈黙もまた断片的なのだ)。以下では左右対称のほうを詳しく取り上げる。

 

Alvise Vidolin *2 やHans Peter Haller *3 といった、下流域のノーノ――下流域とはつまり音楽創造の最終段階の練習や実演の現場ということ――をよく知る仕事仲間の「彼はアシンメトリーを愛していた」という証言にも拘らず、さらにはノーノ自身が1984年のWerner Lindenとの対話の中で「私の思考にとって重要なのはアシンメトリックなモメントだ」 *4 と発言しているにも拘らず、ノーノはひとたび譜面を前にして筆記具を手にすると、そこかしこにシンメトリックな構造(点対称の場合もあるが多くは左右対称)を拵えて倦むことがない。ノーノの楽曲分析では楽譜に潜むシンメトリー探しが一種のルーチンのようになっている。

 

後期ノーノ作品のスケッチ分析の古典であるStefan Dreesの著書Architektur und Fragment *5 で最初に俎上に上がるのは、友人の建築家カルロ・スカルパの死を悼んで1984年に作られた管弦楽曲A Carlo Scarpa, architetto, ai suoi infiniti possibiliである。本作は総小節数が71小節のとりわけ小さな「ゲノムサイズ」のおかげで作曲過程の精緻な分析に適している。このモデル作品の成立過程を克明に辿ったDreesの研究成果から、ノーノが少なくとも譜面上ではいかにシンメトリーを愛しているかを具体的にみていこう。

 

A Carlo ScarpaはRisonanze errantiの「船の歌」の先駆けでもある。71小節という数には意味があって、これはカルロ・スカルパの71歳半の生涯を意識したものである。ノーノはスカルパの誕生から死に到るまでの一生の航跡をこの作品の背骨に据えたのだ(最終小節の末尾に置かれているフェルマータ付の休止が「半」に相当する)。単純な総数の一致だけではなく、各々の小節がスカルパの年齢に対応している可能性も示唆されている、たとえば、16小節目の総休止は16歳の時のAccademia Reale di Belle Artiへの入学という人生の大きな節目を表しているのではないか、といった風に。 *6

 

ノーノはまず全体の大まかな構成を設計した後で、各オクターブが3声部からなる7オクターブ21段の音域別の楽譜を書き、それを何度か書き直した後で楽器別の楽譜に書き換えて曲を作り上げている。対称性は初期の全体構成の段階からあちこちに顔を覗かせている。たとえば、速度指定が四分音符=60である5つのセクション(そのほかのセクションは四分音符=30)の小節数が登場順に1-2-3-2-1と推移すること。いっぽうで、この5つのセクションの全曲の中での分布は後寄りにずれていて非対称である。こうした対称性と非対称性の相互浸透がノーノの作曲法の顕著な特質だとDreesは指摘する。 *7

 

最初に書かれた音域別の楽譜は、細かい変異も含めれば200種類ほどのリズムパターンを組み合わせて作ったピッチ指定のないリズム譜である。厖大な変異の大半は基本リズムの変形で得られたもので、逆行形が多用されているため、オリジナルと変異型はしばしば鏡面対称の関係をとる。リズムパターンの組み合わせのもっとも基本的な構築原理はさまざまなスケールで現れる対称性である。

 

次の書き直し以降に導入されるピッチは、Carlo ScarpaのイニシャルであるCとSの二つの中心音とその周囲の16分音に分割された非常に細かい微分音である。二重線で区切られた22のセクションごとのピッチの高低は、各々の中心音を軸としてしばしば対称に分布している。

 

初期のスケッチに認められる対称性は、その後の度重なる修正の過程で、新たな挿入句、要素の削除、配置の移動などによって喪われたり不明瞭化する傾向がある。このことから、対称性はノーノの破壊的作曲法scomposizioneにおいて解体の標的となるべく真っ先に構築されるもろもろの「堅い」構造の一種ではないか、という仮説が立てられるが、しかしこれは十分な説明となり得ない。第一に、対称性はたしかに作曲の行程で破壊の手に曝されるが、それでも少なからぬ割合が攪乱を乗り越え最後まで生き残る(そしてそれが出版された楽譜にしか接する機会のない、研究者ではない一般人の目にも留まる)。第二に、ノーノの修正作業は対称性に関して破壊一辺倒ではなく、初めは存在しなかった新たな対称性が逆に後から作られることもままある。たとえば、スケッチ第2稿の26-29小節の低音域に現れる綺麗なリズムの鏡面対称は、第3稿の27-30小節(2小節めに新たな挿入が入るので相同部位が1小節ずれている)ではほぼ消滅してしまっているが、しかしそれに替わって第3稿では、27-30小節の低→高への音域の上昇、31小節の総休止、32-33小節の最高音域の頂上を経て、34-36小節の高→低への音域の下降の山形をなす、一瞥して明らかな音域分布の左右対称形が楽譜上に新規に形成されている。 *8

 

正面性と対面性

ノーノのシンメトリーを解釈するための大きなヒントを、私は画家の中西夏之が唱える正面性という考え方から得た。 *9 中西夏之から教わったことは、より広く言えば、断片性と連続性を接続するひとつの方法としての「向きの違い」という、単純ながらも目覚ましい発想転換の術である。「流れが断ち切られたように見えるのかい?いやいや、流れの向きが変わっただけだよ」「えっ、ひょっとしてカイロスって正面を向いたクロノスのことだったんですか?」

 

絵の正面性とはなにか――「絵はまず立ち停りを企て、横の連続を切って直角に正面なるものを強制する。河の流れに沿って来た人が橋の上で直進してくる流れと対面するように。人はそれをボンヤリといつまでも凝視めている」。 *10 正面性に関して、「横の連続を切って」やあるいは「時間の流れの外に出て」 *11 といった言い回しを中西夏之が用いているとしても、正面性が立ち現れてくる特異点は時の切断、停止の場ではない。「時の流れに沿って進んでいる」から「流れてくる時間に正面から相対する」への、変わらず流れ続ける時間に対して私の側が取る向きの変化、そしてそれに伴う時の眺望の変化である。船で喩えるなら舷側から檣頭への移動。

 

中西夏之には「絵」と呼ばれる平面が左辺と右辺の対面によって成ったものだという並外れたイメージがある。「画家の眼前にある平面自体、すでに何ものかと出会った結果なのだ。通常の絵画形式の平面は左辺と右辺の出会いなのである」。 *12 左と右の遠方からそれぞれ接近してきた左辺と右辺が、しかし一本の垂直線への融合にまでは到らず残された隙間、それが絵の横幅なのである、と。 *13

 

→( )←

 

左遠方からの左辺の→と右遠方からの右辺の←とで、横方向の流れは打ち消しあってゼロになる。人は→と←に挟まれた絵の前に立ち止まることを促される(強いられる)。視線が絵の前でゆっくり静止する。それに応じて今度は前後方向に動線が引かれる。

 

中西夏之が絵の正面性を導き出す過程では、鏡面対称の特性が最大限に活用されている。左辺と右辺の相互接近そして対面(つまり「出会い」)を表す

 

→( )←

 

の図が鏡面対称になっていることにまず注目しよう。鏡面対称とはなにかという問いに対するひとつの答えがここに顕れている。すなわち、鏡面対称とは二つの別個の存在が互いに向かい合う対面関係を模式的に表す図である、ということ。

 

たいていは矩形である絵の画面を、中西夏之は左辺と右辺の対面関係からなる左右対称形として意識している。すると今度はその絵全体に対して正面性が意識されてくる。これは先に述べた鏡面対称のもう一つの重要な特性である。鏡面対称は特に対称軸が垂直に立つ左右対称の場合、進みゆくものの正面向きの像になり、その軸に直交する前後軸すなわち進行方向を強力に暗示する。

 

中西夏之の唱える絵の正面性が、絵とそれを見る人の対面性の謂でもあるということは、「私はこのように正面を露わにしている。あなたの正面を私に向けてほしい」 *14 というセザンヌの絵の台詞、あるいは「立っている姿勢の向きを“真正面として位置づけてくれる拡がりのあるモノ”」 *15 といった記述から明らかだ。結局のところ正面性とは、十字を描く二重の鏡面対称=対面関係なのである。第一に、左辺と右辺の対面によって生じる画布の鏡面対称。第二に、絵とそれを見る人の対面によって生じる鏡面対称。

 

「山頂の石蹴り」と題された小文の一節では、以上のイメージにおける動線の推移が非常にシンプルに表現されている。「一定の位置に立てられた平らなものの前に近づく。その時気がついたことは、自身の体は片身ずつ左右からやってきたものであり、それが平面に対して前後に動いているのである」 *16

*1:マーティン・ガードナー『新版 自然界における左と右』、坪井忠二・藤井昭彦・小島弘訳、紀伊國屋書店、85頁

*2:Das atmende Klarsein Instructional DVD: Ricordi 139378.

*3:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 153.

*4:Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-206, p. 206.

*5:Stefan Drees (1998). Architektur und Fragment: Studien zu späten Kompositionen Luigi Nonos. Saarbrücken: Pfau.

*6:Ibid., p. 84.

*7:Ibid., p. 37.

*8:Ibid., p. 48.

*9:中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』、筑摩書房

*10:同上、155頁

*11:同上、103頁

*12:同上、104頁

*13:同上、112頁

*14:同上、107頁

*15:同上、47頁

*16:同上、18頁