アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 7/9

近藤譲の音

近藤譲が語る音の手触りは、それはもうとにかく固い。なにしろ「ひとつの音」のさらに上をいく「一個の音」なる恐るべき表現が出てくるのだから。

そこいらに転がっている石ころ一つもきれいですし、音一個も美しいですし、 *1

*

聴くのは旋律のほうであって、それを構成する一個一個の音には、もう誰も関心がなくなるわけです。 *2

*

例えば、演奏時間にして五分間の長さを書いた後も、次の五分間分のものプラス一個の音を書くときには、曲頭からそれまで書いたものをすべて聴いていってその一個の音を決める。 *3

 

大海原のとある一角を「ひとつの水」などとはたしかに言い表さないにしても、沖合で盛り上がりつつある海面を指して「ひとつの波」と言ったりすることはとりたてて不自然ではない。だが同じものを指さして「あの一個の波が」と口走っている人がもし隣にいたら、思わず「え?」と聞き返してしまうだろう。大多数の人間の生涯のなかで、液状のものに向かって「一個の」と口にする機会が訪れる回数はまずゼロ回だろうと想像される。近藤譲の言う「一個の音」なるまぎれもない固形物とは「一匹のオタマジャクシ」のことなんじゃないか――そう思っていると、じじつ三番目の引用のすぐ後で、「一個の音」は「個々の音符」と言い換えられている。

 

「私のこの十五年間ぐらいの作曲はどれもほぼ同じような仕方で行なわれています」 *4 という近藤譲の曲づくりは、まず出だしの一つ目の音を決めることからはじまる。「最初の音がとにかくどれかに決まると、それを繰り返し何度も聴く。聴いているうちに、二つ目の音を思いつくわけです。そこで、最初の音のあとに二つ目の音を書く。(……)ともかく、私は二つ目の音を思いついたらこんどは一つ目と二つ目の音を聴いて三つ目の音を、三つ目の音を思いついたら一つ目、二つ目、三つ目を聴いて四つ目の音をというふうに、いつも必ず始めから聴いて、順番に一つ一つ音を前に足していくというやり方で作曲していきます」。 *5 同様の作業を繰り返していった末に最後の一音が決まる、するとその時点で一曲の近藤譲作品が完成することになる。

 

さて、そうなると近藤譲が作る音楽は、エロワが分析した非西欧圏の音楽とは異なり、n個の音(符)に余すところなくきれいに割り切れるとみてよいのだろうか。『線の音楽』の議論によるとどうやらそういうことになりそうである。この本のなかで近藤譲は、割り切れない音、すなわち分節不可能な音の存在を、完全なる無音を除いてきっぱりと否定しているからである。聞こえる音に関しては、「高さ、強さ、長さ、音色、その他の要素の上の差異によって、常に相対的に他の音から区別されて、ひとつの音として認識される」 *6 というのが近藤譲の立場である。この基準のもとでは、「海のような」持続音も、複数の音の接合からなる「sounds」とみなされることになる。

作品全体が分割できないひとつの持続音で成り立っていても、音色等の――音の「長さ」以外のパラメーター――が時間を逐って変化してゆけば、聴き手は「認識上の分節化」によって、その持続の中に「接合されたいくつかの音」を聴き分けてしまい、それは最早文字通りの「一音の音楽」ではなくなる。

(……)

或る作品を構成する音がどれほど単一的な性格を具えていても、音の非分割性と無変化が共に完全でなければ、それは複数の音を含んでいると考えなければならない。 *7

 

要するに、近藤譲がイメージする音は徹頭徹尾、countableなのである。試しに最後の文を、不加算名詞の代表格たる水の世界の記述に変換してみよう。

或る海を構成する水がどれほど単一的な性格を具えていても、水の非分割性と無変化が共に完全でなければ、それは複数の水を含んでいると考えなければならない。

分子レベルまで下りていかなければ意味のとおらないような、なんとも奇怪な文言になってしまう。エロワの次の言葉と比べてもまったく対照的な認識だ。

ヨーロッパなら、いくつかの音に分割され、その間を跳躍進行するように捉えられるものが、インドでは、ひとつのまとまりとして捉えられ、その内部で音は滑るように上下動しているわけです。 *8

 

近藤譲の音イメージの尋常でない水気の無さに恐れ戦いた私は『線の音楽』などほかの著作も読んで理由の把握に努め、おおむね以下のような理解に達した。 

 

鳥のさえずりも、風にそよぐ草の葉ずれの音も、椅子が軋む音も、この世界に鳴り響くすべての音は音楽である――近藤譲はこの種のよくある考え方に与する作曲家ではない。彼のなかには作曲家が作る音楽とはなにかについての私的で明快な定義がある。「作曲とは書く仕事だ」というのがそれである。

筆記文化というもの、これはある意味で長い間西洋の芸術音楽を支えてきたものであって、作曲家というのは、書いてこそできる音楽というものを探究する仕事だ、という自覚をぼく自身個人的には持っているわけです。 *9

その書く仕事のなかでも近藤譲の最大の関心事は、ひとつの音をどうやって別の音に(書き)繋いでいくかという「連接」の問題である。本人は「音をどう繋ぐかということにしか関心がない」 、「この音の次に何の音を置こうかということしか考えていない」 とまで言い切っているので、 *10 「最大」というだけではまだまだ足りない、「唯一無二」と言うべきなのかもしれない。

 

近藤譲が音楽を作るにあたっては、彼の考える作曲行為である、音を「書き」「繋ぐ」作業が実行可能となるように、自然のままの「単なる音」に対して最低限の下処理を施しておく必要がある。木の家を建てるためには、すべてに先立って、森に生えている木を材木に加工しておかなければ話がはじまらないのと同じように。

人が作曲行為によって操作する音は、無前提に存在するわけではない。作曲以前に、音は作曲行為が可能となる状態に準備されていなければならない。 *11

 

近藤譲の場合、この準備作業は一種の治水対策の様相を呈する。音を書き繋ぐということは、要するに音を「所定の位置に並べ置く」ということである(「(私は)一つ一つ音を置いて作曲している」 *12 )。このことから必然的に、音が湛える水の気配はいかなるものであれ抑圧されねばならないことになる。イメージのなかの音が水気を孕んでしまったら、もはやそれを書くことも望みどおりの位置に並べ置くことも覚束なくなってしまうのだから。近藤譲の作曲の用途のために準備される「音楽可能的な音」は、ひとつ、ふたつと、いや一個、二個と明快に数えられるような、イメージのなかで手に取って文字どおり掌握することのできるようなかたちに、余すところなく整然と分節化されていることが絶対的に必要とされるのだ。

 

特に『線の音楽』を読むと強く感じられることだが、近藤譲は「単なる音sound」を複数の「ひとつの音a sound」へと分節化していく人為的工程の大半を、(大半の)人間の知覚が生来帯びているメドゥーサ的特性に起因する必然の産物に帰しているようにみえる。

音は、それが聴こえるものでありさえすれば、ほとんどどんな場合にも分節化され得る。人々の生活を取り巻く様々な音を考えてみれば、意識的にはどのような音も分節化され、他の音から区別され得ることは自明だろう。 *13

 

近藤譲が事もなげに「自明だ」の一言で済ませているこの世界観が私を心の底から震撼させる。変化は感じられるけれども明瞭に分節化はできない、水のように滑らかな連続変化の余地が一切認められないような無味「乾燥」な世界のことを私は想像したくないので、あらゆる音は「常に相対的に他の音から区別されて、ひとつの音として認識される」ではなく、「せいぜい相対的にしか他の音と区別されない」と言うほうを取りたいのだ。近藤譲はそうではない、たとえ相対的であってもこの音をあの音から分けることができるという側面をあくまで強調する。これはひとえに近藤譲が、音は分節化されるものだという信頼のうえに全面的に立脚している連接の音楽のスペシャリストであるがゆえのことだろう。個人的にあまり同意はしたくないけれども、そこが近藤式作曲法にとって譲ることのできない生命線なのだという事情を理解することはできる。

 

それに引き換え、私が同意も出来なければおおよそ理解もし難いのが、GUUZENSEIの音楽とか称するかの有名なアレである。

*1:近藤譲「音楽の意味?」、『現代音楽のポリティックス』、水声社、162頁

*2:同上、163頁

*3:同上、164頁

*4:同上、156頁

*5:同上、158頁

*6:近藤譲『線の音楽』、朝日出版社、1979年、16頁

*7:同上、30頁

*8:エロワ「東洋の声=道」、『現代音楽のポリティックス』、水声社、116頁

*9:小林康夫近藤譲・笠羽映子「音楽のポストモダン」、『現代音楽のポリティックス』、水声社、51頁

*10:「音楽の意味?」、178頁

*11:『線の音楽』、朝日出版社、14頁

*12:「音楽の意味?」、165頁

*13:『線の音楽』、朝日出版社、20頁

断ち切られない歌 後篇の上 8/9

FUKAKAIな音楽

「浜辺で石をみつけようとするように、音をみつけている」、あるいは「浜辺で散歩しながら貝を集めるように音を集めた」とケージが言っているのを聞いて、言葉尻をとらえるようではあるが、「ああやはり」と私は思う。やはりケージのイメージのなかの音は石ころや貝殻みたいな形をしているんだな、と。石ころ、貝殻。一言でいえば固形物である。石や貝殻は固形物であるから、ひとつふたつと手に取って拾い集めることができる。拾うことができるということは、環境から切り離して好きな場所へ自在に移動させることができるということでもある。浜辺で拾った石や貝は家に持ち帰ってもいいし、キノコが生えている内陸の森に撒いてもいい。偶然性の音楽は音がこのような存在形態をとっていることを暗黙の前提として成立しているのである。

 

……持続の構造枠が予め設定され、準備された素材がそこにランダムに配置されるのである。しかしこのランダムな素材の配置自体に意味がある訳でないことはいうまでもない。無意識的にせよ、何らかの基準に従って実行された配置とは異なり、素材のこの偶然的な配置によって目指されていることは、聴き手の聴覚的関心を、個々の響きという出来事の内部へ、作曲家が作り出したのではない、響きの内部構造へと向けることである。そのための響きの独立性、今、ここでの唯一性を実現するためにこそチャンス・オペレーションズが必要なのである。そしてさらにこの独立性を強化するためにケージは、音と音とを物理的に切り離す。『易の音楽』においては、出現する音と音との間には、ある程度の長さをもった、不規則な持続をもった沈黙が挿入されており、それが音と音との間の関係を断つことに役だっているのである。こうした持続や沈黙もチャンス・オペレーションズによって決定された。 *1

これは偶然性の音楽の作り方を解説した文章の一部である。偶然性の音楽を実践するために作曲家が行うべき二種類の音の操作が挙げられている(これを作曲家による操作だと思わないのは偶然性の音楽の信奉者だけである)。第一に、音をランダムに「配置する」こと。第二に、音と音とを物理的に「切り離して」関係性を「断つ」こと。これらの操作はどんな音に対しても無条件で行えるわけではない。近藤譲の表現をもじって言えば、偶然性の音楽の作曲以前に、音は偶然性の音楽の作曲行為が可能となる状態に準備されていなければならない。

 

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エロワの講演で紹介された北インドの歌のスペクトログラム。この音楽を無作為に並べ替えてみよと言われても、どこをどう手をつけていいものやら皆目見当がつかない。

 

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ノーノが図示したシナゴーグの歌の旋律線も同様だ。並べ替えの単位となるべき個々の音(a sound)がそもそもどれなのかが定められないからである。その種の人為的操作を行うにしては、これらの音はあまりに水っぽすぎるのだ。

 

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音が上図のように成型加工された時点で一挙に見通しがひらけてくる。ここには固有の輪郭を具えた5つの「堅い」音があって、それらが順に連結されている、と認識できる。そこでその5つの音をバラバラに分離して、あいだに沈黙と呼ばれる使い勝手のよいスペーサーを挟んでやれば、先ほどの解説で書かれていたとおりの状況の再現になる。偶然性の音楽に用いられる音素材が満たすべき要件は、近藤譲の線の音楽が必要としている音の条件と基本的に同じである。すなわち、音が複数個の「ひとつの音 a sound」へと完全に分節化/固化していること。HPSCHDという、ハープシコードのテープと生演奏のための作品のレコードにチャンス・オペレーションを適用した例では、もともとの音源にここと特定できるような明瞭な切れ目が見当たらないため、全体を5秒刻みのブロックに強制分割してパラメータ設定の単位とするという、海面を5m四方の碁盤目に切り分けて並び替えていくのにも等しい力づくの強硬策がとられている。 *2

 

たとえそれが人間の知覚特性の半ば必然の産物だとしても、「ひとつの音」は飽くまで人の作りしものだという大切な視点が近藤譲にはある。『線の音楽』のなかで近藤譲は、音の構造化の二段階モデルを唱えている。第一段階、音の分節化。形のない切れ目のない「単なる音」が、複数の「ひとつの音 a sound」に整然と切り分けられる。第二段階、音の連接。分節された複数の音が線へと繋ぎあわされ関係づけられていく。人間が音の構造化への決定的な第一歩を踏み出したとき、「ただの音」が「ひとつの音」になる。そしてその第一歩は構造化の全行程をとおして最大の歩幅でもある。Divide et impera、分割して統治せよ。本当の意味で手つかずの音の原野に分節化という名の区画整理さえ施されれば、もうこっちのものだ。あとは切り分けられた個々の音同士の関係性を人間がいかようにでも、意のままに調節することができる。「関係のあいまいさ」に留意しつつ音を順に継ぎ足していけば近藤式・線の音楽になり、音列の法則性に厳格に則り音を配列すれば総音列音楽になる。そのなかで、敢えてまったく無作為に音を並べるという手もある。偶然性の音楽とはただ単に、分節化によって人間が手中にしたよりどりみどりの音の配列パターンのうちの一選択肢に過ぎない。n個の単位にデータ化された加工済みの音については、確率論の援用によってお望みなら並べ方を定量的に「きちんとでたらめにする」こともできる、ただそれだけのことである。チャンス・オペレーションの手法をとおして独立性が確保されたと喧伝されている「ひとつの音」を、「作曲家が作り出したのではない、個々の響きの唯一性」といった耳ざわりのよい常套句で殊更に飾り立てることが妥当であるとは私には思えない。ひとつの音、それは森に生えている手つかずの自然な木ではなく材木の一片である。海に泳いでいる生きた魚ではなく刺身のひときれである。ひとつの音が生の素材であるとしたら、それは刺身がraw fishであるのと同じ意味においてである。煮られても焼かれても揚げられてもいないしどんな味付けも施されていないが、既に人の手で切り分けられたものだ(sliced raw sound)。ひとつの音なるものにしばしば冠せられる、純粋な音、手付かずの音、ありのままの音、音そのもの、ただそこに存在している音、音それ自体などといった完全無加工をうたうキャッチコピーは、本来すべて不当表示である。

 

皿の上に間隔を置いて並べられた数切れの刺身を前にして、「さあ見てくれこの刺身を。なんの加工も加えられていない、ありのままの、手つかずの素材だ。料理人である私の作為はいっさいはたらいていない。あ、それからこの刺身と刺身のあいだの間隔、それも私の意図が入らないように乱数表にしたがって決めてるんだよ」などとゴタクを並べているシェフがもしいたら、少なくとも私はそのような料理人をリスペクトすることはまずなかろう、というか、ぶっちゃけて言えば「アホかこいつは」と思うだろう。私が偶然性の音楽に対して抱いている印象はまあだいたいそんな感じである。

*1:庄野進『聴取の詩学』、勁草書房、62~63頁

*2:同上、72頁

断ち切られない歌 後篇の上 9/9

ノーノの音

ノーノの講演 *1 の前半部は以前の記事で紹介した。その内容は、ノーノが黒板に描いた三段階の図で要約される。これは直接的にはフランドル楽派の作曲技法を模式図にしたものであるが、ノーノ本人の作曲法のエッセンスを示した図だと受けとってかまわない。4声部の声楽曲が、ひとことで言えば断片化されていく過程である。

 

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ノーノの作曲法の特異性を実感するには近藤譲と比較するのがよい。上り列車と下り列車を想像せよ。この二人の作曲家は、同じルートを正確に逆方向へ向けて動いていくのである。ちなみに近藤譲が上り列車で、ノーノが下りである。

 

上り列車、近藤譲の場合――

  1. 形なくむなしい、なにか海のような漠としたものがはじまりに横たわっている。
  2. その海をいくつもの形に切り分けていく(※海を丸ごと凍らせる大型製氷器をイメージのなかで稼働させることによって)――分節化
  3. 分け切れずに余ってしまった水の存在には目を瞑り、
  4. 分けられたものだけを手元に集めてつなぎ合わせる――連接。

――こうして、一面水浸しの茫漠としたさかいに、波しぶき一つ届かぬかわいた陸地を堅く立てようとしているのが近藤譲だとすれば、ノーノはあべこべに、近藤譲の創造の到達点である最も陸寄りの、最も高い位置から第一歩を踏み出す。はじまりに置かれているのはひとすじの堅い線=連接された音の配列である。フランドル楽派はそれを L'homme armé や Malheur me bat のような既存の歌の旋律の借用でまかなっているが、ノーノの作曲の行程では最初期の段階において、同様の役割を担う一本の長い旋律がしばしば自前で用意されるということが、残されたスケッチの分析により判明している。Risonanze errantiの場合は、マショー、オケゲムジョスカンの3つのシャンソンの旋律断片を無作為につなぎ合わせた127小節のモノディがそうである。 *2 フルートの特殊奏法の本に載っている重音表の和音の列を展開してつくったモノディは、Quando stanno morendoのPARTE I やPrometeoのPrologoなどの共通の原素材として用いられている。 *3 これらの長大な構造物は、このあとただちにバラバラに解体されることを目的として、ノーノの作品世界のなかですべてに先立って創造されるのだ。Risonanze errantiのモノディは、音符の一部を休符に変換するという一種の変則的な断片化を伴いつつ、いったん4声部からなる379小節の楽譜に膨張を遂げたのち、44個の断片に解体される。 *4 Quando stanno morendoのためのモノディはただちに18個の断片に切り分けられる。 *5

 

ひとつづきの旋律を細かく切り刻んでいった結果得られるものは、近藤譲の場合の分節化の産物とみた目はいっけんよく似たものである。線ではなく点と呼んだほうがふさわしい音の断片。そしてそれらの断片がちりばめられた群島の情景。たしかに近藤譲の断片とノーノの断片は似ている、季節の周期のなかで5月と10月が似ているのと同じ意味で。近藤譲はこの群島地帯に、下のほうのだだっ広い大海原から上ってきた。いっぽうのノーノは上のほうのかわいた小高い陸地から下りてきた。二種類の断片はベクトルの向きの違いによって識別される――断片Kは海から陸への上昇、断片Nは陸から海への下降。

 

音が点状に散在している群島の状態が、線の音楽の作曲家にとって最終目的地でありえないのは当然のことだろう。「音の分節化はあらゆる音の扱いの前提」 だとはいっても、分節化されただけのばらばらの音は、音楽未満の「単なる音」の域を出るものではない。音は相互に関係づけられることによってはじめて音楽と呼べるものになる、というのが近藤譲の信条である。そこで近藤譲は、点をつなげて線にする。その際に近藤譲が留意しているのは「関係のあいまいさ」だと言う。近藤譲のあいまいさとは、分節済の複数の音の並べ方を調節することで醸し出されてくる不安定で移ろいやすい関係性(n番目までの音の配列によってできている関係がn+1番目の音によって裏切られるように音をつないでいく)のことであり、音が分節化されているという前提を寸分たりとも揺るがすものではない。要するに、近藤譲の連接の単位である「ひとつ(一個)の音」は不溶性である。

 

音は相互に関係づけられなければならない、というのはノーノの信条でもある。それゆえにノーノは、線を断ち切って点にする。ノーノは3図の光景を、音がバラバラになって孤立した状態ではなく、多様に関係づけられた状態だとみているのである。近藤譲とノーノを分かつこの根本的な相違は、両者のイメージのなかでの音の存在形態の違いに拠っている。近藤譲の音は「一個の音」と言うくらいで固体である。対するノーノの音は「suono mobile 動いている音」と言うくらいで液状である。当然のことながら、液状の音は島を形成することができない。

 

ノーノに関するかぎり、3図を「音の群島」と呼ぶのは本当は不適切だ。正確には「音源の群島」と言うべきである。ヴェネツィアの鐘の音がつくる音響空間のモデルを思い出してみよう。島の各所に散在しているのは鐘楼である。各々の鐘楼のてっぺん近くに据えられた鐘である。鐘楼や鐘は堅くて重たい固形物だから、据え置かれたその場を動くことはない。しかし鐘の音は、音源である鐘楼から四方八方に、「水のように」拡散していく。そして島と島のあいだの空間(海)で自然に、不可避的に、いりまじり(con-fusione)、こだましあう(risonanze erranti)。これが80年代のノーノの掲げるsuono mobile=音は動くというモットーのひとつの意味である。ジョン・ケージがやっているような偶然性の音楽はノーノにとってはまったくのナンセンスだ。作曲家による作為の是非以前に、ケージが当たり前のことのようにみなしている無作為化のための操作が、そもそもノーノの音では実現不可能だからである。間隔を置いて音を「配置」し、個々の音の独立性を確保しようなどという発想は、イメージのなかで音が液化を遂げているかぎり、はじめっから出てこようはずがないのだ。

 

1図から3図へ向けてノーノが旋律線の堅い枝ををポキポキと手折っていく過程は、単線的な管状の脈絡のなかに封じ込められている音=水を抑圧から解き放つための方途なのである。木の枝を折れば樹液が、仕留めた鯨を解体すれば体液が、切り口から四囲にジワジワと溢れ出してくる。断片化に伴って避けようもなく生じる副産物のようにみえるこれらの水分こそが、ノーノにとっては音の実体である。断片それ自体は音の器である。そんなノーノ流の断片化の過程をチャートにまとめると下のようになる。

 

 1個の○○ → 断片化 → n個の断片 + 水

 

解体操作によって生じたおのおのの断片に対して

 

 1個の断片 → 断片化 → n個のより小さな断片 + 水

 

というさらなる解体操作を実行することができ、そのたびに水のかさが増えていく。この再帰的過程は、すべてが水(すなわち、断ち切ることのできないもの)に変わり尽くす海に辿りついた時点で、燃焼で言うところの火種を使い果たして終わりを迎えることになる。

 

近藤譲とノーノは「正確に逆向きに動く」という先の言明の意味するところの一端はこのことである。3図に描かれている群島的光景はノーノ線の終着駅にあらず。この図のなかの断片群はなおも変容の途上にある。ノーノの行う断片化は突き詰めていくと海洋化であって、近藤譲の出発点である、いずこにも形見ること能わざる大海原へと最終的には行き着くのだ。晩夏に鳴きはじめるツクツクボウシの鳴き声が秋へと向かう小さな時の矢であるように、ノーノのあらゆる断片は海を目指して進んでいく小さなベクトルである。断片は全面的な液化の途上に現れる中間生成物であるとも言えるし、ノーノを海へと導くある種の乗り物だと解することもできる。

 

「正確に逆向きに動く」のもうひとつの意味は、動く方向こそ正反対だが同じルートの上を移動しているということである。近藤譲が線の音楽の構築のために取り扱っているのと同じ素材を、同じ手つきでまさぐりながら、ノーノは作曲の作業を進めていく。近藤譲、エロワ、ノーノの三人を比べたとき、ノーノの立ち位置がいっけんエロワよりも近藤譲寄りであるかのような錯覚を起こすのはそのためである。

 

Werner Lindenとの対話でノーノが描き示した二種類の歌の模式図を講演の図と見比べてみよう。

 

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明らかに、ノーノが作曲の行程で直接の操作対象としているのは、上段のグレゴリオ聖歌タイプの「堅い歌」のほうである。シナゴーグの歌タイプの液体的に揺れ動く海の歌(下段)は、その堅い物体をまさぐっているうちにだんだんと漏れ聞こえてくるのである。シナゴーグの歌はグレゴリオ聖歌がその表皮の下に蔵している体液である。ただ座して待つだけでは体液の滲み出しを引き起こすことはできない。狩人の流儀でグレゴリオ聖歌に掴みかかり、その肉を引き裂かねばならない。

 

(以下、「船の歌」のための予告を兼ねて)

 

陸から海へと下降していく音の旅の過程でノーノが終始手を加え続けている堅く乾いた構造物は、島ではなく「船」と総称するのがふさわしい。ノーノが紙上で加工していく音符の配列は船である、ヴェネツィアの都市空間を構成する堅い石は船である、ライヴ・エレクトロニクスのための仰々しい電子機器も船である。これらはいずれも、固定と名のつくあらゆるものを忌み嫌うノーノが、にも拘わらず、「固定されたものはなにもない」海を目指すがために敢えて必要としている「堅さ」である。究極においてノーノの船は、大海原の真っ只中で『白鯨』のピークォド号のように難破して水と一体化するのであるが、その最後の瞬間が訪れるまで、ノーノの視界から船影が消えることは決してない。要するに、ノーノは船を造り、操り、あくまで意志的に海へと向かって進んでいくタイプの人である。黄金時代の海やムージルの「愛の海」とは異なり、ノーノの海には必ず船が浮かぶ。

 

船はプロメテウスが人間に授けたテクネーのひとつである(「白帆の翼に海上を翔ける、船頭たちの乗り物を造ったのも、私に外ならない」 *6 )。しかし一般的に言って、テクネーと海の相性はあまりよろしくはないのではないか。テクネーとは本来、もろもろの建築的営為のために活用されるはずのものであるから(アーキ/テクチャ)。技術はなにかをかたちづくり、築き上げ、立たせる。だからテクネーを使えば使うほど、海は人為によって干拓されていくいっぽうなのではないのだろうか、ヴェネツィアのラグーナのように。しかしノーノは、テクネーの行使に伴って発生する――もっと強く言えばテクネーの行使なくして発生し得ない――多量の水分の存在に、早くから気づいていた。通常は省みられることのないその水に身を浸すことのできる人は、天地の万象から形なくむなしい始原の海へと向け、創造の頁を逆向きに繰るための駆動力としてテクネーを時には subversiveに利用する。

 

創造の最初の一週間の光景を撮影して逆再生させれば、地上に犇めく数多の個物からとめどなく水が溢れ出して海を創出しているようにみえるだろう。まさしくそれがノーノの作品世界で起こっていることである。本当のところ、船はノーノを海へと導く単なる乗り物ではない。「ノーノの海には必ず船が浮かぶ」どころの話ではなく、船こそが海の水の発生源なのだ。ウンガレッティの詩句の解体操作によって滲みひろがった母音の海の上を、子音の船板を纏った一隻の船が航跡を引いて進んでいく、以前とりあげた1958年のCori di Didoneの楽譜の一頁は、ノーノの作品世界の原風景である。

 

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そのCori di Didoneから約30年後。Risonanze errantiの音の海を渉る船のために、ノーノはメルヴィルの詩句断片を材料に選んだ。おおメルヴィル!自らが航行する海を自らが産み出していくノーノの船を造るのにこれ以上ない、うってつけの素材ではないか。

*1:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社

*2:Stefan Drees (1999). Die Integration des Historischen in Luigi Nonos Komponieren. In: Thomas Schäfer (ed.) Luigi Nono - Aufbruch in Grenzbereiche. Saarbrücken: Pfau, 77-95.

*3:http://www.luiginono.it/it/node/20077

*4:http://www.luiginono.it/en/node/20506

*5:David Ogborn (2005). "When they are dying, men sing...": Nono's Diario Polacco n. 2. EMS: Electroacoustic Music Studies Network - Montréal 2005. [pdf]

*6:アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』、467-468、呉茂一訳

断ち切られない歌 中篇の下 1/16

こだま、海の歌(承前)

 

まえおき

さて、この先の航海は、一個の音楽作品を取り巻く外側の世界を意識することで その存在が仄めかされてくるより広大な海原へと舵を取り進められていくことになる。 すなわち、「音楽のなかにひろがる海」から、「個々の作品の枠を超えて 横たわるひとつづきの大洋」へ向けて。ただその前に、Risonanze erranti論と銘打ちながらも総論的内容にばかり走って、 これまでたまに立ち寄る程度の言及しかしてこなかったRisonanze errantiの海 =シャンソンのこだまを、一度正面からじっくり吟味しておくべきだろう。

*

……と、2014年11月1日付記事の文末に記してから既に一年以上の歳月が経過した。 その間に、それはもうこのうえなく素晴らしい出来事があった。 Risonanze errantiの新編集版スコアがRICORDIから遂に刊行されたのである。

 

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ANNO 2015
Printed in Italy 139646
ISBM 978-88-7592-994-7
ISMN 979-0-041-39646-0

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演奏の際の奏者の留意点、 全33種類のライヴ・エレクトロニクスのプログラムの設定法、 曲中で使用されるサルデーニャ島の牧用の鈴はどんなものを用意すればよいかなどの、 実演に必要な各種補足事項を網羅した巻頭解説(英独伊)付き。この一冊と、意欲と、電力があれば、 Risonanze errantiは世界じゅうどこででも演奏可能な作品になった。

*

Music Shop Europeから届いたスコアを手にして真っ先に調べたことのひとつが、 噂に聞くRisonanze errantiのディードー・コネクションである。

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一箇所めは260小節のadieuに添えられた、doloroso wie "remember me" ――「remember meのように悲嘆にくれて」。NEOS盤のSACD(NEOS 11119)では26分45秒から 27分07秒にかけてである。アルト独唱(とクロタル)のB♭ - A は、パーセルの歌劇 Dido and Aeneasの幕切れ近くでディードーが歌う Re- (D) mem- (D) ber (D) me! (D) に つづく伴奏の音の推移を参照したものかもしれない。

 

もう一箇所、361小節のpleureのlontanissimo Leidenschaft - "Dido" ――「はるか遠く 激情 ディードー」。CDでは37分57秒から38分33秒まで。

 

以上二つの書き込みは、1986年初演のRisonanze erranti(翌87年に決定版初演)と1958年初演の合唱曲Cori di Didoneが、30歳近く齢の離れた姉妹の間柄であることを教えてくれる、 ほっぺたのえくぼみたいなものだ。

*

Cori di DidoneとRisonanze errantiの血縁関係は海についても当てはまる。 Risonanze errantiの音の海=シャンソンのこだまは母音を主成分とする海である。 ノーノ最古の音の海は、Cori di Didone (1958) やIl canto sospeso (1955-56) などの 50年代の声楽曲に現れる「母音の海」で、シャンソンのこだまはその直接の進化型にあたる。

 

母音の海の系図を辿る今昔比較の旅に妙味あり。 Risonanze errantiの海までびゅーんと一気に飛行機で飛んでいって、 その日のうちに帰ってきてしまうのは、長篇小説の下巻だけ読むようなものである。 あえいうえおあおおあおえういえあ、母音の水の上をゆくわれらの海路はこの先三日の行程である。

  • 第一日 1958年 Cori di Didoneの海
  • 第二日 1956年 Il canto sospesoの海
  • 第三日 1987年 Risonanze errantiの海

 

第一日 1958年 Cori di Didoneの海

Il canto sospesoの一部の章ではじめて導入された歌詞のscomposizione、すなわち、 歌詞をシラブルに、さらには母音や子音のレベルにまで分解して複数の声部に割り振っていく手法が いよいよ全面的に拡張された、6章構成の合唱曲。第4章の歌詞は ウンガレッティの「ディードーの心のうちを描いたコロス」の第XIIコロス。

 A bufera s'è aperto, al buio, un porto

 che dissero sicuro.

 Fu golfo constellato,

 e pareva immutabile il suo cielo;

 ma ora, com'è mutato!

 

 嵐のなかでひらかれていた、闇の奥に、一つの港が

 そこならば安全だと人は言った。

 星屑をちりばめた入江

 その空は変わらぬものと見えた、

 だがいまは、何と変ってしまったことか!

 (河島英昭訳)

さらにその中の3行めに注目しよう。嵐をくぐり抜けてきたディードーの心の船の 四囲にいっときうちひらけてくる、夜の入江のくらく静穏な海面。 その海の情景が、Fu golfo constellato(星屑をちりばめた入江だった)という 歌詞の解体操作によって音楽化されていく。

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■ 海の眺め 7: Cori di Didone (1958) - 4 142~147小節

 

色分けして示したとおり、テノールと、ソプラノおよびバスとのあいだに明瞭な役割分担がある。 テノールのパートの構成は、ちょうど魚の骨格標本をつくるときの要領である。 歌詞は断片化され、4つの声部に振り分けられていくが、 その際に原詩の脈絡を傷付けないよう配慮が払われており、いったん ばらばらになった断片は、結局もと通りの位置関係にしたがって順序よく譜面に並べ置かれる。 なのでテノールの4声部を多少引き気味の位置から眺めれば、

→ FU GOL FO CON STE LLA TO →

という一筋のまっすぐな航跡を引いて左から右へと進んでいく船影をみてとることは容易である。

 

そのテノールの船に対して背景をなすのがソプラノとバスである。 4人合わせれば歌詞をフルで歌っているテノールとは異なり、 ソプラノとバスはもっぱら母音のみを発する。 ソプラノは長く引き伸ばされた母音 A O を、バスは同様に母音 U E を、 声部間で引き継ぎながら、母音の平坦な響きの連続からなるひろびろとした音風景を、 つまりはなにか海のようなものを、テノールを取り巻く空間にひろげていく。 ソプラノの A O とバスの母音 U E は、実際には上に図示されている範囲を超えて さらに遠くの方まで伸びており、テノールからバトンを受けたアルトが e parevaという次の行の歌詞を歌っている3小節先の辺りまでをもその圏内におさめている。 以上を要約すると、母音の海原をゆく一艘の船、という構図。

 

みどころ:海の水はどこから来たか

Cori di Didoneの音の海は、ディードーのFu golfo constellatoという内的独白が その懐に宿している母音――エルンスト・ユンガーの『母音頌』風に言えば、 情動や記憶を触発する言葉の原形質――の滲み出しによって生じたものであった。具体的には、 バスの歌うUがFu golfo constellato、同じくEがFu golfo constellato、 ソプラノのAがFu golfo constellato、 OがFu golfo constellatoもしくはFu golfo constellatoである。 テノールが歌うFu golfo constellatoという歌詞の全体を(声部間の音の引き継ぎ というかたちではあるものの)すっぽりと包み込んでいるA- や O- や U- や E- は、 もはやどう見ても島にたとえられるような点状の断片ではない。 テキストの解体によって切り出されてきた母音は、往々にして母音本来の無限定に伸びる性質を 発現し、液体的な挙動を示すようになるのである。

 

声楽作品のなかでアーだとかウーだとかいった母音が歌われること自体は格別珍しいことではない。 ひとつサンプルをあげると、一般的にはこのようなケースである。

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出典:丸山豊詩、團伊玖磨曲の合唱組曲海上の道』の第3曲「夜の海」

 

さて、上の楽譜に出てくる A- と O- であるが、 これらは丸山豊が書いた詩にもともと含まれていた音韻ではなく、 作曲に際して團伊玖磨が新たに作品世界に持ち込んだ、 テキストの土壌からみれば外来性の母音である。 この種の「天から降ってきた」母音がノーノの声楽にどのていどの頻度で出現するのか、 数作品で実態調査を行ってみた。

*

Das atmende Klarseinの合唱には該当するケースがひとつも見当たらない。

*

Omaggio a György Kurtágの独唱にも皆無。

*

Risonanze erranti

アルト独唱が歌っている母音(a ah u uh eh ua)のほとんどはこだまとして歌詞に含まれている。 歌詞には出てこない母音の使用例は、序盤のsweep stormingの直後の UA(35小節)と、 終盤に四度繰り返されるdeathの後の、3小節にわたって伸びる U(329~331小節)のみである。

*

Cori di Didone

3曲めと6曲めのところどころでbocca chiusa=口を閉じたままのハミングが歌われる。 そのうちの一箇所、3曲めの冒頭で、ハミングのなかに A 音と U 音が混ざっている。 もうひとつの例は5曲めの、歌詞を歌い始める前と歌い終えた後に現れる A。

*

Il canto sospeso

全9章のうち、Nr. 2、3、5、6、7、9の6章に声楽が入る。 Nr. 6b、Nr. 7、Nr. 9の3章ではBocca chiusa、Bocca quasi chiusa(唇を閉じ気味)、もしくはBoccha quasi aperta(唇を開き気味) によるハミングが多用される。さらにNr. 6bに限っては、歌詞に由来しない母音 ―― (u) のようにかっこ付きで表示される――が計20回用いられている。

*

Ein Gespenst geht um in der Welt

この作品には該当例が割と多い、と認めざるを得ない(とは言っても標準的な合唱作品と同レベルか)。

  • 25~28小節のソプラノ独唱のA、I、Oと合唱のA、O
  • 73~89小節の合唱のU
  • 94~98小節のソプラノ独唱のA、U
  • 103~105小節のソプラノ独唱のA
  • 109小節の合唱のU
  • 113~116小節の合唱のA
  • 119~120小節の合唱のO
  • 143~156小節の合唱のA

157~228小節で『東方紅』の歌詞が中国語で歌われるくだりでは特に多くなる。

  • 177~183小節の合唱のA、E、O、U
  • 181~183小節のソプラノ独唱のA、O、E
  • 188~193小節の合唱のA、U
  • 196~197小節のソプラノ独唱のA
  • 208~215小節の合唱のA、E、O、U
  • 212~216小節のソプラノ独唱のA、E、O、U
  • 219~220小節の合唱のA、E、O、U
  • 224~226小節のソプラノ独唱のA
  • 225~227小節の合唱のA、E、O、U

そして最後に

  • 284~295小節の合唱のA、O、U(全曲の総小節数は314)  

*

Quando stanno morendo

  • PARTE IIのほぼ全篇をとおしてソプラノ2とメゾソプラノの二人の歌手が歌いつづける A。

そのほかに、

  • PARTE I 28~29小節のA、34~35小節の A
  • PARTE III 38小節の A、57~58小節の A - U -(ともにアルト独唱)
  • PARTE III 73~75小節の U、91小節から最終94小節の A - O - U (ともに合唱)

*

Io, frammento da Prometeo

全9楽章のうち7楽章(1、3~7、9)に声楽が入る(以下の小節数は通し番号)。

  • 3楽章:ソプラノ独唱はA、Uの母音のみを歌う。合唱は103小節のA、110~111小節のA、 117~118小節のEとU、131~132小節のOとU、150小節のUが該当例。
  • 4楽章:ソプラノ独唱がA、U、Oの母音のみを歌う。
  • 5楽章:193~195小節のquesta sferzaの歌詞に合わせて合唱が歌うOとA。
  • 6楽章:冒頭の218~224小節で独唱歌手二人が歌うO。

*

Prometeo

  • Terza / Quarta / Quinta Isolaに6回挿入されるECO LONTANA (DAL PROLOGO) =「Prologoからの遠いこだま」のなかで合唱が歌う U。 U音の合唱はこの章の末尾にももう一度出てくる。

ほかには、

  • Prologo 191~192小節のc'è dataの中に混ざっている U
  • Isola Seconda b) Hölderlin 1~7小節の O、45~50小節のA / U / O
  • Isola Seconda c) Stasimo Primoの49小節、inaccessaのあとの合唱の U
  • Tre Voci bの47~48小節、dal movimente delle opereのあとの合唱の U
  • Stasimo Secondoの83小節、silenziのあとの、quasi bocca chiusaで歌う U

*

テキストに含まれない母音の使用は概して控えめである。演奏時間2時間強の破格の規模を誇るPrometeoでさえ、10分に1回ペースの計13箇所。 ノーノのテキストの扱い方は、言葉を音素レベルにまで無慈悲に分解し尽くして なんの意味もなさないただの音に変えてしまう バラバラマン的所業であるかのようなことを言う人も少なくないが、 実のところは、各々の言葉が具える音の響きにいたって忠実な、素材重視の料理法なのである。

断ち切られない歌 中篇の下 2/16

第2日 1956年 Il canto sospesoの海

第2楽章のアカペラ合唱の歌詞のなかの、

(Per) esso sono morti millioni di uomini

それ(のために)何百万人もの人が死んだ

※原文のPerは歌では省略されている

という一節を、構成要素の母音に注目して吟味すると、中央部のmortiという単語が分水嶺になっていることがみてとれる。mortiより前では母音 o の、後では i の響きが卓越する。

(Per) esso sono morti millioni di uomini

 

上のテキストをバラバラに分解するとどうなるか。

  • 母音は「かの動かざる土」のごとくその場にとどまることはなく、
  • 水の流儀であたり一面に、(海のように)滲みひろがっていくだろう。
  • 拡散の過程で海の水は混ざり合うが、完全な均質化に達することはない。
  • したがって、海のしらべは o から i への緩やかな音調のグラデーションを示すだろう。
  • そしてこの o - i の響きは、全体の要にあたる語、morti(=死んだ)のこだまでもある。

 

Il canto sospesoの譜面上ではおおむねこのとおりの状況が再現されている。

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■ 海の眺め 8: Il canto sospeso (1956) - Nr. 2 125~135小節

 

o 音から始まって徐々に i 音へと推移していく母音の海。その海の只中に浮かぶ(= sospeso)子音の断片。mortiの語はバス2(楽譜の最下段)に現れ、両側を o と i で挟まれている。バス2が歌っているのは、125~135小節の音響構成の簡潔な要約(mortiのこだまとしての母音 o - i)である。

 

原文にはmorti以前に4個の o が、morti以後に7個の i が、それぞれ含まれている。o や i が単独で歌われるとき、おのおのの o、i がその4個と7個のいずれに由来するのかを特定することはしばしば困難になる。水の世界ならではのcon-fusione=溶融に伴う不分明の発生である。

 

本筋からややはずれるがもう一点興味深い、125~126小節のソプラノ2の「予兆的な i」についてもふれておこう。

 

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125小節にこだまする a の響き(ソプラノ1、アルト2、バス1、2)は、Per esso sono...の前段の...non è nulla末尾の nulla である。そこに最初に混入してくる別の母音がソプラノ2(楽譜の上から二段め)の i。これは一体どこから来た音かというと、約4小節先のmorti以降に頻出する i の先取りなのである。126小節でソプラノ2は続けてPer essoの o を歌う。2小節の範囲に収まるソプラノ2の小さな i - o は、このあと126小節から135小節にかけて全声部をつかって奏でられる大きな o - i の縮小された鏡像である。

 

第3日 1987年 Risonanze errantiの海

以前の議論のなかで、Risonanze errantiの歌詞をエルンスト・ユンガーの『母音頌』にならって語詞と音韻とに分類した。

  • 語詞 ―― メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片
  • 音韻 ―― シャンソンのこだま

語詞Wortspracheと音韻Lautspracheは『母音頌』の軸となる対概念で、前者は母音と子音が結びついて化合物をなし、音声が本来もっている活性が制御され秩序づけられることによって、語義が凝結し形をなすに到った言語の陸的な領域を、後者は母音と子音がそうした安定的な化合物を形成することなく遊離状態で活発に流動している、言語の海洋的にして始源的な領域を表している。

 

メルヴィルの詩は原文どおりの英語で歌われる。周知のごとく、英語は典型的な閉音節言語である。世界の言語のなかでもとりわけ硬質で水気に乏しい「陸の言葉」だ。Risonanze errantiの中盤で10回も繰り返されるpastの一語に、英語の特徴がよく表れている。唯一の母音 a を子音 p s t の、文字どおり水も漏らさぬ堅固な外骨格で封じ込めた、言葉の世界の甲殻類。半面でこうも言える――pastの固体的性格は、水そのものの欠如によるのではなく、子音と母音が強固に結合することで、母音の水としての性質の発現がきびしく抑制されているところから来ている。もし必要とあらば、pastの内部に潜在している水をとり出すことは難しい相談ではない。Il canto sospesoやCori di Didone以来の伝統の技をつかって、母音の体液を閉じ込めている子音の甲羅を剥いでやりさえすればよいだけのことである。

 

ところがRisonanze errantiのなかでは、その簡単な解体作業が行われている形跡をほとんど見つけることができない。メルヴィルの詩の断片化は、原文の脈絡から単語を切り出してくるところまでで、個々の単語にナイフが入れられることはまず無いのである。どうやらノーノはRisonanze errantiの作曲に際して、英単語が概して具えている船板のような固さをなるべく保存しようという意図をもっているように見受けられる。バッハマンのドイツ語もその点は同様の扱いである。

 

そこでRisonanze errantiでは、代わりとなる母音=水の供給源として「こだま」と名付けられた別の語群が用意される。列挙すると、

a ah u uh eh ahimé pleure adieu mes amours malheur me bat

これらの母音優位でみるからに水分豊富な語句を主原料に、音の海がつくられていくわけである。

*

約40分の演奏時間中に13回出現するRisonanze errantiのこだまのうち、ちょうど真ん中あたりの、pleureのこだま(188~194小節)を具体例としてとりあげる。「泣く」あるいは「嘆く」を意味するpleureは、子音の身体plから母音の水eureが流れ出している、涙の象形文字ともみることができよう。そのpleureの語を歌うアルト独唱と、同時に演奏されるチューバの、譜面上ではそれぞれ3つの音符で書き表される音が海の素になる。

 

まずは今までと同じく、楽譜を掲げておく。

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■ 海の眺め 9: Risonanze erranti (1986/87) - 188~194小節

 

もっとも、これだけ見てもさしたる参考にはならない。30年前と違って海の絵が直接五線譜の上に描かれていないからである。こだまの海洋化に寄与している立役者は、1981年初演のDas atmende Klarsein以降に本格導入された新しき電磁的手法、ライヴ・エレクトロニクスである。

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188~194小節で稼動しているライヴ・エレクトロニクスのフローチャートは、水の発生→流動化の二段構えである。前段の回路は、五線譜上の所定の位置にホヤのごとく固着している3+3=6個の音符が規定する音を水のようなものに変貌させる、強力な液化作用を具えている。そこで生じた、歌声とチューバのブレンドからなる音の混合液を、液体らしく演奏会場内に流動させる回路がその後につづく。

 

水の発生

188~194小節の歌声とチューバに、残響時間60秒の非常に深いリバーブがかけられる。リバーブは、楽譜に書かれた音符が定める音の輪郭線を溶かし去り、音を水のように滲み拡がらせるための、もっとも直接的かつ効果的な手段である。

 

Risonanze errantiの録音を聴いた印象から、リバーブはこだまにのみかけられているものと私は思い込んでいたが、スコアをみたところこれは間違いで、アルトの歌声にはじつは常にリバーブがかかっている。もっとも、声に施されるリバーブの大半(全379小節中294小節)を占めるのは、基礎代謝レベルと言うべき、残響時間4秒のごく薄いリバーブである。下表にまとめたとおり、こだまの多く(すべてではない)にはずっと残響時間の長いリバーブが適用される。下に挙げたこだま以外の音に残響時間4秒を超えるリバーブがかけられているケースは、136~165小節のチューバに対する10秒のリバーブのみである。

・こだま、その内訳

ID小節歌詞バーブの対象
01A 36-40 malhuer me bat C. sarde, Crot
02A 60-65 adieu C
02B 66-68 ah... ah... C
03A 83-85 -lheur me C
04A 103-111 ahimé ahimé C, Tb (103-105): C (109-111)
05A 133-137 [ah...ha] C
05B 137-138 u C
06A 188-194 pleure C, Tb
06B 196-196 ah C
07A 214-218 ahimé uh eh uh ah ahimé C
08A 242-245 a a ahimé ahimé ahimé C
08B 245-247 ah C, Fl.b, Tb
09A 256-261 adieu C, Fl.b
09B 262-265 adieu C
10A 288-293 adieu mes amours ah! ah! C
11A 319-320 adieu Ottv
12A 357-366 pleure C
13A 369-371 malheur C

・こだま、そのリバーブのかかりぐあい

ID小節再生時間残響時間 (s)
01A 36-40 3:54-4:38 10
02A 60-65 6:30-7:20 20 / 4
02B 66-68 7:25-7:36 4
03A 83-85 9:02-9:27 4
04A 103-111 11:12-12:25 20
05A 133-137 14:37-15:16 4
05B 137-138 15:17-15:46 70 / 4
06A 188-194 19:38-20:28 60
06B 196-196 20:32-20:35 4
07A 214-218 22:29-23:06 4
08A 242-245 24:57-25:09 4
08B 245-247 25:10-25:43 20
09A 256-261 26:15-27:15 30 / 4
09B 262-265 27:16-27:54 30
10A 288-293 29:54-30:40 10
11A 319-320 33:02-33:32 50 / 4
12A 357-366 37:26-38:36 80
13A 369-371 38:48-39:03 4

C=アルト C.sarde=サルデーニャ島の牧用の鈴 Crot=クロタル
Tb=チューバ Fl.b=バスフルート Ottv=ピッコロ
※1 小節数の後に示した時間は、Risonanze errantiの現時点で唯一の録音であるSACD (NEOS 11119) の再生時間である。
※2 一部の例でひとつのこだまに二種類の残響時間が示してあるのは、ひとつのこだまに残響時間の異なる二種類のリバーブが適用されているためである(後述)。

 

流動化

Risonanze errantiの作曲にあたってノーノは、演奏会場に分散配置されたスピーカーから音を再生するタイミングを調節することにより音の空間移動を模擬的に再現するためのプランを、何枚もスケッチに図示していた。その一部は、Marinella Ramazzottiのノーノ本 *1 の203頁と209頁や、Hans Peter Hallerが書いた二分冊からなるEXPERIMENTALTUDIOの総説 *2 の第2巻185頁や、昨年出版されたMusic Sketchesという、作曲家の草稿分析の入門書 *3 の39頁に転載されている。それらの図を見てもうかがわれるようにノーノは当初から、音を動かすしくみをこだまに限定して使用する心積もりであった。

 

新しく出版されたスコアの巻頭解説では、1987年10月パリでの演奏の際に採られた合計10台のスピーカーの配置が、今後の演奏で踏襲すべき模範として掲げられている。

  • L1~L8のスピーカーは床面から少なくとも220cmの高さに設置する
  • L9とL10は床面から350~550cmていどの高さに設置する

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こだまの動き方を表にまとめてみた。

ID小節再生時間運動パターン残響時間 (s)
01A 36-40 3:54-4:38 E 10
02A 60-65 6:30-7:20 B 20 / 4
02B 66-68 7:25-7:36 E 4
03A 83-85 9:02-9:27 E 4
04A 103-111 11:12-12:25 A 20
05A 133-137 14:37-15:16 E 4
05B 137-138 15:17-15:46 B 70 / 4
06A 188-194 19:38-20:28 A 60
06B 196-196 20:32-20:35 E 4
07A 214-218 22:29-23:06 E 4
08A 242-245 24:57-25:09 E 4
08B 245-247 25:10-25:43 C 20
09A 256-261 26:15-27:15 B 30 / 4
09B 262-265 27:16-27:54 D 30
10A 288-293 29:54-30:40 A 10
11A 319-320 33:02-33:32 B 50 / 4
12A 357-366 37:26-38:36 A 80
13A 369-371 38:48-39:03 E 4

動き方のパターンは以下の5種類である。

  1. 旋回運動
  2. 中央から四囲へ拡散する動き
  3. 左側から右側への動き
  4. 前方へ遠ざかっていく動き
  5. 動きなし

 

A
会場の四隅に置かれた4台のスピーカー(L1 L2 L3 L4)を左もしくは右回りに巡回する動き。10Aではアルト独唱、ピッコロ、チューバがそれぞれ独立の旋回運動を行う。188~194小節の06Aのこだまの動き方だけは変則的で、L2を起点としてL4→L1→L3とたすき掛けのような経路を辿り、L3で24~32秒にわたって滞留する。

 

B
02Aのadieuのこだまのフローチャートを例に説明しよう。

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アルトが a を歌っているあいだは上側の回路が作動し、下は遮断されている。つまり、 a の歌声に残響4秒のリバーブがかけられ、会場中央のL9とL10のスピーカーから出力される。アルトが dieu を歌いはじめた時点で、回路が上側から下側へと滑らかに切り替わる。dieu の歌声には残響20秒のリバーブがかけられ、会場四隅のスピーカー(L1 L2 L3 L4)から出力される。体感としては、 a から dieu へと、音が中央から四方へ発散していく動きになる。上のリストのうち4例でひとつのこだまにリバーブの残響時間が二種類付せられているのは、いずれも同様の音響処理によるものである。

 

C
08Bの一例のみ。会場の左側のスピーカー(L1 L5 L8 L4)から右側(L2 L6 L7 L3)への遷移。

 

D
09Bの一例のみ。会場前方のL1 L2 L5 L6の4台のスピーカーから出力された歌声が、フェルマータのあいだに徐々にフェードアウトしていくもので、潮が沖へ退いていくように音が前方へと遠のいていく効果が得られる。

 

E
リストに挙げた全18例のうち8例のこだまは動かない。リバーブのかかり具合を表に併記したのは、音の動きとリバーブの関係をみるためである。01Aの特殊なこだま一例 *4 を除き、「動きなし」と残響時間4秒の基礎代謝レベルのリバーブは正確に一致している。 *5バーブの作用を受けて水っぽく変質していないこだまは、水のように空間を流動することもないのである。動かないこだまは、個々の音が具える形を有耶無耶にするほどの効果はもたらさない弱いリバーブをかけられて、常に所定の位置のスピーカー(会場中央のL9とL10)から再生される。

 

輪郭がぼやけてもいなければ空間を流動することもない、水の気配を欠いたこだまを、上の表では土色で塗り分けて示した。これらの「乾いたこだま」が、特に06Bから08Aにかけての中間部に連続して出現することに注意しよう。この部分におけるこだまの変質はメルヴィルの歌詞と呼応して生じているものなので、詳しくはのちの「メルヴィル 船の歌」の項で述べるが、ひとことで要約すると、Risonanze errantiは中盤で一時的に作品世界の乾燥化、硬直化が昂進するのである。

*1: Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos.

*2:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft.

*3:Friedemann Sallis (2015). Music sketches. Cambridge: Cambridge University Press.

*4:01Aは声ではなく器楽のみによるこだまである。38~39小節のクロタルの音符にMa- -lheur me batと歌詞が付けられている。このほかにもう一例、11Aも、クロタルのチン(A)、チン(G)の二音でa、dieu を表す。リバーブはその直後のピッコロの持続音にかけられている。

*5:ただし、10Aで独立の旋回運動を行うアルト独唱、ピッコロ、チューバのうち、リバーブがかけられているのはアルト独唱のみである。

断ち切られない歌 中篇の下 3/16

遠足からの帰宅後

改めて新旧の海のレシピを見比べてみよう。

 

A 1950年代
前提:あらゆる言葉には水分(=母音)が潜在している。単語(a word)の解体による水(母音)の抽出。取り出した水を、五線譜上で音符をつかって平らに引き伸ばし、海の似姿をつくる。海のひろがりは音符が規定する音のひろがりに等しくなる。紙の上にじかに描き表される、やや書割めいた海。

B 1980年代
前提:あらゆる音には水分が潜在している。個々の音(a sound)の解体による水の抽出(新型調理器具ライヴ・エレクトロニクスを使用)。

ライヴ・エレクトロニクス(LE)の効能:音そのものに直接働きかけて、水の流出を促すことのできる装置。水の力で電気をおこすのが水力発電なら、LEはあべこべに、電気の力で水を発生させる。この電力発水のメカニズムが稼動しているところでは、楽譜上に並んだ大量の音符がすべて水源として立ち上がってくる。個々の音の内ふところに死蔵されていた水が、LEの導入によって一挙に利用可能となったのである。海は五線譜上の音符の周囲に滲み拡がる格好で形成されていき、オタマジャクシを取り巻く水がオタマジャクシで紙面に明示されることはない。

*

初期作品の音の海を一瞥/一聴して感じられる原始性は、 水の調達先がこの時点では歌詞に含まれる母音に限定されており、さらには水をとりだすための方法も、単語の音素への分解という素朴な手口に頼ったものであるという技術的制約に多く起因している。

 

それから30年ほどのあいだにもたらされた水理学の目覚しい発展――

  • 第一に、水の供給源の劇的な拡大
  • 第二に、水の抽出法の精緻化
  • 第三に、suono mobileと総称される、音に水のような流動性を与える手法の進化

――のおかげをもって、80年代のノーノ作品のなかにひろがる音の海は、初期の頃とは段違いのリアルな海らしさを獲得することになるわけであるが、それはたとえるなら、セルアニメがCGアニメに置き換わったような種類の変化だと言えよう。要するに技術面での進歩であって、根底にある基本原理は終始変わっていない。

 

50年代から夙に知られるノーノの破壊的作曲法――イタリア風に言うとscomposizioneによるcomposizione――を、「断片」というお馴染みの一語だけで説明しようとするのは片手落ちである。解体によって産まれるものは断片だけではないからだ。ノーノのscomposizioneにおいては、常に以下の式が成り立つものと心得ておこう。

1個の○○ → scomposizione(解体) → n個の断片 + 水

「1個の」と呼ぶことのできるような確たる形のあるものを解体すると、n個の断片ができる、と同時に、もはや何個であるとも言い難い、なにか形のはっきりしない水のようなものが生じる。「1個の○○」の○○に単語を代入すれば50年代のノーノ、音を代入すれば80年代のノーノである。水とは本性として連続的なものであるから、断片性と連続性の同時発生ということでもある。水は本性として切り分けられないものであるから、分節という営為は常に余りの出る割り算だとも読める。奇抜な発想と言うべきだろうか。いや全然。「1個の○○」を解体することによって得られるものがn個の断片だけだという発想こそ、含水率ゼロ%の純然たる記号の世界にしか当てはまらない、非現実的な綺麗ごとと言うべきである。

*

三日間にわたる海の見学ツアーの参加者から、帰ったあとで苦情の声があがることはおおいにあり得るだろう。

ずいぶんと盛りやがったなあ、おい。Risonanze errantiの音の海?海だって?あれが?あの十数個かそこらの水たまりみたいなやつが?ひょっとして富士山麓の湧き水のことを忍野八海と呼ぶような趣向ですか?

だが間違いなく、そんな文句を言っている人の頭のなかでも、水たまりのようないくつものささやかな断片性を海のようなひとつの広大な連続性に変換する作業は日常茶飯事のごとく行われている。地球開闢以来20世紀も半ばになるまで、自分がそれをやっていることに誰一人気がつかなかったDNAの半保存的複製のように、人間がふだんまったく意識することなく実践している事柄はいろいろあるわけだ。

*

ノーノがとある作曲家の音楽を評した小論の前半部で話している情景は、まさしく「音の海」と呼ぶにふさわしいものである。

旋律はつなぎ合わされています、 La mélodie s'articule
始まりから終わりまで、 du début à la fin,
それどころか、始まりも終わりもなく、 sans début ni fin d'ailleurs,
ただし絶えざる変容を伴いながら。 mais avec une transformation continue *1

この時点で既に、一曲の音楽の輪郭を縁取るささやかな護岸を越えて溢れ出しつつあった海は、同じ小論の終わりの段になると、その作曲家のすべての作品を取り巻くと同時に浸しているひとつづきの大洋にまで成長を遂げている。

…大事なことはもっぱらひとつの広大な連続性であって、モーツァルトの場合のような番号付きの作品ではなかったのです。 *2

さて、ノーノは誰の音楽の話をしているのだろうか?ラ・モンテ・ヤングのドローン音楽か?それともシェルシか?

 

正解は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニである。これはひとつの良い目安である。ベッリーニのたとえばNormaやIl pirataのなかに、なかだけではなくそのまわりに大海原を感じることが出来ないうちは、Risonanze errantiの海がただの水たまりにしか思えなかったとしても無理はない。

 

一曲の音楽が鳴りはじめた時は既に存在していて、一曲の音楽が鳴り止んでもなお断ち切られることのない大きな海が、あたかもジョルダーノ・ブルーノの無限の宇宙が星から星へとつづくがごとくに、作品から作品へとつらなっている壮大な光景が、ベッリーニだけのものではないことを他ならぬノーノ自身の作品世界で確認するために、1948年から89年までの40年の時空におよそ七十点在するノーノの星々のなかでもとびきり巨大なPrometeoの縁に降り立ってみよう。

 

プロメテオのさいはて

inizio

Prometeoについての本を単独で書いた今のところ唯一の人物であるLydia Jeschkeは、Prometeo冒頭(すなわちPrologo冒頭)のソプラノとアルトが歌う「ガイア」(1~2小節)につづく静謐な弦のパッセージ(3~7小節)が、マーラーの『交響曲第1番』冒頭のあの名高い「キーン」という弦のハーモニクスを参照したものだろうと指摘している。 *3

 

比べてみよう。

Mahler

Nono

  • オクターブにもまたがる弦のA音とD音(およびそこから1/4音、半音、3/4音ピッチのずれた音)
  • 部分的にハーモニクス奏法で演奏される5小節の範囲にだんだん弱まっていく3つの音が並ぶ。ppppppppp → ppppppp

 

両者の相似はかなりゆるやかなものである。たいして似とらんではないか、こじつけじゃないかと思われるかもしれない。が、Lydia Jeschkeの言うことはたぶん本当である。

 

fine

ここから約2時間強先に進むと、Prometeoのもう一方の縁に辿りつく。最終章Stasimo Secondoをしめくくるのは、シェーンベルクの『モーゼとアロン』第三幕幕切れのモーゼの台詞 È NEL DESERTO INVINCIBILE――砂漠の只中で彼は無敵である。最後のINVINCIBILEのさらに末尾のci- bi- leの三音が、アカペラにより5度で唄される。 その音が B - F# である点に注目しよう。

 

こんどの比較対象はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』である。Tristan第三幕の最終3小節は、オーケストラが奏でるロ長調の主和音、すなわちB - D# - F#で、全体としてはそれがおおむねター、ター、ターという三回の繰り返しになって聞こえてくる。ごくごく大雑把に言うと、Tristanから D# 音を抜いて器楽を歌声に変えれば、ほぼPrometeoの音になる。この類似もおそらく偶然の産物ではない。

*

どうしてそう言えるかというと、ノーノにとってマーラーワーグナーの二作品が、それぞれ音楽の始まりなき始まりと、音楽の終わりなき終わりのモデルケースだからである。

 

senza inizio

Prometeo初演に際して出版されたVerso Prometeoという小冊子の中で、ノーノは二度マーラーの『一番』開始の弦に言及している。

 

ひとつは1984年春のカッチャーリとの対談(進行役Michele Bertaggia)のなかでの発言

交響曲のもっとも演奏しにくい出だしといったらマーラーの一番でしょう。A音の何オクターブにも及ぶ弦のハーモニクスで、楽譜にはNaturlaut(自然の音)と指示が書かれています。(…)それは始まりに気づいてはいけないような出だしなのです。気がつくと自分がその中にいるというのでなくてはいけない。始まりを知ることなく、既にそこにあるものに驚かされるのです。散歩をしていて不意に、といった感じで。 *4

Frammenti di Diariと題された断章風の覚書のなかでもほぼ同様のことを短く述べている。

(…)そこに始まりはない。無限の谷あいのおおいなる息吹の只中にあるのを不意に見いだすのだ。 *5

 

そのマーラーを、ノーノは少なくとも三通りのやり方でPrometeoに引用しているとみられる。ひとつは既に述べた、Lydia Jeschkeが指摘している冒頭3~7小節の弦。Prometeoのなかほどには、より直接的にマーラーを彷彿とさせる音が聞こえてくる箇所もある。Tre Voci aの4小節から110小節まで10分以上鳴り続けるヴァイオリンの平坦なハーモニクスは、まず間違いなく『一番』の弦を意識したものだろう。「始まりに気づいてはいけないような出だし」は、奏者の数を調節することによって演出される。この音は4群のオーケストラのそれぞれに4人ずつ含まれるヴァイオリン奏者が出している。譜面上で指定されているダイナミクスppppで常に一定だが、演奏に参加する奏者の数が変化する。横軸を小節数、縦軸を奏者の数としてグラフを描くと、満潮時刻前後の潮位変化のような山型の図になる。出だしの4小節から7小節までの奏者は最小のたった一人。だから音の入りはもっとも聞き取りにくい。

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マーラーの第三の引用は、Prometeoの楽譜をいくら眺めても、CDの録音をいくら聴いても見つからない。Prometeoの電子音響と言うと、今ではもっぱらライヴ・エレクトロニクス(すなわち演奏音をリアルタイムで加工する技術)に関する諸事ばかりが取り沙汰されるようになっているが、もともと初演当初は、ライヴ・エレクトロニクス担当のフライブルク組と、パドヴァ組の二枚看板でまかなわれていた。後者が行っていたのは、パドヴァ大学のCentro di Sonologia Computazionaleで当時開発されたばかりの 4i というDSPを搭載したシンセサイザーをつかって、リアルタイムで新規に音を合成する作業である。ノーノがPrometeoのために 4i のシステムで取り組んでいたテーマのひとつが、マーラー『一番』冒頭の弦の音響構造の、電子音による詳細な再現であった。1984年ヴェネツィアでの世界初演の際は、その成果がこんなかたちで生かされていたという。 *6 *7 116.5 Hz のB♭の持続音が、聴衆と奏者を乗せたレンゾ・ピアノ設計の「船」の下部に置かれたスピーカーから再生される。はじめのうちは船が共振して地鳴りのように震えだすほどだったその低いモノトーンが、だんだんと7オクターブに拡大するとともに、いつしかマーラーの澄んだ響きへと変容していく。私がみた二つの資料には、これがPrometeoのどの部分で使用されていたかがはっきりと述べられていないのだが、パドヴァ組の「組長」だったAlvise Vidolinの次の記述を読んだ印象では、Prologo冒頭のマーラー的な弦に並行して使われていたということを言っているようにも聞こえる。

In the 1984 Venice version of Prometeo, Nono began by conjuring up the chord that opens the First Symphony of Mahler and the 4i system was chosen to intone the 116.5 Hz B-flat, projected by the loudspeakers set under the base of the structure, then expanding it gradually over seven octaves and transforming it, finally, into the dimmed sound of a distant chorus. *8

*1:Luigi Nono (1987). Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes.

*2:Ibid.

*3:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 15

*4:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*5:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*6:Alvise Vidolin (1997). Musical interpretation and signal processing. In: Roads, C., Pope, S.T, Piccialli, A. & De Poli, G. (eds.) Musical signal processing. Lisse: Swets & Zeitlinger: 439-459.

*7:Intervista ad Alvise Vidolin, a cura di Carlo De Pirro. [pdf]

*8:Vidolin (1997), p. 154

断ち切られない歌 中篇の下 4/16

プロメテオのさいはて、つづき

senza fine

Tristanに関するノーノの主な発言は二種類の文献にまたがっている。ひとつは先ほどマーラーのところでも出てきたカッチャーリとの対談で、もう一つは例の自伝的インタビューである。

 

Enzo Restagnoによる自伝的インタビュー(1987年3月) *1 より

A

Tristanの第三幕の始まりの、あの名高いB♭マイナーの和音、あれが海です。ゆったりと波打ちながらつづいていく海、そしてその只中に沈黙がある、トリスタンの沈黙、イゾルデの沈黙。 *2

B

私にとってTristanの第三幕は、ひとつづきの沈黙です。その沈黙が折につけよすがとしているのが、断片――それとともに幕がひらき、時としてそこに立ち返っていくB♭マイナーの和音――です。ここには声もあり器楽もありますが、私にとって、時おり回帰してくるこの和音は、いままさに沈黙が始まると告げ知らせる境界標のようなものです。 *3

カッチャーリとの対談(1984年春) *4 より

C

Tristanの第三幕は、絶えざる破壊です。そこではもはや声は声ではなく、テキストはテキストではない。そこではすべてが音です。その音というのは、(マーラーと同様に)別の深さを、別の次元を探し求めるワーグナーによって組み合わされた音です。演劇的な次元になお囚われながらも、彼がそれを乗り越えんとして柵を、牢の格子を叩いているのをわたしたちは感じます。要素が回帰してくるありかたを聞くことで、それを感じることができる。回帰といっても、もちろん、ただ繰り返すための空疎な自己引用ではない(連続変数だとかライトモチーフのようなものではありません)。別の可能性を提示するために回帰してくるのです。それらは再創造するのです……アドルノが言っていたような類の回帰ではない。長い沈黙を、破るとともに開始させるべく回帰してくる、冒頭のB♭マイナーの和音。Tristanの第三幕では、まさに限りない沈黙を聞くことができる。

D

Tristanの「終結部」においても同様の問題が、マーラーの一番の開始において経験するのと同じ「投げ込まれたもの」があります。時間の問題、そしてその達成、完遂の問題。なぜなら、実際のところTristanには終わりはないのです。それは決して終わらない。もちろん舞台上の登場人物の死によっても。それどころか、書かれた音楽の消滅によってさえも。Tristanによって、われわれはまさしく、沈黙と、音と、そして何よりも新しい音――ultrasuoni ――の写像が投影された空間のなかに入っていくのです。そうなのです、Tristanにおいてワーグナーは実質的に、ultrasuoniによる作曲を成し遂げたのではないかと思います。ultrasuoni――物理的な音ではないが、にも拘わらず存在している音。ついに聞き得るものとなった聞き得ないもの。これこそがTristanの魔術です!

 

Prometeo初演を半年後に控えたカッチャーリとの対談の席でTristanをこれほど熱っぽく語っていたノーノが、Prometeo終結部とTristan終結部の符合にまったく無自覚だったとはちょっと考えられない。おそらくノーノはPrometeoを、「そこに始まりはない」マーラーで始まるとともに、「決して終わらない」ワーグナーで終わる音楽にしようという目論見を、短く言い換えれば、Prometeoを始まりも終わりもない(senza inizio senza fine)音楽にしようという目論見をもっていたのだと思う。

*

マーラーのほうの簡潔なコメントに比べてだいぶ込み入っているノーノのTristan評をいまいちど整理しよう。Tristan第三幕は○○である、の○○のところに4つのものが入る。

  1. Tristan第三幕は海である。
  2. Tristan第三幕はひとつづきの沈黙である。
  3. Tristan第三幕はすべてが音である。
  4. Tristan第三幕を海のように充たしている、沈黙でありまた音でもあるこの新しい音に、ultrasuoniというひとつの呼び名が与えられる。イタリア語でultrasuoniといえばふつう超音波のことであるが、ここでは「聞こえないけれども存在している音」の意で受け取るべきなのだろう。

以上を要約して、Tristan第三幕は丸ごとすべてがultrasuoniの海である、というだけでは本当はまだ足りない。ベッリーニの場合と同じく、海の水は一個の作品の枠を越えて自然に溢れ出していくからである。ノーノはもっぱら第三幕の終端に立って、イゾルデの死によって劇の幕が下りてもなお途切れることなくつづいていく「決して終わらない」海を見やっているが、おそらく反対の端に立っても同じような海の眺めが、開いていく幕の向こうに横たわっているに違いない。

 

それではわれわれはTristanのなかの何によって、いまこの場所が広大無辺の海原の真っ只中だということを知るのだろうか。

 

「例の無限旋律によってですよ」という、誰でも思いつきそうな月並みな解答――ちなみにノーノは、1980年の弦楽四重奏曲Fragmente - Stille, An Diotima初演に合わせて開かれた討論の席で無限旋律の語を口にした質問者を、「貴方はなにを今さらそんな古めかしいクリシェを持ち出しているのですか」とにべもなく一蹴したことがある *5 ――に代わってノーノが挙げている指標は、「時おり回帰してくるB♭マイナーの和音」である。

 

B♭マイナーの和音。これは第三幕冒頭の弦(チェロとコントラバス)に始まって、序盤の10分間ほどのあいだに計6度出現する。楽譜から該当箇所をすべて抜粋して並べてみよう。

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F - B♭ - D♭ 音と F - C 音が一小節ごとに入れ替わる呼吸のようなリズムがあって、その呼吸の回数が順に3回、3回、2回、1回、1回半。最後の6番目は例外で、F - B♭ - D♭ のみが3小節強つづく。スコアの何頁にもわたって連綿と持続する、マーラーのNaturlautとはまったくタイプの異なる音である。ノーノは至極真っ当に、これらの音を un frammento、断片だと呼んでいる。

 

そのささやかなる断片を指差して、あれは海だ、ゆったりと波打つおおいなる海だと呟くノーノの真意を知るには、ほんのちょっとした、一枚の絵で言い尽くせるほどの、ちょっとした発想の転換が必要である。

 

ノーノのCDジャケットのベストデザインを決める選抜総選挙でも開かれた折には、迷わず一位に推したい、EMI/RICORDI盤のPrometeoの外箱の眺め。Willem Klewaisという人の手によるものらしいこのデザインは、それだけでPrometeoについてのすぐれた批評である。材木の色合いも肌理も良い、鉛筆の殴り書きの粗いタッチも良いが、特に素晴らしいのは板にボコボコとやや蓮っぽく開けられた穴ボコだ。Prometeoといえば群島だ、島だという連想に傾きがちなところによくこの意匠を持ってきたものだと思う。そうなのだ、断片性の喩となり得るものは、なにも「島」だけではなかったのだ。

 

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「穴」としての断片には、それを見る人の心象のなかでバラバラの孤立状態にとどまらずにおのずと一体化するという特筆すべき性質がある。Prometeoのジャケットを見て、板の背後に暗い連続した空間の存在を意識しない人はいない。穴からはずれて見えない部分が、穴から見えている断片的な情報を元に脳内で補完されて、ひとつにつながりあうからである。もしも穴から覗いている色が黒ではなく青だったらなお良かったと思うのだが、もしそうだったら、板の向こう側にひろがる大海原を、もしくは大空を感じることができただろう。断片性を連続性に変換するこの強力な認識のしくみを「知覚的補完」という。いま挙げた例のように、一面の海の青が実際に目に見えるわけではないにもかかわらず、遮蔽物の背後に隠された海の存在が知覚されるような類の補完は、固有の感覚モダリティの体験を伴わないという意味で、とくに「アモーダル補完」と呼ばれる。

 

同じ断片であっても穴が島になると、知覚的補完はさっぱり働かなくなる。穴の向こう側の空間が連続しているように、すべての島は(浮島でないかぎりは)海底面を介してひとつにつながりあっているという事実を、わたしたちはたしかに知識として知ってはいるが、群島の絵をいくら眺めても、海面下に隠れた連続性が自然に「見えてくる」ことはない。これはひとえに、海面から突き出た島が周囲の海に対して図地の図の関係に置かれているからである。

 

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有名な「ルビンの壺」のだまし絵が教えてくれるとおり、知覚的補完は必ず、地だと認識されたほうの面に対して生じる。その背景にあるのは、ヒトの図地弁別の次のような基本原則である。

 

  • 図と地の境界線は図の側に帰属し、図の輪郭を囲み規定する線として機能する

 

図は輪郭をもつ。したがって、定まった形をもつ。だがその代償として文字どおり自縄自縛に陥り、自らが所有する輪郭のなかに封じ込められる。上のだまし絵を見ていて図地が反転するたびに、図になったほうの色は物体化してその場に凝固し、動かなくなる。図の領域は、現に見えている以上の拡がりを持ち得ないという意味において断片的である。

 

地は輪郭をもたない。したがって、定まった形をもたない。だがその引き換えとして無限定な拡がりをもつ。上のだまし絵を見ていて図地が反転するたびに、地になったほうの色が水のように流動化して、図によって隠されて見えない背後の空間にスーッと満遍なく浸透していくのが(見えないけれども)感じられる。現に見えている地の領域は、さらに広大な連続性の一部分だという意味において断片的である。

 

要するに、人が見る主観的な世界のなかで図は固体的な性質を、地は液体的な性質を示すのである。黒が壺の形を得たときは白が、白が人の横顔の形を得たときは黒が、視野一面の海になって空間の奥底を充たしていくのだ。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987). In: Restagno, E. (ed,) Nono. Torino: EDT/Musica: 3-73.

*2:Ibid., p. 38.

*3:Ibid., p. 17.

*4:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*5:Kay-Uwe Kirchert (2006). Wahrnehmung und Fragmentierung: Luigi Nonos Kompositionen zwischen <<Al gran sole carico d'amore>> und <<Prometeo>>. Saarbrücken: Pfau, p. 208