アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Guai ai gelidi mostri Texts 概略 4

11 pietra su pietra

テキスト第4章の中のMisurato pietra su pietra、すなわちMeasured stone upon stoneという語句の直接の出典は、パウンドの『第27詩篇』に求められるようにみえる。『第27詩篇』には、人間の建設的な営為を表す言葉としてstone upon stoneまたはこれに類した表現が4回現れる。しかし「石の上に石を」というこの語句は、おそらくもう一人の人物、ウィトゲンシュタインにつながるリンクでもあるのだろう。ウィトゲンシュタインは、カッチャーリの「連作歌曲」的なウィーン文化論集『Dallo Steinhof シュタインホーフから』を貫流する、もっとも重要なモチーフの一つであり、とりわけウィトゲンシュタインに由来する明晰さ(Klarheit)という語は、全篇にわたって繰り返し現れるキーワードである。ウィトゲンシュタインを中心的に論じている6つの章のうちの一つ「近代的なものの批判」では、『論理哲学論考』のために書かれた序文が引用されている。最終的に『論考』には含まれることなく、『反哲学的断章』に収録されたこの序文は、ウィトゲンシュタインの発展に対する無関心(Entwicklungsfremdheit)を表明した次のようなくだりで結ばれる。

「進歩」という言葉が、わたしたちの文明の特徴を、いいあらわしている。

[……]

わたしたちの文明は、典型的に、建設をこととする。その活動は、ますますもって複雑な構築物を、くみたてるということだ。しかも、澄んだ明るさ[明晰さ]ということも、ひたすら建築という目的に奉仕するだけで、自己目的などではない。ところがわたしにとっては、澄んだ明るさ[明晰さ]、つまり透明ということこそ、自己目的なのだ。

建物をつくりあげることに、わたしは興味を感じない。考えられうる建物の基礎を透視すること、それがわたしの興味の対象である。

[……]

まず第一の動きは、ひとつの考えを別の考えにむすびつける。もう一方の動きは、繰りかえし、おなじ場所をめざす。一方の動きは、建設的で、つぎからつぎへと石を手にとる。もう一方の動きは、繰りかえし、おなじものをつかもうとする。 *1

石の上に石を積み重ねていく(pietra su pietra)建設的な理性に対して、ウィトゲンシュタインの明晰さは、繰り返し同じ場所を、建物の基礎を、透視しようと試みる。このまなざしが看破するのは、建物の土台のそもそもの無根拠性、すなわち、世界を作り上げているのはもろもろの偶然であって、世界のうちにはいかなる価値も存在せず、語りうるものはもろもろの等価な命題だけだという認識である。

 

『Dallo Steinhof』では、世紀転換期ウィーンの音楽における明晰さの事例として、ベルクの合成の原理と、ヴェーベルンの反復不可能性の原理が取りあげられる。合成とは、別の言葉で言えばコンポジションということである。「コンポジション」の意味するところについて、カッチャーリはノーノの名前も出しつつこんな風に語っている。

プラトンも言っているように、さまざまな現象をいかに救出するか、つまり全ての現象を還元し一つにするのではなく、それらをそのまま組み立てる(com-porre:一緒に捉える)ことが重要なのです。このことから作曲家(compositore:組み立てる人)ノーノや建築史家タフーリとのコラボレーションも生まれるわけです。 *2

プロメテオ』についてのカッチャーリの小論にも次のような一節がある。

ノーノのプロメテウスにとってロゴスとは、同じではないものを、そのようなものとして、それらの区別を保ったまま寄せ集める行為である。それが、死すべき者にプロメテウスが授けた教え、すなわちコンポジションという技芸である。コンポジションは、ユニークなLogosの教条主義、対立項を一つの解決へと解消する教条主義からついに自由であり、あの「始まり」の守護者、われわれのいかなる「アート」よりも強い「始まり」の「言い表しえぬもの」の守護者である。 *3

 

合成、コンポジションの原理とは、「世界を偶然のものの全体、生起するものの全体として『包括する』こと」 *4 である。世界が偶然というものであること、根拠をもたないこと、それはつまり、世界が偶然の事実という雑多な断片の寄せ集めだということである。「還元不可能なしかたで多様である」 *5 これらの断片を「みずからのうちに溶解してしまうことのできる〈解答〉はない」。*6 解決へと発展する途を絶たれた断片は、限界づけられた事実の空間の中で、その差異を保ちつつひたすら合成されていくばかりである。合成の論理学のもとでは、「あらゆる杣道が途絶しているが、これらのたえまない途絶のために森のなかへ自由に拡散することはまったくなく、多数の中心、多数の草地、無数の発見へと導かれる」。 *7 これに対しヴェーベルンの断片は、その各々が反復不可能で唯一の偶然の小宇宙をなす。「楽句は、発作へと短縮され、インターヴァルによって区切られ、ユニークさのもとで孤立させられて」 *8 いる。「短さと絶対的な明晰さの原理は、語りうるものの素材を前代未聞の緊張のただ一点のうちに集中させる」。 *9 「偶然は反復不可能であるがゆえに、またユニークさのもとにあるあらゆるものは反復不可能で永遠であるがゆえに反復されえない完全に孤立した音が、わたしたちのうちにある沈黙―空虚のなかに打ちこまれる」。 *10 「個別的なものが明晰さをもって見られ、自己のうちなる空虚の最大限の集中のもとで聞き取られるとき、それはすべてである」。 *11

 

ウィトゲンシュタイン的な明晰さをカッチャーリが必要なものだとする最大の理由は、『論考』の4.115に表明されている「哲学は、語りうるものを明晰に表現することによって、語りえぬものを示唆するにいたる」というウィトゲンシュタインの思想、すなわち、語りうるものについての明晰さが、語りえぬものが「示される」可能性を開くという点にあるようだ。数々の偶然の事例の織り成す多島海の外側に、解決へと向かう発展の経路をたどって逃れ出るすべはない。それでも、この限界の内部で、島々を経巡る終わりのない流亡の旅をやりぬくこと、それがベルクの属する合成の原理である。このように徹底して「限界を画定することなしには、明晰さも理解可能性もない」 *12 とカッチャーリは書いている。「等―価性(equi-valenza)の言語は、それの諸前提ごと、徹底的に引き受けられ、問い求められることによって、語りえないものの問題と語りえないものの自己提示の問題に向かって開かれる」。 *13 ヴェーベルンの反復不可能でユニークな音は、「言葉を包含する沈黙、言葉が担うことのできない沈黙から水晶の純粋さをもって発出する」。*14 「見うるものを明晰に見、語ることができるとき、見うるものを包含する空虚、見うるものを構成する沈黙の背景が、みずからを提示する」。 *15 先に引用したカッチャーリのプロメテオ論ではこう書かれている。

ノーノの『プロメテオ』はわれわれを聴くことへと誘う。その声の、その音の還元不可能な唯一性に耳を傾けること、しかしそれだけでなく、その音の聴こえない起源にも耳を傾けること。というのは、すべての表現が産まれるのはそこからだからである。 *16

 

ウィトゲンシュタインの語りえぬもの(神秘的なもの)の問題を再検討した『Dallo Steinhof』の一章「神秘的なものについての再論」でも、最大のアクセントは、「神秘的なものは示される」という点に置かれる。「ウィトゲンシュタインは、言表しえないものを否定的なものとして特徴づけることはまったくない。反対に、かれはこう言う。言表しえないものは示される。それの空間は自己提示の空間であり、それこそが〈神秘的なもの〉である、と」。 *17 語りえぬものは、言語の単純な否定でも、言語の超越論的な起源でもない。それは、語りうるものの絶対的な差異として「語りうるものに容赦なくつきまとう」。 *18「〈神秘的なもの〉は、語りうるものと語りうるものの諸命題とを超えたところ、それらの向こう、それらの上にある次元と解されるわけではない」。 *19 語りえぬものについては沈黙するほかないが、それでも語りうるものを明晰に語りきることによって、語りえぬものはおのずから現れ出る。「〈神秘的なもの〉は自己を示す。したがって、暗いところはなにもない」。 *20 かくして神秘的なものの自己提示の場所は、「開けた場所」と呼ばれることになる。

 

神秘的なものは、どこか遠い彼方にあるわけでも、深みに潜んでいるわけでもない。それは語りうるものに容赦なくつきまとい、ある意味でどこにでも存在する。語りうるものは、語りえぬものの空虚に取り巻かれている。「言葉を包含する沈黙」「取り巻く沈黙」「包み込んでいる沈黙」。本の頁の、文字と文字のあいだの空白や余白のように、あるいは事物を取り巻く空気のように。テキスト第4章ではイタリア語訳で引用されているパウンド『第25詩篇』のBright void, without image、イメージなき輝く空虚が現前するのは、in the air、すぐ眼の前にひろがる空気の中である。ノーノは「実際のサハラやエジプト、ゴビのような砂漠ではなく、東京やローマ、パリやモスクワのような大都会の中に存在する」 *21 大いなる砂漠について語っている。語られる言葉が縦横に駆けめぐる都会の喧騒の只中にさえ、この溢れ返る音の「裏を取る」ような耳によって発見されるのを待っている砂漠が、「昔から今日にいたるまで常に存在しつづけ」 *22 ているというのだ。

 

この、どこにでもある砂漠について、ノーノはこうも言っている。「私自身は全く空っぽで、私の空間も空虚です。砂漠のようなものといいましょうか」 *23 カッチャーリも「自己のうちなる空虚」にしばしば言及している。「反復されえない完全に孤立した音が、わたしたちのうちにある沈黙―空虚のなかに打ちこまれる。わたしたちは、音を聞くために、また音を迎え入れるために、その沈黙―空虚を自分自身のうちに作り出した」。 *24 私自身が、遍く存在する空虚の大洋にどっぷりと浸かった水浸しの島であるということ。それゆえノーノは、いつどこにあっても砂漠の沈黙を聞き取ろうとすることを、慣習から解放された耳によって、「私たち一人一人の内面に耳を澄ます音楽的行為」 *25 と呼ぶのだ。Das atmende Klarseinの練習時にノーノがアンドレ・リヒャルトに向かって言った、「私は自分が何をやってるのかよく分からない」という言葉は、私の内なる砂漠/空虚が私有地などではなく、私自身も読み解くことのできない、私のものではない非人称な空虚であるということを告げているようにみえる。

 

12 Pone metum / discontinuous gods

テキストの最後に繰り返されるのは、Pone metum (Lay aside fear) である。パウンドの『第25詩篇』に3回引用されているこの言葉は、古代ローマの恋愛詩から引かれたもので、原典では「病気はきっと良くなるから心配しなくてもよい」というような意味だが、Guai ai gelidi mostriのPone metumはおそらく死の恐れに対して向けられたものだろう。

Mais là où cesse l'Etat, où cesse l'idolâtrie, cesse également ce décret de la mort. Et l'air se recrée, plein de discontinuous gods, de dieux inconstants. Et nous pouvons abandonner la peur. [LINK ]

*

国家が終わるところ、偶像崇拝の終わるところで、死の教令もまた終わる。空気がつくりかえられる、discontinuous gods――不連続な神々に満ちたあたらしい空気へと。そしてわたしたちは恐れを捨て去ることができるのだ。

上の引用では、国家の終焉が空気の変容であることが明示されている。静かな汐風が吹きめぐる、国家の終わるところでは、国家を覆っていた腐臭も、有毒な瘴気も、過去を覆しえない過ぎ去ったものとして凍結させる冷気も払拭されている。いまや空気はdiscontinuous godsに満ちている。パウンド『第21詩篇』のcrisp air、爽やかな空気の中に現れるdiscontinuous godsの名を冠するのにとりわけふさわしいのは、ローゼンツヴァイク『救済の星』の、啓示者としての愛する神だろう。「創造の要石である死は、すべての創造されたものに被造物性の消しがたい刻印、つまり『そうであった』ということばをはじめて押すのだが、その死にたいして愛が、つまりもっぱら現在しか知らず、現在によって生き、現在を恋焦がれている愛が、戦いを宣言する」。 *26 啓示者である神は不変の偶像ではない。「愛は愛する者の肖像を描くのをはばかる。肖像は生きた顔を死せるものへと硬直させる。『神は愛する』はもっとも純粋な現在である――将来愛するかどうか、いやそれどころか、かつて愛していたかどうかさえ、愛そのものの知ったことだろうか。いま愛しているというその一事を愛が知っていれば十分なのだ」。*27 「神は死んだ」のでなく、あらゆる瞬間に新たに目覚める不連続な神々に生まれ変ったのだ。現在的な愛の照明を受けて、一様な時の継続は、そのつど最も若々しく生き生きとした瞬間の、絶えざる迸りへと変容する。「この愛は、死にたいする永遠の勝利」 *28 だと、ローゼンツヴァイクは書いている。Pone metumが恋愛詩を原典としているのも理由のないことではないのかもしれない。

*1:ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』、丘沢静也訳、青土社

*2:「マッシモ・カッチャーリに聞くアナロジーの論理学」、八十田博人訳、『批評空間』第III期4号

*3:Massimo Cacciari. L'ÉTROITE BANDE DE TERRE. [pdf]

*4:カッチャーリ「動物小屋へいらっしゃい」、廣石正和訳、『批評空間』第II期18号

*5:カッチャーリ「音楽、声、歌詞」、廣石正和訳、『批評空間』第II期18号

*6:同上

*7:カッチャーリ「動物小屋へいらっしゃい」

*8:カッチャーリ「弓道」、廣石正和訳、『批評空間』第II期25号

*9:同上

*10:同上

*11:同上

*12:カッチャーリ「音楽、声、歌詞」

*13:カッチャーリ「動物小屋へいらっしゃい」

*14:カッチャーリ「弓道

*15:同上

*16:Massimo Cacciari. L'ÉTROITE BANDE DE TERRE.

*17:カッチャーリ「神秘的なものについての再論」、廣石正和訳、『批評空間』第II期20号

*18:同上

*19:同上

*20:同上

*21:1987年の来日時の講演の中での発言。『現代音楽のポリティックス』、水声社に収録

*22:同上

*23:1987年の高橋悠治との対談の中での発言。『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)』に収録

*24:カッチャーリ「弓道

*25:1987年の来日時の講演の中での発言。『現代音楽のポリティックス』、水声社に収録

*26:ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、238頁

*27:同上、249頁

*28:同上