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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Guai ai gelidi mostri Texts 概略 3

Guai ai gelidi mostri

9 Entwicklungsfremdheit、隣人、カミナンテス(承前

いっぽう、ノーノのcaminantesとは、どのように歩くひとびとなのだろうか。ノーノがトレドの修道院の壁にみた文句は、じつはアントニオ・マチャードの詩『諺と歌』の一節をパラフレーズしたもので、この詩のなかで、道は海の上の航跡になぞらえられている。少なくともはじめのうちノーノは、この言葉がマチャードの詩からきたものであることを認識していなかったようだが、それでも航跡というイメージはノーノの道にふさわしいものだろう。

 

no hay caminosをどう捉えるかが鍵になる。なぜ道がないのか。隘路に嵌まったということだろうか。日本語訳の「進むべき道はない」からはたしかにそんなニュアンスも感じられる。しかしノーノ自身は「決まった道がない」という言い方をしている。同じ「道はない」でも、「決まった道がない」は「隘路に嵌る」の逆である。どこをどのように通ることもできる海の上に決まった道はない。その上をただ受動的に移動すればよいレールなど存在しないのだから、海の上ではみずからが、進むべき道を歩きつつ創りださなくてはならない。

 

1986年以降のノーノの音楽に出現する、平坦な面状あるいは線状の持続音は、音符で書き表せないほどの微細な震動をつねに湛えている。その間断ない微かな揺らぎが、なにかを探し続ける道のりの表現なのだとするノーノの考えは、航跡をイメージすれば理解しやすい。船は海面であればどこを走ることもできるが、海面を離れることは決してできない。行程を俯瞰する視点を持ちえない以上、航跡に遠く離れた点への飛躍はありえない。進むべき道を知らない船にできるのは、船がとらえうる限りの局所的なシグナルを鋭敏に感じ取りながら、海上で刻々と針路を調整していくことだけである。ここでもまた、さしあたりもっとも近くにある個々の瞬間に最大の注意が払われなければならない。

 

10 Michelstaedter

国家の終わりではじまる「必要な人間の歌」。Guai ai gelidi mostriのテキストではその歌を、ミケルシュテッテルの「得心の歌il Canto persuaso」と呼んでいる。

 

あらゆる存在は、逃げ水の如くたえず前方に未来を見いだしてしまう性に生まれついているという認識が、ミケルシュテッテルの出発点に置かれている。ミケルシュテッテルの主著『得心と修辞(英訳版)』には、continuation/continueという言葉が何度となく現れる。

The meaning of things, the taste of the world, is only for continuation's sake. Being born is nothing but wanting to go on: men live in order to live, in order not to die. *1

「continuation 連続」という生き方は、留め金からはずれた重りのようなものだ。落下していく重りがつねにより下方への飢えに囚われているように、彼の現在はいつでもなにかしらの欠乏、飢えに苛まれ、充たされることがない。この飢えを満たしてくれるような当座のなにかを未来に要求して、彼の時間は自ずから前方へ流れ始める。この要求demandの連鎖は、死という障害に行く手を阻まれるまで途切れることなく続いていく。演奏中のピアニストの眼が、五線譜の上を最後の二重線に至るまで、絶えず次の音符を追って先へ先へと進んでいくかのように。そのとき視界に照らし出されているのは五線譜とせいぜいその近傍のみであり、五線譜の外側には、彼の与り知らぬ広大な暗がりが控えているのだ。

 

ケルシュテッテルは、連続という生を生きる人間が世界の中で取りうる位置を、第一象限に描かれたxy=C (Cは正の定数)のグラフで表現している。xはdemand――生き続けるために彼が要求する、所有しようとするなにか yはgive――彼が与える、贈ろうとするなにかを表す。曲線xy=Cにとって、y軸は漸近線である。限りなく接近することはできても、曲線がy軸に接する点[0,∞]はあくまで極限値として理論上考えられるにすぎない。生を未来へと駆り立てる力であるxがゼロに成り得ないのだから、現在にたちどまることは不可能である。しかし得心persuasionとは、連続という生き方が到達不能な、直線x=0の砂漠に降り立つことらしい。そんなことは不可能だという反駁に対してミケルシュテッテルはそのとおりだと答える。

Certainly: impossible! For the possible is what is given. The possible are the needs, the neccesities of continuing, whatis within the limited power directed to continuation, in fear of death, what is death in life, the indifferent fog of things that are and are not. The courage of the impossible is the light that cuts the fog, before which the terrors of death fall away and the present becomes life. *2

不可能であることの勇気が照らし出すbright void (パウンド『第25詩篇』)、その光のもとで、事物はもはや彼が生き続けるために利用される対象ではない。生を未来へと駆動するdemandが消失して彼の生は現在に充足し、時はいまこの瞬間へと濃縮されてゆく。

Alone in the desert, he lives a dizzying vastness and profundity of life. Whereas philopsychia, ever anxious fot the future, accelerates time and exchanges one empty present for the next, the stability of the individual preoccupies infinite time in presentness and arrests time. Each of his instants is a century in the life of others--until he makes of himself a flame and comes to consist in the final present. Then he will be persuaded and in persuation have peace. *3

*1:Carlo Michelstaedter (translated by Russell Scott). Persuasion and Rhetoric. Yale University Press, p.38

*2:Ibid., p. 50

*3:Ibid., p. 57