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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Guai ai gelidi mostri Texts 概略 1

1

2人のアルト歌手、フルート(+持ち替えのピッコロ、バスフルート)、クラリネット(+持ち替えのピッコロクラリネットコントラバスクラリネット)、チューバ(+持ち替えのピッコロトランペット)、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ライヴ・エレクトロニクスによるGuai ai gelidi mostri ――冷たい怪物に気をつけろ(1983年10月23日初演)のためのテキストは

  1. In Tyrannos!(僭主たちのなかへ)
  2. Lemuria(レムリア)
  3. Das große Nichts der Tiere(動物たちの大いなる無)
  4. Entwicklungsfremdheit(発展にうといこと)

の4章からなる。各々の章は、Emilio Vedovaのアサンブラージュ...cosidetti carnevali...の中の、同名の4作品に因んでいる。音楽もこの4章の構成を維持しているが、実際に歌われる言葉はテキストのなかのごく一部のみであり、特に3章では声は完全に沈黙して、一語も歌われることはない。

 

4章のテキストは、それぞれ以下の著作から引用された言葉の断片で構成されている。

 

I. In Tyrannos!

Friedrich Nietzsche (1844-1900)

Also Sprach Zarathustra - Vom neuen Götzen

フリードリッヒ・ニーチェ

ツァラトゥストラ』より「新しい偶像」

*

Ezra Pound (1885-1972)

Canto VII, XIV, Addendum for C

エズラ・パウンド

詩篇』第7篇、第14篇、第100詩篇補遺

*

Lucretius (ca.99BC-ca.55BC)

De Rerum Natura: Liber VI

ルクレティウス

『事物の本性について』第6巻より、アテナイの疫病について

*

Franz Rosenzweig (1886-1929)

Der Stern der Erlösung - DAS RECHT IM STAAT

フランツ・ローゼンツヴァイク

『救済の星』第3巻第1章より、「国家における法」

 

II. Lemuria

Ezra Pound (1885-1972)

Canto VII, XIV

エズラ・パウンド

詩篇』第7篇、第14篇

*

Gottfried Benn (1886-1956)

Dunkler

ゴットフリート・ベン

「もっと暗く」

*

Ovid (43BC-AD17/18)

Fasti: Liber V

オウィディウス

『祭暦』第5巻・マイユス月より「五月九日」、レムリアの祭儀について

*

Lucretius (ca.99BC-ca.55BC)

De Rerum Natura: Liber VI

ルクレティウス

『事物の本性について』第6巻より、アテナイの疫病について

 

III. Das große Nichts der Tiere

Rainer Maria Rilke (1875-1926)

Duineser Elegien - DIE ACHTE ELEGIE, DIE ZWEITE ELEGIE

ライナー・マリア・リルケ

『ドゥイノの悲歌』第8悲歌、第2悲歌

*

Gottfried Benn (1886-1956)

Prolog 1920

ゴットフリート・ベン

「プロローグ 1920年

 

IV. Entwicklungsfremdheit

Friedrich Nietzsche (1844-1900)

Also Sprach Zarathustra - Vom neuen Götzen

フリードリッヒ・ニーチェ

ツァラトゥストラ』より「新しい偶像」

*

Ezra Pound (1885-1972)

Canto XXI, XXV, XXVII, LXXXI

エズラ・パウンド

詩篇』第21篇、第25篇、第27篇、第81篇

*

Carlo Michelstaedter (1887-1910)

Persuasione e la rettorica

カルロ・ミケルシュテッテル

『得心と修辞』

 

2 air

Guai ai gelidi mostriのテキストは多岐にわたる引用の織物であるが、その中でも構成上の支柱となるのはニーチェのテキストである。

 

ニーチェ *1 の『ツァラトゥストラ』第一部のなかの一章「新しい偶像」は、主要部である「国家」と終結部の「国家が終わるところ」という2つの場所からなる。Guai ai gelidi mostriのテキストの1章と2章は「国家」に、4章は「国家の終わり」にそれぞれ対応する。

 

ニーチェの特質である生理的感覚は「新しい偶像」にも横溢している。「国家」と「国家の終わり」の違いは、端的に言って空気の違いである。国家という「冷たい怪物」は、「悪臭を放つ」。国家から脱出することは、「悪臭から逃れ」ること、「濛気から脱出」することで、「国家が終わるところ」は、「静かな海の香りが吹きめぐる多くの座」である。『この人を見よ』の序言でニーチェは、「私の著作に流れる空気を呼吸するすべを心得ている者」という言い方をしている。国家の脅威も終焉も、空気の匂いや温度、湿度、風の動きにより読者が動物的嗅覚で感じとるべきものとして提示する、それがニーチェ流なのだ。

 

国家と国家の終わりを包む対照的な空気はGuai ai gelidi mostriの第1、2章と第4章にそれぞれ移植され、そのコントラストは、パウンド、ルクレティウスオウィディウスの引用によりさらに増幅される。

 

第1、2、4章に幅広く引用されているエズラ・パウンドの『詩篇』にはairという言葉が頻出する。パウンドの詩もまた「空気を読む」べき詩であり、引用された7つの詩篇は、それぞれが固有の空気を湛えている。ありとあらゆる汚穢にまみれた『第14詩篇』(1、2章)の「沈黙の憩いの場もない空気」は、冷たい怪物の悪臭をさらに強烈なものに仕立てあげる(悪臭・どろどろの沼・うじ虫・吹き出物・糞・埃・汗・汚水溜・汚物・ゴキブリ・食物のかけら・腐乱・どろ沼・ハエ・害虫・膿・ケジラミ・酸化…)。usura(後述)の破壊的作用を告発する『第100詩篇補遺』(1章)は、『第14詩篇』に酷似している。『第7詩篇』(1、2章)の後半を覆っている、ものみなを乾涸びさせる/硬直させる乾いた空気が伝えるのは、あらゆる冷たい怪物のなかでももっとも冷たい怪物の、すべてを凍りつかせる/硬化させる作用である。

 

第1、2章はさらに、アテナイの疫病流行の惨状を描いたルクレティウスの引用によって、死の毒気に冒されている。ルクレティウスによれば、病気は「病気や死を齎す原子」によって「空気が病的になる」ことで起こる。

 

第2章『レムリア』は、黄泉に通じる穴が開いて、さまよい出た死霊の瘴気が大気を満たす、もっとも暗い夜。「レムリア」とは、古代ローマで5月の隔日の3日間に行われていた死霊祓いの祭儀である。カッチャーリのテキスト解説ではレムリアをムンドゥス(mundus)と関連づけている。古代ローマの都市の中心にはムンドゥスと呼ばれる穴が掘られ、その穴は地下の冥界に通じていると信じられていた。ムンドゥスは年に3回開かれ、その日は死者の霊が穴を通って地上を再び訪れるのだという。

 

一転して第4章、国家の終わりには、パウンドのcrisp air――さわやかな、すがすがしい、凛とした空気(第21詩篇)が合流してくる。ニーチェの世界と同様に、第4章に引用されているパウンドの詩篇の中にも風が吹きめぐっている(第21、25、27詩篇)。

 

3 essere-stato

国家という新しい偶像にはessere-statoの名が冠せられている。

最大の偶像崇拝は、すでにあったという信仰であり、覆しえないそうだったという信仰である。*2

*

Idolatria somma è il culto dell'essere-stato, del cosi-fu irredimibile.

essere-statoは、イタリア語特有の、国家と時間を接続する語である。イタリア語でStatoは「国家」。しかしstatoは、動詞essere(英語のbe動詞に相当する)の過去分詞でもある。essere-statoは「助動詞essere+essereの過去分詞」で、essereの直説法近過去(イタリア語のもっとも一般的な過去時制。英語の現在完了に近いニュアンスをもつ)となる。したがってessere-statoは、「国家であることbeing-State」/「であったhas been」の二重の意味をもつことになる。あらゆる事物に「であった」の刻印を押して回る冷たい怪物が好むのは、「対象的なものにまで硬化してしまった過去が帯びる死のような冷たさ」 *3 である。怪物の冷たさが時間に作用すると、過去は覆しえない過ぎ去ったもの、もはや動かないもの(=stato)として、まるで冷凍庫の中に放り込まれたかのように凍りついてしまう。

 

4 usura

essere-statoというキーワードによって、国家に向けられたニーチェの呪詛の言葉は時間のテーマに結び付けられる。エズラ・パウンドの詩の場合は、usuraがそのようなキーワードである。カッチャーリによる「テキスト解説 」からusuraを註釈したくだりを読んでみよう。

Ainsi, l'usure de Pound, aveugle, muette, dévorante, roue d'Ixion du temps rongeur - qui ne connaît que cette dimension du temps - ainsi, l'usure contre laquelle se jette le poête, n'entend pas, dans le « sea-surge », dans la marée montante, « the rattle of old men voice », le murmure des voix anciennes :l'usure est aveugle à ces «flames, étendards et chevaux armoriés » que Paolo Uccelo voyait déjà, montrant sur ce point, une fois pour toutes, comment il est possible de voir. Et elle ne nous laisse, l'usure, « only the husk of the talk », que la cosse du dialogue. [LINK ]

パウンドが「世界の癌」であると言って糾弾し続けた「利子」、その利子を表すのに、パウンドは、利子による利益の獲得が神学上の理由から罪とされていた中世の言葉であるusura、またはこれから派生した英語usury(仏語ではusure)を用いている(昼も夜も休みなく流れ続ける時間とともに自動的に増えていく利子により稼ぎを得ることは、神の持ち物である時間を盗む行為だと言われた)。 *4 usuraには利子以外に、磨耗、摩滅、あるいは感覚の鈍磨という意味もある。

 

磨耗・感覚の鈍麻としてのusura、すり減って、目があっても見えず、耳があっても聞こえないusuraは、すべてを侵蝕する時temps rongeurという時間の次元しか知らない。usuraは、潮騒sea-surgeの中に、rattle of old men's voices、「長老たちのざわめき」を聞くことができない。usuraがわれわれに残すのは、「利子」としてのhusk of talk、「語られる言葉の外皮」のみである。

 

usuraがそれしか知らないというtemps rongeurは、オウィディウス『変身物語』の一節「tempus edax rerum 物という物を食い尽くす時」に当てられた仏訳である。usuraの二重の意味を介して、パウンドが対峙したusuraは、「すべてを侵蝕する時」という新たな語義のもとで捉えなおされることになる。

 

5 husk

usuraが利子として残すhusk of talkは、潮騒sea-surgeの中のrattle of old men's voicesに対置されるものである。husk of talk、sea-surge、rattle of old men's voices、これらはいずれもパウンドの『第7詩篇』の言葉で、解説書によるとrattle of old men's voicesは、ホメロスの『イリアス』で「妙音を奏でる蝉のよう」とたとえられた、トロイアの城壁の櫓に佇む長老たちの声だという。 <<時>>の海原に溶け込んだ古い声の谺する浜辺には、貝殻が、ハスクが打ち上げられる。『第7詩篇』では、(言葉の)外皮、殻、甲皮といった表現が多用されている。

Thin husks I had known as men

Dry casques of departed locusts

a shell of speech

Words like the locust-shells, moved by no inner being

Only the husk of talk

拾い集められた貝殻は、もはやこれ以上塩水に蝕まれることも、波に削り取られることもなく、確固たるかたちを保ち、測ることも数えることも、貨幣として流通させることもできる、硬質な乾いた対象物になる(「対象的なものにまで硬化した過去」)。「記憶は過去が詰まったたくさんの引き出しがある戸棚ではありません」と語るカッチャーリはしかし、記憶の中の過去に硬さの属性を認めていないようだ。「過去は生きています。過去はわれわれが好きなときに引き出しからカタログのように選び出すのではなく、むしろカタログの方が勝手に出てくるのです」。 *5

 

死んだ過去を収納した戸棚ではなく、その中を生きている過去が泳いでいる海のようなものが記憶であるならば、過去は所有しえないものとして今も潮騒の中にあり、波間に魚が姿を現す瞬間を待つように、その現前を待つほかないようなものだということになる。海に背を向けて貝殻探しに夢中になっている人は、かたちあるハスクの確かな手触りにとらわれるあまり、ear for the sea-surge――潮騒の不定形なざわめきを聞き取ろうとする耳を失ってしまっている。

*1:カッチャーリの談話によると、70年代後半に新たな方向を模索していたノーノにとって、ニーチェの読書体験は一つの転機になったようだ。

*2:カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、77頁

*3:ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、309頁

*4:ジャック・ル・ゴッフ『中世の高利貸』、渡辺香根夫訳、法政大学出版局

*5:「マッシモ・カッチャーリに聞くアナロジーの論理学」、八十田博人訳、『批評空間』第III期4号