読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ドナウのための後-前-奏曲のためのノートの前篇 3/4

Post-prae-ludium per Donau

0700-0753 海鳴

7m00sから53秒間にわたって、断片群は消失する。断片が消えた状態であるということは、楽譜を見ても明らかである。C1の超低音を指示する全音符が一つ置かれているだけ。音符にはフェルマータが付けられ、ca53''と書かれているが、循環呼吸のような特殊な奏法を要求しているわけではない。なるべく連続的に演奏すること、そうすれば、同時に稼動しているライヴ・エレクトロニクスの深いリバーブが音の切れ目をつないでくれる。

 

とはいえ、この音は単なる持続音というわけでもない。その演奏法に関して、次のような但し書きが音符の脇に書き込まれているからである。

suono lontanissimo e più mobile possìbile con microintervalli

 

微分音程を伴い、可能なかぎり流動的に」といった漠然とした記述は、具体的にどう演奏するかを奏者に丸投げしているようで、なにか作曲家の仕事放棄のような印象も受けるが、同様の形式で書かれた音は、ヴァイオリン・ソロとテープのためのLa lontananza nostalgica utopica futura (1988) や、La lontananzaのヴァイオリン独奏パートをヴァイオリン・デュオに再構成したノーノ最後の作品"Hay que caminar" soñando (1989) の譜面上でも到るところに姿を見せている。これらの作品に現れるのも、音符だけ見ればなんの変哲もない一定の音高の単なる持続音であるが、これまたその演奏法について、

  • The sound is variable for microintervals of less than 1/16 (of a tone): searching for itself or searching for the sound varying it every time (La lontananza)
  • Sounds never held static but modulated less than 1/16 of a tone (Hay que caminar)

といった抽象的な注意書きが添えられているのである。五線譜の上に乗っかっているにも拘わらず、作曲家によって十分に飼い馴らされていないといった感じの、よそ者の雰囲気漂うこれらの奇妙な音はどのような来歴を経て最晩年のノーノの楽譜上に流れ着いたのか。

 

53秒間のC1の持続音をある程度以上の音量で演奏すると、深いリバーブと相まって、あたかも聴衆ごと深淵に呑み込まれたかのような迫力ある効果が得られるが、こうした音づくりは、魅力的ではあってもノーノの意図とはややずれたものだと言わざるを得ない。この持続音には p が6つも付いている。しかもそれはsuono lontanissimo、遥か彼方から響いてくる音である。

 

「これは遠くから聞こえてくる音である」という旨を表す書き込みを後期ノーノの譜面上に見るのは珍しいことではない。これらの「遠い」のなかには、Prometeoのricordo lontanissimoのように「時間的に遠い」という含意をもつものもある。だが「遠い」と聞いてふつう真っ先に連想するのは時間ではなく空間の方だろう。

 

遠いところとは具体的にどこにあるのか、それを知るためにまず、後期ノーノの空間的イメージであるアーキペラゴ(群島/多島海)を思い浮かべてみる。さて、聞き手はこの音の多島海のどこにいるのだろうか。ノーノの譜面のところどころに「遠い」という言葉が現れるということは、聞き手が飛行機に乗って遥か高空を飛んだりしているのではないということの証左であろう。遠い高みから群島を見下ろしているのなら、すべての音は等しく遠いところにあるわけで、一部の音にだけ殊更に「遠い」とことわりをいれる必要性はないはずだ。

 

つまり聞き手はもっと低いところにいるのである。上空を飛ぶトンビくらいの位置だろうか。いやおそらく、後期ノーノの聞き手はふつうの音楽の場合よりもさらに低い位置を生活圏としている。だからこそ、その音楽に耳を澄ますと空を舞うトンビには聞きとり得ないような、軋んだり擦れたり震えたりする、じつにさまざまな微細な物音が聞こえてくるのだ。

 

トンビよりもさらに下方、地上レベルへ。地上まで降りてくると、島にいるか、それとも船の帆を張って海に繰り出しているかの二者択一になる。ノーノの音楽のなかでは、晩年になるほど船旅の時間が長くなる傾向があるように思うが、それでも聞き手がどこを主に逍遥しているかといったら、音の島が湛える細部をもっとも聞き取りやすい場所である島の渚であろう。したがって、遠くとはどこかという漠然とした問いは、渚に降り立った人にとって遠方とはどこかという、より具体的な問いに置き換えられる。

 

その第一候補地を海の方角にとるのは、決して突飛な発想ではないだろう。「島々の共同の胎内といってよいもので、みなのものであり、かつ誰一人のものでもない」 *1 アーキペラゴの海は、カッチャーリの群島論のなかで「距離」および「と(and)」というキーワードとともに語られ、島に勝るとも劣らない重要な意味をもつ、「必要なる海」である。「friendship starは、要素と要素のあいだ、知覚と知覚のあいだ、音と音のあいだに現れるだろう」とカッチャーリは書いている。 *2 ゼウスの理不尽な暴力に対して、その正義の無根拠性を告発するプロメテウスもまた暴力の言葉で応酬するというPrometeoのIsora primaの悪循環、その構図を丸ごと問いに付すことの出来る呼びかけの声は、ぶつかり合う荒々しい音塊の間隙に谺する静謐なコーラスとなって送り届けられる。島と島のあいだの海に住まう者は、島々をcritical批判的/批評的に、明晰にみるための「距離」を保つすべを心得ている。だからこそ、Prometeoの最終章Stasimo secondoにおいて、新しいプロメテウスは、島々を分かちながら結ぶ「と(and)」の砂漠=海に現れるのだ。彼は、「その距離において、そこにおいてのみ、不屈だ」。 *3

 

このとおり、カッチャーリのアーキペラゴのなかで海はたしかに必要欠くべからざる場所である。問題は、ノーノのアーキペラゴにおいて海がどのような場所かということである。断片化された音が島状に散在するのが、その音楽のアーキペラゴと呼ばれる大きな所以であるが、後期作品を実際に聴いてみれば、島々のあいだの海は決して一様な沈黙の空間ではないことに気づくだろう。耳を澄ませば島だけでなく、海の方からも時おり音が聞こえてくることがある。その音というのは、PrometeoのIsora primaのように、激烈な強音の狭間の静謐な声として現れることもあるが、それとはまた別の系列の、海特有の音を聞き取ることもできる。「水は連続性のエレメントだ」とノーノはある講演のなかで語ったことがあるのだが、 *4 海の側には、後期ノーノの代名詞である「断片」とはまったく異質である、水のように連続的な音響が出現することがあるのだ。海洋のにおいを濃密に湛えたこの特徴的な持続音――Post-prae-ludium per Donauの53秒間の持続音の出自もそこにあるはずである。ノーノの海は、いつからこうした不定形な海鳴を湛えるようになったのか。その発生過程をこれから順を追って辿っていくことにしたい。

 

0750 自然海岸

ノーノは後期になって作風を激変させたとよく言われるが、具体的に何が変ったのだろうか。たんに静謐な作品ということであれば、Sarà dolce tacere (1960) やCanciones a Guiomar (1962/63) のように初期にだって存在する。決定的な変化は、後期作品において個々の音がそれまでと比べ格段に微視的な捉え方をされるようになったという点である。以前であれば原子とみなされていた単位が、後期になると、さらにその組成にまで分解されて扱われるようになる。音の極微の細部までをも照らし出すこの明晰な眼差しの由来がどこにあるのかをを考えたとき、フライブルクでの体験はやはりひとつの大きな契機であったろうと思う。

 

フライブルクのEXPERIMENTALSTUDIOで音の倍音構成や強弱の時間的変化を可視化する装置を使ってさまざまな楽器音の形態を細部にわたり観察したノーノは、たとえ楽譜上ではただ一つの音符で書き表されるような単一音であっても、実際に発せられる音は「ベートーヴェン交響曲のように多種多様」 *5 であることを改めて認識した。この世にまったく同じ葉、同じ指紋は二つと存在しないように、音もまた微視的にみればひとつひとつに個性があって、ユニークである。人によっては「当たり前」のひとことで片付けるかもしれないこの簡明な事実に、ノーノは少なからず魅了されたのだ。

 

いっぽうヨーロッパの伝統的なクラシック音楽は、現実の音がみせる無尽蔵の多様性を、魅力ある可能性というよりはむしろ、音楽の均整を脅かす厄介な存在として、抑圧的に遇してきた。その結果として、楽譜に書かれる音はなんと絶望的なまでに単純化されてしまっていることだろう。この絶望に立ち向かうためにノーノが取り掛かったのは、現実との隔たりを一歩ずつ縮めていこうという、すこぶる地道な仕事である。そこでは、作曲家が密室に籠もって頭の中の音を書き留めていくというデスクワークよりも、演奏家が実際に出す音を仔細に観察するという、博物学者のようなフィールドワークが大きな比重を占める。楽譜には、観察の成果にもとづく細々とした記述が丹念に書き込まれていく。たとえば弦であれば、弓を弦のどの位置で弾くか、弓を弦に対してどのような向きで接触させるかが、ほとんど一音単位で指定される。一つの音符の中で、PONTE - TASTO - PONTEといったように弓の位置が移ろっていくこともある、管であれば、呼吸に伴う音は排すべきノイズではなく音の構成要素であるという認識のもとに、楽器の管だけでなく、空気が出入りする奏者の身体も含む、拡張された管のなかで気流を操っていくすべが、事細かに記述されるようになる(呼吸音と「楽音」をいかに調合するかを示すさまざまな記号、呼吸法についての指示、唇、舌、咽喉といった奏者の身体についての言及など)。こうした細部の彫琢によって、「島」と呼ばれる個々の音には、現実の島の自然海岸と同じく形と色彩の変化に満ち溢れた、多孔質の揺れ動く辺が具わる。それはつまり、波のように打ち寄せる「雑音」から島を守るために、渚に消波ブロックを置いたり護岸を築いたりするのをやめるということである。

 

ここでひとつ注意すべきことは、楽譜に書かれているのは必ずしも音の細部についての直接的な記述ではないという点である。その典型例が、後期の書法における常套句として到るところに出現する、長さが数字で指定されたフェルマータである。Fragmente - Stille, an Diotimaを演奏する際、アルディッティは「弓の長さが約87cmだから、23秒のフェルマータなら1秒あたり3.2cmずつ弓を動かせばよい」といった具合に、大量のフェルマータを機械的に処理していったのだが、「その結果、折れたような、ふるえるような、いろいろな音が新しく出てきた」。 *6 それを聴いたノーノは、「自分が考えていた音楽をアルディッティは実現した」と言って非常に喜んだという。アルディッティの弦にあらわれた繊細な音の肌理は、たしかに楽譜上のフェルマータに起因するものである。だが、フェルマータの機能とはあくまでそれらの細部を誘発することにあるのであって、実際に演奏される音が、フェルマータ自体に明示されているわけではまったくない。 アルディッティがフェルマータから読み取ったのも、1秒あたり何センチずつ弓を動かせばよいかという、音の細部とは直接関係のない情報である。記述可能な枠組みから音がはみ出していく徴候は、既にこの段階からあらわれているわけだ。

 

0751 解体工場

これに加えてノーノの音にはライヴ・エレクトロニクスの作用がはたらく。ライヴ・エレクトロニクスの役割には様々なものがあるが、1989年の講演のなかでノーノはこんな風に語っている――たとえばSi♭というひとつの音(un suono)がある。ライヴ・エレクトロニクスを活用すれば、Si♭という音の一部だけを取り出して使い、別の部分はまた後で使うといったことも可能である。一つの音を、異なる方向に、異なる速度で運動させることもできる。私たちが単一のものだと考えているような、un Si♭、ひとつのSi♭なるものはもはや存在しないのだ―― *7 この発言が示すとおりノーノは、un solo suono=単一の音をさらに細かな要素にまで分解する解体装置としての機能をライヴ・エレクトロニクスに見いだしているのである。

 

振り返ってみると、演奏音をリアルタイムで加工するという意味で後期ノーノの最初のライヴ・エレクトロニクス作品といえるCon Luigi Dallapiccola (1979) においてライヴ・エレクトロニクスが主に担っていたのも、音の解体作業であった。Con Luigi Dallapiccolaは、ダラピッコラのオペラIl Prigioniero(囚人)の中で、看守に扮した異端審問所長が囚人のことを呼ぶ言葉、fratello(兄弟よ)のfa-mi-do#を素材としている。

fra (fa) -te (mi) -llo (do#)

fa mi do#の各々を単一の音とみなすのであれば、これはたった3つの音でしかない。3つの要素をいくら並べ替えても、その組み合わせには限りがあるだろう。だが、これらの要素がさらなる解体を受けつけるのであれば、可能性は一挙に拡大する。

 

ところでノーノは先に引用した講演のなかで、con il live electronics (o senza) という言い方をしている。with the live electronics (or without)、すなわち、必ずしもライヴ・エレクトロニクスをつかわずとも、気流や奏者の口腔だとかいったもののもつ可能性capacitàを活用することで同等の効果をもたらすことのできるような奏法を、たとえば日本や韓国、インドの楽器にみとめることができるというのだ。Con Luigi Dallapiccolaは打楽器アンサンブルのための音楽なので、fa mi do#の3音は、ピッチを正確に再現する能力の劣る打楽器群に託されることになる。この単純な「3つの音」は、ピッチが正確に再現されないという打楽器のcapacitàによって、猥雑な非整数次倍音のざわめきに犯されていく。安定した形状を半ば失いつつあるfa mi do#をさらに一段の解体へと導くのがライヴ・エレクトロニクスである。Con Luigi Dallapiccolaのライヴ・エレクトロニクスにEXPERIMENTALSTUDIOのテクノロジーは未だ導入されておらず、ピックアップ、リングモジュレーター、周波数発生器といったよりシンプルな技術が用いられている。Con Luigi Dallapiccolaで使われる3枚のメタルプレートは、それぞれfa mi do#に調律されているが、リングモジュレーターは、メタルプレートの発するfa mi do#に、周波数発生器の生成する波を掛け合わせて変調させるという作業を行っている。メタルプレートのfa mi do#は波に揉まれて捩れ引き攣れ、蠕動する音響の流動体のごときものを夥しく分泌しながら、いよいよ崩潰へと向かう。

*1:マッシモ・カッチャーリ「群島としてのヨーロッパ」、八十田博人訳、『現代思想』2002年8月号

*2:Massimo Cacciari (1984) Verso Prometeo / Tragédie de l'écoute.

*3:Ibid.

*4:Laurent Feneyrou (1993). Introuction. In: Feneyrou, L. (réunis, présentés et annotés) Luigi Nono, Écrits. Paris: Christian Bourgois éditeur: 7-20, p.16.

*5:このエピソードはNEOS盤SACD (NEOS 11119) のライナーノーツの中でDetlef Heusingerが紹介している。

*6:シンポジウム『ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>>』のなかでのラッヘンマンの発言による。 [link]

*7:Luigi Nono (1989). Conferenza alla Chartreuse di Villeneuve-lès-Avignon.