アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ドナウのための後-前-奏曲のためのノートの後篇の前篇 2/5

1112b 純粋性について

Post-prae-ludium per Donauの11m12sに現前すると期待されている空虚を07m00s-07m53sの空虚とは異質であるとしているのは、後者が細部性の次元で起こる溢水の産物であるのに対し、前者は純粋性の次元に属するとみているからである。ではこの純粋性なるものは、具体的にはどのような性質のものなのか。

 

純粋性の次元は、内向性、全体性、到達不能性の三つの属性により特徴づけられる。後期作品に純粋性の次元をはじめて拓いたDas atmende Klarseinの合唱が歌うのは、古代ギリシャの密議宗教オルペウス教の入信者の墓から出土する「金の薄板」に刻まれた言葉である。いま挙げた三つの属性をオルペウス教の教義がすべて体現していることを考えると、合唱は、まさにその声の特性にふさわしい言葉をここで託されたということができるだろう。

 

人間は神の血筋を引いているという信仰を基底にもつこと、それがオルペウス教の大きな特徴である。かれらの人類誕生譚によると、人間とは、ゼウスの雷に撃たれたティターンの遺体のすすから自然発生的に生まれてきたものなのだという。ゼウスがティターンを撃ったのは、かれらがゼウスの子ディオニュソスを殺害し、八つ裂きにして食べるという狼藉をはたらいたからだった。ティターンの体を焼いてできたすすは、ティターンの体だけでなく、ティターンが胃袋におさめたディオニュソスの体にも由来している。そのすすから生まれた人間はしたがって、ティターンディオニュソスの混血ということになる。

 

人間の魂は、ディオニュソスから受け継いだ神性ゆえに不死である。だが、ティターンの犯した罪の穢れにより、魂は肉体の牢獄に幽閉されている。たとえ肉体が滅んでも、魂は別の肉体に吹き込まれ、輪廻を繰り返す宿命から逃れることができない。この悲しみの輪から脱して、かつての黄金時代のように人間が神々とともに生きる別の世界へと赴くこと、それがオルペウス教徒の願いであり、そのために彼らが現世でまもるべきものが、純粋性である。禁欲的で浄らかな生活を送ることにより、粉々になってティターンの穢れと混ざり合った神性を蒸留し、神との失われた同一性を回復することができれば、死者の魂は二度とこの労苦に満ちた世界に転生することはない。人と神とが一体になって永遠に憩う至福の地へと通じる冥界の道を、オルペウス教の秘儀で教えられたとおりに辿っていけばよいのだ。

 

オルペウス教徒の墓に納められた金の薄板には、輪廻の桎梏から脱する死後の旅路の道案内が記されている。それによると、冥府に降りた魂はそこで出会う番人にこう言って自己紹介をしなくてはならない――「私は、ゲー(大地)と、星芒輝くウゥラノス(天空)の子だが、私が属するのは、天空の種族である」。*1 神々に比べれば、私は無にも等しい存在かもしれない。だがそれでも、私はガイアとウラノスの子であり、あの神々のきょうだいである。ティターンが犯した原初の罪の穢れがたとえそれを覆い隠していようとも、私のなかのどこか遠いところには、私の神的起源をあかしする大地が横たわり空が架かっている。オルペウス教徒の祈りは、見上げる天の方角ではなく、かれらひとりひとりの内なる天へと向けられた、内向きの祈りなのである。Das atmende Klarseinの合唱は、その祈りをできうるかぎり完全なユニゾンの追求によって現代に蘇らせようという試みである。合唱の練習の際、ノーノは合唱団員にinterno=「内側で」、歌うようにという言い方をよくしていたとのことである。*2

 

純粋性の第一の属性である内向性については以上のとおりだが、内側にみいだされるものが何であるかに思いをめぐらせれば、第二の属性である全体性の意味するところも自ずと明らかだろう。私のなかのガイアやウラノスが、この世のはかない肉体を越えた、不死にして全的な存在であることは言うまでもない。私のうちなるところで、なにか私的なものに出会うわけではないのだ。純粋性の次元でなされるのは、個別のうちに全的なものを認識せんとする試みなのである。

 

島状に散在する音の断片が織り成すノーノのアーキペラゴ。そのなかで、島の渚は、個別的なものの、豊饒とも雑多ともいえるざわめきに満ちている。純粋性の次元は、この生の多彩な岸辺の喧騒から遠ざかるにつれて浮上してくる。遠ざかるといっても、このたびは沖合いへと拡散することによってではなく、島の内ふところへと収束することによって。島の内陸部に足を踏み入れるにつれて、渚で聞こえていた個的なものたちの声は徐々に薄れていく。かわって内陸にひらけてくるのは、島々の広範な共鳴の場であり、究極的には合一の場である。

 

ごく小さな音で奏することによって、すべての上音が実質的に消えてしまうとき、そこから導かれる極端な聴取の経験においてとりわけ重要なのは、いま聞いている音が、コントラバスクラリネットなのかチューバなのか、それともメゾソプラノなのかを認識できなくなるということだ、そうノーノは語っている。*3 純粋性へと接近するにつれて、音の名前は消失に向かう。個別の特徴を与える細部が失われ、なんの音であるとも名状しがたい、ただ「音」とでも呼ぶほかないような音へと純化されていくのだ。

 

ところで、ノーノの後期作品で聞かれる名前のない音には、これとはまた別の発生機序、すなわち溢水によるものもあるということは、既にノートの前篇でみたとおりである。各種の音響処理を経て脱色され、もはや何の楽器に由来するのか定かではなくなったGuai ai gelidi mostriの匿名のドローンに代表されるこれらの音は、主にライヴ・エレクトロニクスによって生成され、音の解体に伴って滲み出してくる、不定形で水のような音響が拡散・混合する過程で非人称化を遂げた音である。つまりノーノの音楽のなかでは、音の名前(あるいは形)が消失するという事態が、「細部性/ユニークさ」の場である島の渚からみて、ちょうど対称的な位置にある二つの方角で生じるのである。

 

渚(細部性・ユニークさ)→拡散→沖合い(拡散/混合による形と名前の消失)
内陸(収束/合一による形と名前の消失)←収束←渚(細部性・ユニークさ)

 

位置に関してこそ対称的な関係にあるものの、アクセスの容易さという点からみるとこの両者のあいだには顕著な非対称性が認められる。島の沖合いの方に比べて、内陸部の合一の場はなんと近寄りがたい領域であることか。現世の肉体に囚われているかぎり、オルペウス教が旨とする魂の浄化の祈りが成就に到ることはなく、最終的な救いの実現は死後に持ち越されざるを得ないのと同じように、部分音をすべて消し去って文字通りの完全な純音に達するということは、神でもなければ機械でもない人間には本質的に実現不可能な離れ業である。Das atmende Klarseinの合唱も、現実的には通常のユニゾンよりも格段に透明度の高い、並外れたユニゾンというレベルに留まるわけだし、PrometeoのInterludio primoも、CDで聞くかぎりでは、楽器ごとの音色の違いを聞き分けることが可能である。ものの名が完全に消えてなくなる真の純粋性を現出させるということはもはや錬金術の領域であって、われわれに成し得るのは、たえざる接近と近似的な成就がせいいっぱいのところだ。それゆえ、純粋性の第三の属性は到達不能性ということになるわけである。

 

上の三つの属性をPost-prae-ludium per Donauの11m12sがどの程度満たしているかをここでざっと検証しておこう。11m12sにおける断片の消滅は、f1音への収束の果てに起こるものである(内向性)。ただし11m12sは、72秒間にわたるクレシェンドの果ての、fffffのクライマックスなのだから、サイン波出現の条件であるピアニシモは明らかに満たされていない。近似的に純音と呼べることを純粋性の条件とするのであれば、その領域はだいぶ限られたものになってしまう。純音は純粋性の究極の状態であり、音楽のなかで現実に聞かれる純粋性は、島の渚でざわめいているのではなく、沖のほうに流れ出していくのでもなく、「事物のあらゆる区別を減少させる」島の中心部へ引き寄せられていく一連の音の系列である。到達不能な島の中心では完全な純音が鳴りわたっているが、その途上にある音は、Post-prae-ludium per Donauの場合のように単一音への収束の段階に留まっているものもあれば、澄んだハーモニクスのようなかたちをとることもあるだろう。ところで、先に引用したノーノの記述によると、チューバにおいて近似的な純音が出現する音域は、f-f1であった。ある条件のもとで純粋性の領域への扉が開かれるこの特別な音域の最上層にあたるf1が選ばれているということは、たとえここで発せられる音がサイン波になり得ないとしても、たんなる偶然ではなく、いわば一種のオマージュのようなものではないかと思う。楽譜をみれば分かるとおり、10m00sから11m12sまでのあいだにチューバ奏者が発しているのは、あくまでf1音の不揃いな断片でしかない。だがこれらの断片は、エレクトロニクスの作用を受けていくつにも増殖し、声をあわせてf1というひとつの音を斉唱することによって、やがて一つに融合して空間全体を蔽い尽くすに到る(全体性)。個的なものの集積によって全的なものを顕現させようというこの試みが、現実にはいかに容易ならざるものであるかということは、さきにみた通りである(到達不能性)。

*1:レナル・ソレル『オルフェウス教』、脇本由佳訳、白水社文庫クセジュ)、2003年

*2:Das atmende Klarseinの楽譜(RICORDI 139378)のInstructional DVDより

*3:Luigi Nono (1989). Conferenza alla Chartreuse di Villeneuve-lès-Avignon.