アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ブルーノーノ 第一部 8/8

N3 ノーノのaltro(承前

ところで、後期ノーノの音楽のなかでは、今まで述べてきたaltro...altro...とはまた別のリズムを聞き取ることもできる。いやむしろ、そちらのほうがずっと「メジャー」な、表看板にあたるリズムだと言ったほうがいいだろう。

 

後期ノーノの掉尾を飾るHay que caminarの弦の響きに対し、反対側の劈頭のほうに目をやれば、そこにもまた、合唱とフルートのためのDas atmende Klarseinとともに実質的な後期の出発点となる弦の代表作、Fragmente - Stille, An Diotimaが置かれている。1980年にボン・ベートーヴェン音楽祭で初演されたこの弦楽四重奏曲のまさに表題にもなっているfragment - stille - fragment - stille - のリズム。すなわち、音の断片=島と沈黙の海(azzurro silenzio)の織り成す、ノーノ=カッチャーリの群島の韻律である。

 

島というからには、音=fragmenteは陸地だということになる。ヴェーベルンの「完全に孤立した音」 *1 の島は、沈黙(の海)に「打ちこまれる」 *2 という言い方をカッチャーリはしていた。「打ちこまれる」は、英語版だとfixedである。孤島ではなく群島について語るカッチャーリの言葉は、それとはだいぶニュアンスが変わっているようにもみえる。おのおのの島が「決して固定されず、壁に囲まれていない」 *3 こと、開かれていることが、群島を作る条件であるとカッチャーリは強調する。だが群島にしても、開かれた個性としての島々の奏でるポリフォニーを云々するためには、島々の区別が還元不可能な差異として保たれていることを前提条件としなくてはならない。「同じではないものを、そのようなものとして、それらの区別を保ったまま寄せ集める」 *4 こと。群島はあくまで、それぞれの島が流れに抗して(nicht überflüssig)沈黙の海に屹立することによって群島たりえている。

――islands of sound

 

いっぽうのaltro...altro...は、途切れることのない流れである。それは航海者だけが知っている大海のうねりのリズムだ。アンピトリテの久遠の揺動との共振の証(この流れをせき止めることは、無限性に対し背を向けることを意味する)。ここでは音自体が連綿とつらなる不断の流動体なのだから、azzurro silenzio、沈黙が蒼いのではなくsuono azzurro、音が蒼いのだと言わなくてはならない。

――ocean of sound

 

まさに陸と海ほどにも異なる二つのリズム。だがそれでいて両者は単純に排他的な関係にあるわけではなく、完全な群島にも全面的な流動化にも達することなしに、一つの作品のなかで「特殊な共存」――ちなみにこれは1987年の来日の際に、ノーノが東京で訪ねた神社とお寺のありようを評して言った言葉 *5 である――をなしている。

 

Hay que caminarはaltro...altro...altro...のリズムがもっとも卓越した作品のひとつだといえるが、それでもfragment - stille - fragment - stille - のリズムがまったく消失してしまっているわけではない。たしかにこの作品の特に第1章、第2章では、例の間断なく揺れ動く持続音に寄り添いながら海を渉っていく船旅の時間が多くを占めることになるが、とはいえ聞き手はこの航海の途次で、いくつもの音の島=断片にめぐりあいもするのである。

 

逆にFragmente -Stille, An Diotimaでは、まさに表題のとおり断片と静寂の対比が際立っていて、他のどの作品よりも明瞭に群島的構図を感じとることができるが、耳を澄ませば既にこの群島のそこかしこに、あのaltro...altro...のリズムが予兆のごとく宿っているのがわかる――すなわち、島をかたちづくっている個々の断片の震える輪郭のうちに。

 

島の外形なんぞをかたどっているのは飽き足らないとでもいうかのような、抑えがたい細部の疼き。それがノーノの音の断片を、「ヴェーベルン的単純さ」とは異質のものにしている。この点に関して、Fragmente初演の数ヶ月前に、ノーノがボン・ベートーヴェン音楽祭の主催者に書き送った手紙のなかで表明している「断片観」はじつに興味深い。

ATTIMI = FRAMMENTI, che hanno in loro stessi qualcosa di infinito, che in rapporto tra di loro (e liberati dal regolare susseguirsi delle parole del libro) formano un altro ‘infinito’ – indicibile? dicibile? *6

「瞬間=断片」、そう言いつつもノーノは、複数の断片相互の関係の多様性のみならず、おのおのの断片自体のうちに(うちに、と言うよりは表面にと言った方がより適切だろうが)、無限性をみいだす/みいだしてしまう。それゆえにノーノの島は、渚めいた多様にして尽きせぬざわめきを、必ず細部に湛えずにはいられないのである。ノーノの島を、カッチャーリがヴェーベルンを評して言った、完全とか純粋とか単純という言葉で形容することはできない。それは、反復不可能な唯一性へと結晶化した、完全にして純粋な島ではなく、無限の可能性のなかで不安定に揺れている、完全には凝結しきれていない半流動的な島なのである。

 

ノーノがカッチャーリとの直接的な共同制作の関係を了えたPrometeo後に、 fragment - stille - (islands of sound)の截然たる断片と沈黙のリズムに対してaltro...altro...(ocean of sound)の連続性/流動性のリズムが相対的に優勢になるのは、ノーノのなかのカッチャーリ的なものが前者に、いっぽうブルーノ的なものが後者に顕れているのだとする見方にしたがえば、必然的な流れだと言えるだろう。1987年のPost-prae-ludium per Donauの音の断片群は、島と呼ぶにしてはいかにもたよりない、上陸したら崩れてしまいそうなふわふわした断片で、じじつ作中で2度にわたり、溶けて消えてしまう。断片が消えてゆくその行き先にひろがるのは、1度目が07m00s-07m53sのC1の持続音の海、そして2度めが11m12sのf1音の海。つまりPost-prae-ludiumの海は(すでに)沈黙ではなく音でできているのである。

 

「カミナンテス三部作」の第二作にあたるNo hay caminos, hay que caminar...Andrej Tarkowskijについて、ノーノ自身が武満徹に語ったところによれば、オーケストラを7つに分けて群島状に分散配置するというアイディアに、「中心は一つではない」というブルーノ的な考え方が反映されているということであった。 *7 しかし私は、この作品に宿るブルーノ的要素の第一のものは、それとは別のところ――なべての音が一定の基準面G音のまわりを波打っているというところにあるとみている。おそらく誰もが自然に海面を連想するであろう、潮の香の漂うオクターブ等価の連続的平面。ブルーノの無限空間を特徴づけるla sconfinatezza del continuo、きりのない連続性が、ここでは全曲をとおしてつらなるG音の海原というかたちで再現されている。カミナンテスはピークォド号のようにこの海の表面を、あくまで表面を、ひたすら局所的な細部を弄りながら音楽のつづくかぎり滑走していくほかに、「進むべき道はない」。

 

「空間という一つの連続した無限」 *8 をしるということは、無限という語の喚起する壮大なイメージとは裏腹に、じつのところたいへん地道な作業である。わたしたちにとって無限とは、富士山のように遠くから一望できるようなものではない。なし得るのはただ無限なものの上にシラミのごとく張り付いて、重箱の隅を突くようなことだけだ。ブルーノやノーノの掲げる「無限につづく探究」が言わんとしているのは、だがそれでも飽くことなく重箱の隅を突きつづけよ、ということである。メルヴィルが『白鯨』で書ききった、起伏も脈絡も欠いた厖大な細部のとめどない連なり。雄大な大海原を舞台にした鯨と人間の一大スペクタクルを期待していた読者を辟易させるあの「海洋的平板」こそが、限りないものに対峙する限りある者のとりうる語法である。チェ・ゲバラの抑揚のない声や、非常に狭い音域を微かに揺れ動く持続音のようなごく平坦なものに、たえず別のなにかを探し続ける漂泊者の軌跡をみいだしているノーノも、そのことを心得ていたのだろうと思う。

*1:カッチャーリ「弓道」、廣石正和訳、『批評空間』第II期25号

*2:同上

*3:シンポジウム「都市の政治哲学をめぐって」、八十田博人訳、『『批評空間』第III期4号

*4:Massimo Cacciari. L'étroite bande de terre. [pdf]

*5:武満徹対談集『歌の翼、言葉の杖(TBSブリタニカ)』より

*6:http://www.luiginono.it/it/luigi-nono/opere/fragmente-stille-an-diotima →scritti di nono

*7:武満徹対談集『歌の翼、言葉の杖(TBSブリタニカ)』より

*8:ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、103頁