アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ブルーノーノ 第一部 5/8

C1 カッチャーリの結晶化する世界

サルヴァトーレ・シャリーノがLa lontananzaのKAIROS盤CDのライナーノーツのなかで披露している痛快な逸話は、ノーノがいかに「固定」と名のつくあらゆるものを、たんなる作曲の方法論に留まらずほとんど生理的レベルで忌避し、逆に波や風のような絶えざる流動を渇望していたかということをよく物語っている。

風に対するノーノのパッション、それは彼の晩年においてはオブセッションと境を接するまでになっていた。風を存分に吸い込む必要を彼は感じていた。ある晩、彼が私の家の、上の部屋で眠っていたとき、彼は部屋の窓を大きく開けたままにしていた。翌朝までに、壊れうるものはなにもかも、風に激しく舞い上げられたカーテンによって、床に叩き落されていた。最初、私はなにが起こったのか分からなかった――メランコリックな怒りの発作に襲われた芸術家が、あらゆるものを床に投げつけたのかとはじめ思ったほどである。 *1

シャリーノ邸に大惨事をもたらしたノーノの抑えがたい風への執着は、たとえばエルンスト・ユンガーの、「動かない静寂を楽しむために、私は草原をガラスの屋根で覆うという途方もない贅沢なことまで考えた」 *2 という並外れた風嫌いと好対照を成している。静寂は静寂でも、ノーノが愛しているのは不安(定)に(inquietum)揺れ動く静寂なのだ。「流動主義」とでも呼びたくなるようなノーノのこうした志向を知るにつけ気になってくるのは、ノーノとカッチャーリの思想はどのように折り合いがつけられるものなのかという点である。「時間を直線的発展と解釈するあらゆる見方への批判」 *3 であるベンヤミンの時間の哲学の継承者たるカッチャーリは、その時間論の主眼を、「空虚な継続である一様な時間(直線的なものであれ円環的なものであれ *4 )からほとばしり、流れを止めて時を再生させ」る、 *5 いわば結晶化した時間の次元の可能性を探求することに、つまり手短かに言えば、流れているものを停止に導くことに置いており、字面だけを追っていると、なにかノーノとまったく正反対の考えが主張されているかのような印象を受けることも少なくないからである。

 

Prometeoのリブレットにおいて、おそらくベンヤミンの『歴史の概念について』第一テーゼのチェスの名手に因んで「Il maestro del gioco(ゲームの達人)」の称号を与えられている「新しいプロメテウス」。この達人の「フォース」は、均質で単線的な「時間に穴を穿つことのできる力」 *6 だと、『必要なる天使』から引用すれば、「時間に穴を穿ち、その連続を引き裂く亀裂を生み出す」 *7 能力だと、カッチャーリは言う。ベンヤミンが「かすかなメシア的力」と呼んだその力を武器に、プロメテウスはあらゆる出来事を因果関係の網目に絡めとっていくクロノロジカルな時間の仮借ない還元力に対峙する。それは「瞬間をその個的な一回性のなかに置く力であり、瞬間を一連の継続から解放する」。 *8 ただし解放といっても、「継続から脱自的に逃れ超越する」 *9 ことではない。一様に継続する時の流れがその線的な次元を無化され、反復不可能でユニークな瞬間の多数性/多様性へと結晶化していく特別な場所のことを、カッチャーリはしばしばリルケ『ドゥイノの悲歌』第二歌の、「奔流と岩石のあいだの一筋の沃土」という詩句で言い表している。移ろい行くもの(奔流)と不動にして永遠なるもの(岩石)との狭間の、「此岸と彼岸とを結合し切断するどこでもない場所」 *10 で、此岸を滔々と流れる時間は変質を蒙り、渚に打ち砕ける波の飛沫のように無数の単独的な瞬間へと粉砕される。終わりあるものの世界と終わりなきものの世界が境を接する、このごく狭い、汀線のごとき一条の土地に降り立つこと、そして、他のなににも還元不可能なものとして屹立するいまこの瞬間の音の、「永遠なる唯一性」 *11 に耳を傾けること。カッチャーリがテキストを編纂した後期ノーノ五作品――

  • Das atmende Klarsein (1980/1983)
  • Io, frammento da Prometeo (1981)
  • Quando stanno morendo. Diario polacco n.2 (1982)
  • Guai ai gelidi mostri (1983)
  • Prometeo, Tragedia dell'ascolto (1981/1985)

――のテキストでは、引用されている著作こそそれぞれに異なれど、つねにこの同じテーマが倦むことなく繰り返し説かれていると言っても過言ではない。

 

なかでもカッチャーリの持論がもっともストレートに、「流れに抗え」というメッセージとなって顕れているのがGuai ai gelidi mostriである。ニーチェの『ツァラトゥストラ』第一部に含まれる、「新しい偶像」と題された痛烈な近代国家諷刺の章を柱とするGuai ai gelidi mostriのテキストでは、イタリア語特有の、二重の意味をもつキーワードessere-statoを介して、ニーチェの呪詛する国家という(essere-stato=being-State)冷たい怪物が、覆しえない「そうであった(essere-stato=have been)」 の刻印とともに一切を過去へと逐いやる時間という怪物に置き換えられる。これに呼応して、「国家が終わるところで余計な人間でない人間がはじまる」というニーチェの言葉の「余計でないnicht überflüssig」も、文字通りにnicht überflüssig=not super-fluous=流レルコトガナイと読まれることになる。国家=冷たい怪物の悪臭と濛気から逃れ出た人間の前にひらけてくる、静かな汐風の吹き巡る「国家が終わるところ」は、国家→時間の読み替えに従い、時の変容と再生の場として――すなわち、流れに抗して立ち止まるすべを会得した人間によって各々の瞬間が「一回かぎりの、かけがえのない歌」として時間の継続のなかから救い出され、物という物を食い尽くす時という怪物の領国が崩壊を遂げる「一筋の沃土」として、捉え直されていくわけである。

 

イタリア語でstatoは国家を意味する名詞であると同時に、動詞essere(英語のbe動詞に相当する)の過去分詞でもある。essere statoは「助動詞essere+essereの過去分詞」で、essereの直説法近過去(イタリア語のもっとも一般的な過去時制。英語の現在完了に近いニュアンスをもつ)となる。

 

いっぽうでGuai ai gelidi mostriは、ノーノがsuono mobileというコンセプトに構想過程のメモのなかではじめて言及した作品でもあった。じじつこの作品の、二人のアルトによる声を別にした器楽(弦と管)に耳を傾けてみれば、suono mobileすなわち音が動いているという感覚を、他のどの作品にもまして明瞭に体感することができるだろう。ちょうど凪の日の海面が、近くで見ればじつにさまざまな波動や流れを湛えていっときも休まることがないように、いっけん単純でありながらも、微視的なレベルでは間断なく小刻みに打ち震え、千々に表情を移ろわせていく流動体としての音。後期ノーノのトレードマークというべきこの微細な揺らめきがとりわけ徹底化され、全曲を漣のごとき揺動でほぼ完全に覆い尽くすにまで到っているのがGuai ai gelidi mostriである。

 

流れない/立ち止まるカッチャーリと流れる/立ち止まらないノーノという対置は、どうもうさんくさく聞こえるかもしれない。それは質的に異なるさまざまな流れ/静止を徒に混同することからくるうわべの対立にすぎないのではないか。「時間という長い街道をたえずだらだらと先へ先へと進んでゆく」 *12 とローゼンツヴァイクが評した進歩や発展という名の流れに抗うことと、単一のドグマに凝り固まるだとか、変化を失って型にはまるだとか、進むべき道が定められてあるだとかいった意味での固定/静止/不動に抗うことはなんら矛盾するものではないのではないのだから。もちろんそれは承知のうえで、「流れ」に対するノーノとカッチャーリの対照的と見える反応には単なる見かけ以上の差異が、カッチャーリがベルクとヴェーベルンとのあいだに認めたような拠って立つ哲学/原理の違い――「ヴェーベルンには運動と変容が欠けているというのではなく、彼の時間の哲学が異なるのである。(ベルクの)不断の変奏は、彼のもとでは、反復不可能性の原理に属している」 *13 ――が横たわっているのではないかと私は思うのである。

*1:0012102KAIのライナーノーツより

*2:エルンスト・ユンガー『小さな狩』、山本尤訳、人文書院、101頁

*3:「マッシモ・カッチャーリに聞くアナロジーの論理学」、八十田博人訳、『批評空間』第III期4号

*4:カッチャーリ『必要なる天使』、柱本元彦訳、人文書院、78頁

*5:同上、76頁

*6:Massimo Cacciari. L'étroite bande de terre. [pdf]

*7:カッチャーリ『必要なる天使』、49頁

*8:同上、48頁

*9:同上、75頁

*10:同上、121頁

*11:カッチャーリ「離脱した者の歌」、廣石正和訳、『批評空間』第II期24号

*12:ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、349頁

*13:カッチャーリ「動物小屋へいらっしゃい」、廣石正和訳、『批評空間』第II期18号