アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ブルーノーノ 第一部 4/8

N2 ノーノのsuono mobile(承前

五線譜上ではただ一つの音符で単純明快に、univocalに書き表される「単一音」が、じつのところ無尽蔵の多様性を孕んでいるという発見は、音を「書く」ことについてのノーノの意識を根底から揺るがす事件であったはずである(無限に変異するものを記述するなんてことが果たして可能なのだろうか?)

 

ノーノの後期作品の作曲は、作曲家がひとり仕事場に籠もって頭の中の音を譜面に記していく「書く」仕事にとどまらず、作曲家、演奏家、そして音響技術者が「ノーノ組」とでも呼ぶべきチームを組んで、まるで映画の撮影のように現場で実際に音を出しながら試行錯誤で音楽をつくりあげていく「聞く」仕事が大きな比重を占めていたといわれる。だがここでも、ノーノ組の実験成果をあたかも野鳥の鳴き声かなにかのように採譜する作業の果たす役割を無視することはできない。たとえばDas atmende Klarseinのフルート独奏部の、数々の特殊な記号を駆使して複雑に書き込まれた譜面からは、Fabbricianiのフルートが繰り出す変幻自在の奏法を視覚的に表現しようという苦心の跡がうかがわれる。suono mobileを得るためのさまざまな方法を列挙していくなかで、ノーノがヴェルディの譜面に書き込まれた細部の指定についてふれていることからもわかるように、suono mobileのコンセプトのもとでも、書くことの意義は必ずしも否定されるわけではない。

 

しかしそれでもやはり、mobileであるべきものを書くという行為にはどうにも解消しがたいジレンマがつきまとっている。単純な一つの音符(♪)は、ノーノがフライブルクで見いだした音の無限の細部を絶望的なまでに捨象してしまっている、かと言って、音を精緻に記述しようとすればするほど、ありうべき無数の可能性は絞り込まれ、音のmobilitàは不可避的に失われていく。ニーチェが淀みを嫌悪するように後期のノーノは固定を嫌う。suono mobileを旗印に掲げるノーノにとって、固定化という事態を招くあらゆるしくみは、可能性の森を枯死へと追いやる、ぞっとするような「冷たい怪物」である(形式化とか形式といったもののもつ味わいは、ほとんど生理的な嫌悪感を私に惹き起こす、とノーノは語っている)。 *1 書くことで音を標本のように固定してしまうことに対する不満をノーノが口にしたことは一度や二度ではない。「人はそれでもものごとを図式的に固定しようとするけれども、私は書くことに対する思い入れは持っていないと何度も言ってきました(1987年のインタビューのなかでの発言)」。 *2

 

Post-prae-ludium per Donauを楽譜の指示どおり正確に演奏しようと四苦八苦しているチューバ奏者のRobin Haywardを、EXPERIMENTALSTUDIOのスタッフは、「君はあまりにも完璧にやろうとしすぎる傾向がある」と言って窘め、彼にこう伝えたという――Nono had deliberately written it to be imperfect――「ノーノは故意に不完全となるような楽譜の書き方をしていた」。 *3 つまりあれらのものは、無限の可能性の縮減でしかない、厭うべき静的な秩序の形成を阻害せんがために、ノーノが意図的に導入した凝固防止処置なのではないかということだ。あれらのものというのは、後期ノーノの譜面の随所に現れる、なにかぎこちない印象の、時には不親切で、場合によってはいいかげんであるとすらみえる、もろもろの記述のことを指している。長さが数字で指定されたフェルマータpppppp から ffffff に到るまでの強弱記号(場合によってはもっと極端になり、p が9つ並んでいることもある)の過剰なまでの氾濫もあれば、ふつうの音符の傍らに

Sounds never held static, but modulated less then 1/16 of a tone

などと別途に但し書きを付けるという、あまり洗練されているとは言いがたい微分音の取り扱いもあり、あるいは実質的に演奏不可能な極端な音域の使用もある。だがこれらの、読み手を困惑させるような不恰好な記述が、エルンスト・ユンガーいうところの、硬直した美を解凍する「織匠の手の震え」を誘発するのだ。

純粋な知恵だけがこれらの図形を形造ったのだとするなら、それは余りにも硬直した美しさだといえよう。織匠の過ち、その手の震えによって初めて模様は一回限りの繰り返し不能のもの、無常に相応しいものとなる。町は完全であってはならない、町は比喩であらねばならない。宝石は王冠に属するのであって、土台に属するのではない。 *4

 

たとえばAndré Richardは、ノーノのありふれたクレシェンドやデクレシェンドの記号に潜む、いかなる音符でも明示的に書き表しえない微分音程について次のように語っている。

顕微鏡越しに世界を眺めると、そこにはなにか生きているものがあって、途方もない量の営みが進行していることにわたしたちはただちに気がつきます。それはわたしたちが通常は知覚できないものです。この作品(Das atmende Klarsein)では、合唱に関するかぎり、半音しか使われておらず、微分音程はありません。しかしそれでも多くのクレシェンド、デクレシェンドがある。そしてもし、これらのクレシェンドやデクレシェンドがとても長く引き伸ばされると、じつに多くのことが音量の推移の過程で生じるのです。 *5

Prometeoの練習時にあるチューバ奏者が、楽器だけではうまく出せない音を「美しく」響かせるために声で音を補うことで対処しようとしているのをみて、EXPERIMENTALSTUDIOの初代ディレクターであるHans Peter Hallerはこう評した――端的にいってこのようなやり方は間違いである、ノーノが期待しているのは、奏者が思うように制御することができず、ふらついたりかすれたりを何度も繰り返す、不安定な、fragileな音なのだから。 *6 「どんな楽譜でも精密機械のごとく正確無比に弾きこなす」、そんな枕詞で形容されるようなvirtuosityとはどうやらまったく異なるアプローチがノーノのsuono mobileを演奏する奏者には求められているようだ。

 

さまざまな読み方が可能な、ある意味で曖昧だとも言えるノーノの楽譜からは、作曲者自身も想像しなかった思いがけない可能性が引き出されることがある。ラッヘンマンの話 *7 によると、アルディッティ弦楽四重奏団がFragmente - Stille, An Diotimaを演奏するときいたとき、ノーノは「彼らにこの作品を演奏できるはずがない」などと言ってまるで期待していない口ぶりだったが、公演を聴いたあとでは一転して、「アルディッティは自分が考えていた音楽を実現した」、「音の中に含まれている構造を明らかにし、広げてくれた」と最大級の賛辞を惜しまなかったという。それほどまでにノーノを感激させた、アルディッティの弦のすばらしく繊細なたゆたいは、じつをいえば、「フェルマータの長さが23秒、弓の長さが87センチ。ならば単純な割り算で、1秒あたり弓を3.2センチずつ動かしていけばよい」という、なんとも機械的なフェルマータの処理がもたらした副産物なのであった。

 

音を書くことにまつわる問題を取りあげたからには、ライヴ・エレクトロニクスについてもふれないわけにはいかないだろう。出力される音がいっさい音符として明示されることがないという特性はライヴ・エレクトロニクスに固有のものではなく、ノーノが中期に盛んに作っていたテープ音楽にもまったく同じことが当てはまる。それではテープとライヴ・エレクトロニクスを峻別するものはなにかというと、やはりここでも決め手となるのは固定の有無である。

 

「私の知るライヴ・エレクトロニクスに反復的なものはほとんどない」 *8 ――そうノーノは語っている。音符にこそ書かれないものの、磁気テープに定着されもはや変化のしようがないテープ音響の、環境に非依存な「遺伝的固定形質」。対して、それぞれの演奏環境に適した細部の設計がそのつど試行錯誤で探し出されていかねばならないライヴ・エレクトロニクスの、高度にハビタットに依存した「表現型可塑性」。

 

演奏のたびごとに繰り返される試行錯誤の過程では、「さまざまな不測の事態が、偶然の出来事が、錯誤が起こる」。 *9 だがまさにその点にこそ、ノーノがあれほどまでにライヴ・エレクトロニクスにのめり込んでいった大きな理由がある。Philippe Albèraによる1987年のインタビューのなかで、「あなたにとって、作ること、コミュニケートすること、創造の体験を生きることが、固定的な形を達成することよりも重要なのですね?」と訊かれたノーノは「そのとおりです!」と応じてさらにこう続ける。「作業の、練習のモメントには、そしてそこで私たちが犯す錯誤には大いなる愛――物理的な愛と知的な愛の両面の――があり、そこで私たちはさまざまな素晴らしいことを発見するのです」。 *10 この考えが、1983年にノーノが行った『L'errore come necessità 必要なものとしての錯誤』という表題のスピーチや、またそのなかで表明されている、さんざん練習を繰り返した挙句に結局演奏会を開催することをしなかったシェーンベルクへの共感にもつながっているのである。

 

最近になってノーノのライヴ・エレクトロニクス作品が、col legnoとNEOSレーベルによりほぼ一通りマルチチャンネルSACD化されたのは基本的にめでたいことには違いないが、特定のレコーディングが決定盤として流通してしまうという事態は、ノーノがライヴ・エレクトロニクスに見いだしている魅力の一つがその一回的性格にあることを思うと、あまり好ましくないことだとも言える。Post-prae-ludium per Donauには現在までに6種類の録音があり、旧い録音は単純に録音の質という点からみれば最近のものに大分劣りはするけれども、それぞれの演奏にそれぞれの個性があって、聞き比べると興味は尽きない。NEOSからマルチチャンネルSACDが出たからといって、旧い録音にはもはや価値なしなどということには全くならない。それはなにも、不確定要素がとりわけ強いとされているこの作品に限ったことではないはずである。

*1:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono. [pdf]

*2:Ibid.

*3:Scott Edward Tignor (2009). A performance guide to Luigi Nono's Post-Prae-Ludium NO.1 "Per Donau". [pdf]

*4:エルンスト・ユンガー『ヘリオーポリス・下』、田尻三千夫訳、国書刊行会、161頁

*5:Das atmende Klarseinの楽譜(RICORDI 139378)のInstructional DVDより

*6:Ensemble Modern Newsletter Nr. 004 (09/2000)  [link]

*7:シンポジウム『ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>>』より [link]

*8:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono.

*9:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*10:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono.