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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Un unico suono 5/5

音の質

後期のノーノは、音の「質」ということをさかんに口にするようになる。「Qualità, non quantità――量ではなく質」。 *1 「量よりも質」などという台詞は、世界じゅうで合算すれば一日あたり千人以上の人が言っていそうなくらいの陳腐な紋切型に聞こえるけれども、ノーノが言う質とは、質が高いだとか低いだとかいったように、結局それ自体もまた量的尺度で評価されてしまうような質のことではなくて、定量的体系のうちには回収しえないものとしての、文字どおりの「質」のことを指している。No hay caminosには、G音を中心に四分音の間隔で均等に並ぶ、独自の定量的なスケールが導入されているが、もしもそれをつかって微細な音の動きを五線譜上で逐一指定するのであれば、それはたんに、いままでオクターブの範囲にひろがっていたものを短3度にまで圧縮したうえで、結局同じことを繰り返しているだけのことにすぎない。そんなことはノーノの関心の埒外だろう。ノーノがこの曲で聞きたかった音は、Gと呼ばれる一つの音が湛える質的な多様性である。それはたとえば、この作品の初演のため来日したノーノが武満徹と対談した折に語った初冬のシベリアの大地の「さまざまな白」のようなものである。因みになんでシベリアの話が出てくるかというと、ノーノは日本に来るのに飛行機ではなくシベリア鉄道で、ユーラシア大陸を横断してやって来たのである。

その色というのは、つまり一面の白なんですが、その白の中に様々なニュアンスが混じり合うんです――凍てついた河と大地の純白と、その中に点々と、あるいはぼかしたように現れる緑の白、青い白、ラピスラズリのような瑠璃色の白、黄色の白……そして、その一面の白の中に突然ハッと目を引くような黒い点が現れる時、それが古い木造農家の板の色なんです。 *2

 

私が特に好きなNo hay caminosのGをいくつか挙げてみると、 

  • まず冬の冷たく蒼いG(33~40小節)があり
  • 雨だれのようなG(68~75小節)もあり
  • 仄かに暖かい陽だまりのG(80~87小節)が
  • 曇り空の下で遠くから聞こえる霧笛のようなG(129~133小節)

がある。それぞれのGが異なる楽器の組み合わせとハーモニーからなり、またそれぞれに別の言葉が添えられている(陽だまりのGだけは、とても柔らかな音質にふさわしい ppppppp の最弱音の表記が添えられているだけである)。私が霧笛のようだと思っていたGには、

dietro il ponte arco rapido in su, come voci umane tremolanti

駒の後ろで 弓を素早く押し 震える人声のように

と説明がつけられていた。

 

ハチの観察

ノーノがNo hay caminosの楽譜にいろいろと書き込んでいることは、総称すれば音色に関する説明書きということになるだろう。DNA二重らせんモデルの論文に刺激を受けて発展したものだとノーノが語った総音列技法は、従来の記譜法でははなはだ漠然としたかたちでしか記述できない音色のような要素すらをも、最終的にパラメータ化/定量化してやろうという企てであった。ところで、West-Eberhardの大著のなかで引用されている進化生物学者Richard Lewontinの本には、こんなシビアな一文がある。

What we can measure is by definition uninteresting and what we are interested in is by definition unmeasurable. *3

フライブルクのEXPERIMENTALSTUDIOで、ノーノはただたんに、「コンピュータや機械を前にして自在に音を操る子供のような喜び」 *4 にふけっていただけではなかった。もっと基礎的で地味な作業があったのである。音の細部を可聴化ないし可視化する、ちょうど顕微鏡のような役割を担う機器を駆使して、Roberto Fabbricianiのフルート、Ciro Scarponiのクラリネット、Giancarlo Schiaffiniのチューバ、Susanne Ottoの声といったような、実際の音の微視的な形状を仔細に観察することである。実験室に籠もっての作業ではあっても、結局それはノーノにとって、音のフィールドワークにあたるものであった。

 

たとえばWest-Eberhardの、社会性狩りバチの野外研究者としての日常がどんなものであるかというと、ふつうの人であれば「おーなんかハチが巣を作っておるわ」と一瞥しただけで通り過ぎてしまうような巣を見つけては、巣の住民を片端からマーキングして個体識別し、巣の房の一つ一つをマッピングまでして、一日に何時間も各個体の行動を克明に観察し記録するという、たいへん根気の要る地道な仕事の連続である。その蓄積をとおして彼女は、現実に生きている動物の姿が、進化生物学の表舞台で脚光を浴びているエレガントな数理モデルのなかの仮想的な生物像とは決定的にズレていることに気がつき、それが表現型可塑性の意義を前面に据えた独自の進化論へと結びついていく。

 

いっぽうノーノがフライブルクにおける音のフィールドワークでみいだしたのは、五線譜の上ではただ一つの音符できわめて単純明快に書き表される一つの音(un solo/unico suono)が、その細部においては底知れぬ多様性を秘めているという現実であった。それは本当に無限なものである。このinfiniti possibiliを、たかが人間ふぜいの小細工でパラメータ化し掌握してやろうなどというのはまったくバカげた思い上がりだ。少なくとも後期のノーノは、精緻に書き込まれ、美しく洗練された譜面をものにすることになど、たいした興味を抱いてはいなかっただろう。ノーノを魅了した音の無限なる細部に関する事柄は、あくまで定性的に、定量的なシステムを補うものとしてではなく定量化に抗するものとして定性的に、泥臭く、ぎこちなく、不完全に、不器用に、記述されるほかないのである。

 

眼が泳ぐ

定性的とはいってもしかし、記述は記述である。記述のうちには、そうでもああでもなくこうであるという限定が必ず含まれる。無限の可能性に対して、楽譜という静的なゲノムは、果たしてどれほどのことができるのだろうか。

 

現実の生物のゲノムのことを考えてみるとよいだろう。脊椎動物のゲノムには、二次的に退化したものをのぞくと、高度に発達した眼をつくるための情報が含まれている。眼をつくるという指令は、表皮でも鼻の穴でも口でもなく眼をつくるという意味においては、たしかに可能性の縮減である。だがとにかく、そうして出来た眼が開かれると、それはこの世界に渦巻く森羅万象に向けて開け放たれた窓になる。眼をとおして厖大なる情報が、波のように押し寄せてくる。J. Lee Kavanauは脊椎動物の睡眠を、眼の発達とともに、それまでとは桁違いの感覚情報が刻々と脳内に流入するようになったため、いったん情報を遮断して頭の中を整理するための時間を設ける必要が生じて進化したものであろうとの仮説を提唱している。 *5 世界(宇宙・自然)の無限性はよく大海原に喩えられるが、眼は個体にとって、その海の渚になるのである。ゲノム(遺伝子)の仕事は、渚へと個体を案内してやるところまでである。渚で個体がどう過ごすか、要するにその眼をつかってなにをどう見るかは、その個体次第だ。

 

私はノーノが楽譜のいたるところに付け足している書き込みも、無限の可能性(の海原)に向けて開かれた原始的な眼のようなものだろうと思っている。たとえばdietro il ponteという書き込みがあると、それは指板の側でも駒の側でもなく、駒の後ろだろいうことであるから、ひとつの限定には違いない。ただし、この記述が担っているのは、弦楽器の町はずれにひろがる、楽器としてはあまりきちんと整備されていないでこぼこの荒地にまで奏者を導いてやるところまでである。駒の後ろの荒地をこすってやった結果、具体的にどういう音が出るかは、楽器のつくりや調整の具合に依存して大きく変わるだろうが、その仔細について、楽譜の記述はなんらの制約を加えるものではない。ただそこでは、かなり不安定で可塑性に富んだ音が発現されるだろうという漠然とした期待があるだけである。

 

ノーノの創作リストの最後を飾るヴァイオリン・デュオ曲"Hay que caminar" soñandoになると、記述はいっそう潔く、ある意味ではスロッピーなものになる。この作品の随所に現れる、最大6小節に跨る持続音につけられた注意書きは次のようなものである。

Suono non statico I suoni tenuti mai statici ma modulati meno di 1/16 (Sounds never held static but modulated less than 1/16 of a tone)

これはもはや具体的な奏法の指定ですらない。ここから読みとれるのはまず、この音がたんなる持続音ではなく、つねに揺れ動く音であること、そしてその震動の範囲が、音符で示される音高に対し16分音の範囲内というたいへん狭いものであるということだけである。多少ヴィブラートでもかけてやればいいのか?いやそうではないらしい、ノーノはヴィブラートというクラシック音楽のお約束を蛇蝎のごとく忌み嫌っていたという。じゃあどうすればいいのか。いろいろな疑問が湧いてくる。絶えず音高を変化させつつ、それを16分音の振幅に留めおくことが果たして可能なのか。そもそも聴衆は、音の揺動が16分音の範囲に収まっているか否かを聞き分けることができるのか。いいかげんな書き方だなあと思う奏者もいるかもしれない。Hay que caminarを聴くときのおおきな楽しみは、このなんだかよく分からないような記述に対峙した個々の奏者が試行錯誤のすえにどんな航跡を探し出していくかを聞きとることにある。

 

こうしたノーノの記譜法の象徴的存在が、後期作品の譜面のいたるところに姿を現すあの常套句、フェルマータである。フェルマータは、それ自体としては細部について何も語りはしない。だが10秒以上にも及ぶ長いフェルマータは、それを弾きこなそうとするとき、弦であれば弓をもつ手がプルプル震えてしまったり、管や声であれば息が続かなくなったりして、意図せざる音の揺らめきを不可避的に誘発することになる。フェルマータを楽譜の指示どおりに演奏しようと努めた結果、具体的にどのような音の揺れが生じることになるかは、当の奏者自身にも予測がつかない。ラッヘンマンがラサールとアルディッティの演奏するFragmenteを比較して語っていたように、 *6 弓の全長をフェルマータの長さで割って、一秒間に動かす弓の長さを計算で求めるといったような、機械的に割り切った演奏が、かえって繊細で魅力的な音の震えをもたらすこともままある。だからこの場合、細部が奏者の裁量に委ねられているという言い方も正確ではないのである。作曲者によっても奏者によっても意識的に制御しきれない、かといって突然変異のようにまったくの無作為というわけでもない多様なる細部を発現へと導く誘導体、それがノーノのフェルマータなのだ。

 

結晶化/流動化

ところで、Un unico suonoのunicoをこれまで「単一の」と訳してきたが、unicoは「ユニークな」とも読むこともできる。ユニークという言葉は、カッチャーリがよく口にする言葉である。「偶然は反復不可能であり、またユニークさのもとにあるあらゆるものは反復不可能で永遠である」。 *7 Un unico suonoを「ユニークな音」と読み替えたとき浮かび上がってくるのは、カッチャーリとノーノが「ユニークなもの」に対峙するときの、ほとんど対照的と言えるほどの姿勢の相違である。

 

ユニークであるものを反復不可能な単独性として、一瞬の停止状態のうちに「純粋な結晶」 *8 として捉えるカッチャーリ。ユニークである(とみえる)ものを、不安定で解体可能なもの、つまりは異質な要素の混在した純粋ではない複合物として、絶えざる流動の相に置くノーノ。カッチャーリとノーノの関係を考えるうえでこの対比は避けてとおれない問題であるが、それについての詳しい議論はいずれまた別の機会に。

*1:Post-prae-ludium n. 3 BAAB-ARRのプログラムノートより

*2:武満徹対談集 歌の翼、言葉の杖』、TBSブリタニカ

*3:Lewontin, R.C. (1974). The genetic basis of evolutionary change. New York: Columbia University Press, p. 23.

*4:シンポジウム『ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>>』より [link]

*5: Kavanau, J. L. (1997). Origin and evolution of sleep: roles of vision and endothermy. Brain Research Bulletin 42: 245-264. [pdf]

*6:シンポジウム『ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>>』より [link]

*7:マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』、上村忠男訳、みすず書房、257頁

*8:同上、98頁

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