アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Un unico suono 2/5

この項はノーノではなく丸ごと進化生物学の話である

West-Eberhardがよく言っているように、表現型可塑性は、進化生物学の舞台でかなり長いこと陽の当たらない場所に逐いやられていた不遇の演者であった。

 

作曲家にすら影響を与えるくらいであるから、DNA二重らせん構造の発見が当の生物学者に与えた影響はたいへんなものであったろう。ただ、進化生物学のようなマクロ生物学寄りの研究領域で、遺伝的な(genetic)ものをすべての土台として重視する強い傾向がひろまった背景には、生物学界全体を見渡しても他に例をみないくらいの非常に精緻な理論体系をはやい時期から確立した数理生物学の雄、集団遺伝学の寄与するところが大きかった。集団遺伝学とは、生物集団内の遺伝子頻度が、自然選択や機会的浮動などの要因にしたがってどのように変動するかを、数理的手法を存分に駆使しつつ研究する学問である。当然それは、進化生物学の理論の屋台骨をも担うことになる。音楽における総音列技法とのアナロジーということでいうなら、遺伝物質の具体的な実体に関する博物学的知見よりも、むしろこの集団遺伝学の、徹底的に定量化/形式化されたシステムになぞらえるほうがよりふさわしいのではないかと思う。

 

集団遺伝学が扱うのは遺伝子頻度の変化であるが、現実の世界において遺伝子はもちろん裸のまま存在しているわけではなく、個体のゲノムに組み込まれ、個体の表現型として発現され、そうしてはじめて自然選択の作用も受けるようになる。理論を現実に接げるためには、遺伝子型と表現型の関係を無視するわけにはいかない。理論家の希望として、それはメンデルのエンドウ豆の例のように、できれば分かりやすいものであってほしい。環境要因が表現型になんらかの影響を及ぼすことは避けられないだろうが、なるべくなら平均値のまわりの方向性を欠いたランダムな変異であってくれると好都合だ。それならモデルとしても扱いやすくなる。美しくエレガントなモデルを愛するそんな理論家たちの美学をところが無慈悲にもじゃまだてする現実が、表現型可塑性である。表現型可塑性というやつは、同じ遺伝子型であってもある環境のもとでは表現型A,別の環境では表現型Bといった具合に、意味ありげなパターンをあわらすことがままある。行動形質の場合だと、同一個体でありながら環境条件によって別の行動(表現型)を発現することも珍しくない。表現型レベルの変異のあらわれ方はじつに種々雑多であり、すっきりとした定量的な整理を容易には受けつけようとしない。ちょうど音における音色のような性質のものなのである。

 

理論家という人種は往々にして、モデルのなかにうまく取り込めない現実にぶつかると、モデルを現実にあわせて修正するのではなく、現実のほうを無視するというあまり理論的ではない解決の仕方を図るものであり、表現型可塑性という厄介者もまた、冷遇の憂き目にあうことは避けられなかった。動物の行動研究の分野では、生物の適応進化を予測するための、集団遺伝学とはまた別の数理的アプローチとして、経済学でつかわれていた最適化モデルやゲーム理論のモデルが輸入され、やはり成功を収めている。それらのモデルで表現型可塑性がどう扱われているかという話は煩雑になるので省くが、事情は集団遺伝学のケースとさほど変わりはない。とにかく表現型可塑性は、厳密で定量的な議論の土俵に乗せることがなかなか難しい。その泥臭い事実性を、定性的な議論の積み重ねで語るしかないのである。その種のものは、洗練された理論の体系のなかではどうしても扱いが悪くなってしまう。

 

West-Eberhardはもともと理論畑の人ではなく、社会性狩りバチの行動生態の野外研究者である。昆虫の社会性の進化で最大の焦点となるのは、働きバチのように自らは繁殖せずに、他個体の子供の世話をするような利他行動がいかにして進化しえたかという問題である。利他行動の進化をめぐっては、とりわけ高度な数理モデルがいくつも発表されてきた。「利他行動遺伝子」という言い方をモデルのなかで用いることもある。もちろん、実際の動物の利他行動の遺伝的基盤はまだほとんど分かっていないし、単一遺伝子座で決まるようなものでもないだろう。「利他行動遺伝子」とはしたがって、利他行動になんらかの遺伝的基盤がある、というていどの含意である。

 

ところでもし仮に、「利他行動遺伝子」をもつすべての個体がつねに利他行動を発現するとしたら、互恵的利他行動でないかぎりこのような遺伝子は集団にひろまりえない。利他行動の進化理論で最重視される、血縁選択による利他行動が進化/維持されるためには、同じ「利他行動遺伝子」を持っていても、個体によって、あるいは同一個体であっても条件によって、利他行動を発現したりしなかったりするという様態になっていなければならない。それはつまり、表現型可塑性ということである。要するに社会性昆虫の行動観察を続けていれば、表現型可塑性の問題に否応なしに向きあうことにならざるを得ないのである。West-Eberhardは、彼女のハチの研究をつうじて、進化生物学のなかではハリウッド映画の序盤で瞬殺されるチョイ役のごとき軽い扱いを受けている表現型可塑性が、現実には生物進化において主役級の重要な役割を担っているとの確信をしだいに抱くようになっていった。

 

80年代の半ばごろからWest-Eberhardは、表現型可塑性にもとづく進化理論の考えを雑誌に発表しはじめる(奇しくも後期ノーノの活動時期と重なり合っている)。理論といっても彼女の論文は、もっぱら言葉による定性的議論で占められており、理論生物学のテキストとしてはかなり異質なものである。2003年に著した、引用文献リストを除いても600頁を優に越える記念碑的大著にも、数式はまったく現れない。ただこの本にはその代わりに、さまざまな生物についての、へーぇと思うような興味深い具体例が満載されており、理論といってもまったく堅苦しくなく、たいへん楽しく読める本である。

 

West-Eberhardの進化論の価値、それはこういうことである。自然選択による生物の適応的進化の説明が直感的にどうも腑に落ちないという感想を抱いている人はわりと多いのではないかと思う。そういう人はWest-Eberhardの本を読めば、それまでの疑問の多くが氷解するはずである。自然選択のしくみについての説明がいまひとつ分かりにくいのは、別に自然選択の考えが間違っているからではなく、遺伝子型と表現型とのあいだにあまりにも単純な関係――ほとんどone genotype = one phenotypeのような――を暗黙のうちに仮定してしまっていることを元凶とするのだ。だがそこに、表現型可塑性の要素を加えてやると、自然選択の原理と表現型可塑性の原理は対立するのではなくうまい具合にかみ合わさり、非常に説得力のある生物進化の説明モデルが浮かび上がってくる。自然選択は盲目の時計師に喩えられる。あれはたいへんよい喩えだ、時計師というところが。自然選択というのは、時計づくりのような、細かい仕上げの作業を得意分野としているのである。進化の大きな絵を描く建築家はまた別にいる、それが表現型可塑性である。Phenotypic plasticity and the origins of diversityというWest-Eberhardの総説の表題がおしえるように、多様性の起源、すなわち、生物の新奇的な形質がそもそもどのようにして生じたのかという起源の問題に答えを与えてくれるのは表現型可塑性のほうである。自然選択は、理由はどうであれ新しい形質が生まれる、するとそれを所与として、その時点ではじめてはたらきだすものである。自然選択の理論において、起源の問題は広義の突然変異として、実質的にブラックボックス化されているのだといえる。

 

表現型可塑性は仕事のスケールこそでかく、大まかな方向性は示してくれるのだが、その手つきはいかんせん大雑把である。ところがそこにもう一人、自然選択という精密機械のように緻密な職人がいて、まだ随所に綻びのある表現型可塑性の産物を、これでもかというくらい適応的に洗練されたものに整えてくれる。そうしてこの二人は息のあった名コンビとして(表現型レベルの)生物進化の劇をずっと演じてきたのだが、進化生物学者演出の再現劇ではコンビの片割れがいつも奥のほうに引っ込んでいて、舞台上では自然選択が一人、出突っ張りで奮闘しているという状態であった。West-Eberhardは、舞台袖で拗ねている表現型可塑性を、「ちょっとこっちにいらっしゃい」と呼びにいったのである。

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