アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

第二の脊索 3/3

ジュデッカ運河

ザッテレで生を享け、ジュデッカ島を生活の場とし、再びザッテレで生涯を閉じたノーノにとって、ザッテレとジュデッカ島とのあいだに横たわるジュデッカ運河こそは、まさしく「故郷の海」と呼ぶにふさわしい場所であった。ジュデッカ運河を抜きにしてノーノのヴェネツィアを語ることはできない。Bettina Ehrhardtによるノーノのドキュメンタリー映画A Trail on the Water(邦題は『海の航跡』)もその点を心得ていて、冒頭の、ジュデッカ運河をゆく大型客船の映像にはじまり、エンドロール直前の、黄昏のジュデッカ運河を渉っていく船上からの眺望に到るまで全篇にわたって、ジュデッカ運河のさまざまな表情が随所に差し挟まれる構成になっている。

 

そのなかでもとりわけ、Guai ai gelidi mostriの第一楽章をBGMに、ジュデッカ島の南の海域から島を南北に貫くRio di San Biagioをジュデッカ運河へ向けて船で北上していく2分ほどのシークエンスは、ノーノがふだん最も慣れ親しんできたヴェネツィアの情景をひととおり見渡すことのできる格好のダイジェストになっている。まずジュデッカ島の南にひろがるのは、航路を知らせる木杭の点在する茫洋としたラグーナだ。ジュデッカ島の南岸には、倉庫やクレーン、煙突が立ち並び、ザッテレの陽気な賑わいからはおよそかけ離れた地味な印象の空間。Rio di San Biagioから眺めるジュデッカ島の内部は、鳥の鳴き声の聞こえてくる閑寂とした佇まいで、運河沿いの道(カッレ)にもほとんど人影は見当たらない。やがて行く手に、大小様々な船が行き交う活気に溢れたジュデッカ運河が、さらにその先に横たわるザッテレの家並が、ひらけてくる。ノーノの生家はRio di San Biagioがジュデッカ運河と交わる地点のちょうど対面に位置している。

 

ヴェネツィアの数ある運河の中でも、ジュデッカ運河は唯一無二の特異な運河である。本島の中央を蛇行するカナル・グランデと比べても格段に広く、尾道向島のあいだの尾道水道を上回るほどの400mもの幅があって、外洋からの大型クルーズ船も航行する。ほかの運河を八分休符や四分休符とするならば、ジュデッカ運河は、全休符の数小節にわたる連続にたとえられよう。運河と名がつく以上、「ザッテレの河岸」という言い方も普通に使われるけれども、あたかも尾道の海岸線を河岸と称しているかのような違和感は否めない。実際あれは、海峡とでも呼んだほうがよっぽどふさわしいような空隙なのだ。

 

ノーノはジュデッカ島の住人として、ヴェネツィアのなかでもジュデッカ運河をおいてほかに類をみない「運河以上、海未満」の一種独特な空間の韻律に身を置いていたのだった。本島の鐘の音、観光客で賑わう対岸のザッテレの喧騒、運河をゆく船の航行音、それらさまざまなシグナルが水の上の虚空を拡散していく過程で混ざり合い、無名のざわめきへと変じていく、その途上にある音を、ノーノはジュデッカという「引き気味のポジション」で日々聞いていたわけである。引き気味のポジション、これはサッカーでよく使われる言い回しだ。その伝でいくなら、ジュデッカ島はヴェネツィアのちょうど中盤の底に位置している。ここには決定的なものは何もない。だがその代わりに、前線の熱狂へと通じる無数の経路=パスコースが、海の沖合いに漂う厖大な数の浮遊幼生のごとく潜在している。

 

プランクトンが聞く音

ここでちょっと脱線して、サンゴ礁の話をしよう。ノーノが海のうえのなかぞらの出来事として語っていることは、まるで鏡を見るように、海面を挟んで反対側の水のなかでも起きているという話である。

 

たいていの沿岸性動物は、孵化後しばらくの期間、沖合いで浮遊生活を送る。サンゴ礁に棲む魚やカニの幼生が浮遊生活を終えるとき、かれらはなにをたよりに新たな生活の場であるサンゴ礁へと辿りつくのだろうか。どうやら音が重要な手がかりになっているらしい。 *1 サンゴ礁というところは、動物の立場からみると、膨大な数の生き物が犇きあっている一大都会であり、そこに暮らしている住民たちのさまざまな生活音の渦巻く、とても賑やかな場所である。たとえば、暖かい海の浅瀬の風物詩であるテッポウエビのはさみの音。浮き袋で増幅された、魚の歯ぎしりの音。あるいは、ウニが餌を食べているときのギシギシいう音。これらの「ラグーンのなかの、海のなかの、生のシグナル」は、海面と海底の両方に反射しつつ、数キロの沖合いにまで伝播していく。死んだサンゴからなる人工的なパッチリーフを自然の海のなかにつくり、録音したサンゴ礁の生活音をスピーカーから再生してやると、対照として設けた沈黙のパッチリーフに比べてずっと多くの稚魚が着底してくる。 *2 最近の研究では、サンゴ礁を形づくっている当のサンゴの浮遊幼生も同様に、サンゴ礁の住人たちの生活音のするほうへ引き寄せられる性質をもっているという実験結果が得られている。 *3 サンゴの幼生(プラヌラ幼生)の場合は、おそらく体表を被っている繊毛が、音を検知するセンサーの役割を担っているのだろう。

 

これらの研究が教えてくれるのは、海洋動物の浮遊幼生が、やがてかれらがもう少し成長したら暮らすことになる街のざわめきをいつも遠くに聞きながら海を漂っているらしいということである。海の動物たちの一生は、まずこの「引き気味のポジション」から幕を開ける。もっとも、浮遊幼生の初期消耗はたいへんはげしいものであるから、かれらが耳にしている音が予示する未来が現実化する確率、すなわち無事に浮遊生活期を終え、あの遠いざわめきのなかに自分も加わっていくことのできる確率は、ごく僅かなものでしかないのであるが。

 

Travel time

Enzo Restagnoによるノーノの自伝的ロング・インタビューの別の箇所には、次のようなユニークな沈黙観をノーノが語っているくだりがある。

Nel mio quartetto ci sono silenzi ai quali si associano, silenziosi e impronunciati, frammenti tratti dai testi di Hölderlin e destinati alle orecchie interne degli esecutori. Questi silenzi, in cui si somma nel nostro orecchio quello che abbiamo già sentito con quasi anticipi e tensioni a quello che ancora manca, sono nel varo senso della parola momenti sospesi. Dal Canto sospeso in poi questo è un sentimento che continua ad assillarmi, la sospensione da, per, o attraverso qualcosa, un classico Augenblick rilkiano che deriva, anticipa, sogna. *4

*

私の弦楽四重奏曲のなかには、ヘルダーリンの詩から引かれた断片が、黙したまま発音されることなく寄り添って、奏者の内なる耳へと差し向けられる、そんな沈黙があります。これらの沈黙、そこにおいて、既に聞いたものが、期待や緊張のようなものとともに、いまだないものと、わたしたちの耳のなかで結び合わされるのですが、それらは言葉の真の意味で、宙に吊られたモメントです。Il canto sospeso(=『断ちきられた歌 宙に漂う歌』)からこのかた、これは私につきまとい続けている感覚です。なにかから、なにかのほうへ、あるいはなにかを横切って宙に漂っている状態、流れていき、待ち受け、夢をみる、お手本のようなリルケの瞬間Augenblickです。

qualcosa(=なにか)、とここで呼ばれる、なにか陸のようなものに対して宙に漂っていることが沈黙の様態であるとするこの独特の感覚は、ジュデッカ運河のうえを舟で波に揺られながら、あるときはザッテレからジュデッカ島へ、またあるときはジュデッカ島からザッテレへ、ときにはこれらの場所を横切ってどこか別の場所へとtravel する宙ぶらりんの時間を何度も何度も経験しているうちに、おのずと身につくものであるような気がする。

 

行動生態学の最適採餌理論のなかに、資源がパッチ状=島状に分布している環境下での動物の最適なふるまいを予測する「パッチモデル」というものがあり、そこでは動物がパッチ間を移動している時間にtravel timeという、なんとなく詩的に聞こえる名前がつけられている。

 

*

 

... sofferte onde serene ...のテープ音響は、二種類の印象の混在である。一面でそれは微視的な細部までをも照らし出しているようでありながら、他方では輪郭がぼやけて、不定形でとらえどころのない印象を与える。並走する生のピアノの演奏音と比べて、テープの音にはなにか水のような、夢のような、記憶のような手触りがある。こうした性格の音響がのちの作品では、EXPERIMENTALSTUDIOの音響加工技術を得て、数段の進化を遂げた状態で出現するのである。そのなかから具体例として、Omaggio a György Kurtágのライヴ・エレクトロニクスを次の項でくわしくとりあげることにしたい。というのも、この作品は、いま上のほうで述べてきたジュデッカ運河のリズムがもっとも明瞭なかたちで顕れた、ああノーノはジュデッカの人なんだなあということをしみじみと実感できるライヴ・エレクトロニクス作品だからである。

*1:Montgomery, J.C, Jeffs, A, Simpson, S. D., Meekan, M. and C. Tindle (2006). Sound as an orientation cue for the pelagic larvae of reef fishes and decapod crustaceans. Advances in Marine Biology 51: 143-196.

*2:Simpson, S.D., Meekan, M.G., Montgomery, J.C., McCauley, R.D., and Jeffs, A (2005). Homeward sound. Science 308: 221

*3:Vermeij, M.J.A., Marhaver, K.L., Huijbers, C.M., Nagelkerken I. and Simpson, S.D. (2010). Coral Larvae move towards reef sounds. PLos ONE 5(5): e10660. [pdf]

*4:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 61