アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 5/8

二度めの脱線:感情と連続性(承前

1987年に出版されたノーノの談話、

  • Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes

そのなかでノーノは、ベッリーニは歌を「自然な抑揚で流れるように」したのだという先の批評の意味するところをこう説明している。 *1

Sur le plan de la voix ou du chœur, on pourrait ainsi voir que Bellini a une conception du chant très influencée par l'articulation de la voix et du souffle

*

声や合唱の点からみると、ベッリーニは声の、また呼吸のアーティキュレーションに強く影響された歌の概念をもっているとみることができます。

「自然な抑揚で流れるように」するとはつまり、呼吸のリズムに則った歌をつくっていく、ということなのである。歌において呼吸の流れを意識すること。さらに言えば、歌を一種の呼吸だとみなすということ。その意味は非常に大きい。呼吸としての歌は、もはや沈黙によって断ち切られることがなくなる。たとえ歌声がいったん途切れたとしても、呼吸は止まることなく続いていくものだからである。音と沈黙は、おなじみの群島モデルが含意する陸と海のような関係にあるのではなく、それぞれが、呼吸という同じ動的過程のとりうる一フェーズなのであって、実体としては岸辺のない海のようにひとつの連続性をなしているのだと考えられる。結果として、ベッリーニの歌において

La mélodie s'articule du début à la fin, sans début ni fin d'ailleurs, mais avec une transformation continue.

*

旋律ははじめから終わりまで、それどころかはじまりも終わりもなく、だがひとつの連続的な変化を伴いつつ繋ぎ合わされる

ことになる。

Lorsque les chanteurs en viennent à faire seulement comme une espèce de respiration, à tenir ce fil, ils comprennent qu'il n'y a pas vraiment de début ou de fin.  [......] Cela doit être comme le vent, un son continu, parfois violent, parfois léger, très simple et qui vient se mêler aux autres éléments naturels.

*

歌手らがただ一種の呼吸のような状態となってその流れを保持するに到ったとき、まさにはじまりも終わりもないのだということをかれらは理解します。  (………) それは風のようなものに違いありません。連続的な音。時には暴力的で、時には繊細で、非常に単純であり、自然の別のさまざまな要素と混ざり合っていきます。

以上のことから、ノーノが評価するベッリーニの歌の特徴をこう要約することができる――それは、海のようにきりのない連続性の印象を帯びている「断ち切られない歌」なのだと。

 

特筆すべきことは、ノーノがベッリーニの歌に、シナゴーグの歌とまったく同じ、感情の多重的なざわめきの反映をみいだしている点である。

Il y a , par exemple, cette chose extraordinaire dans Norma, cette accumulation de sentiments où l'on en vient à exprimer dans le même son différents états d'âme, caractéristique des chants hébraïques, ce qui m'a été confirmé par Edmond Jabès, et qui se traduit par une articulation extrêmement mobile.

*

たとえば(ベッリーニのオペラ)『ノルマ』には、あの比類なき現象――同じ音のなかに複数の異なる感情の状態が表現されることになる、感情の重層性がみられます。エドモン・ジャベスが私に教えてくれたように、それはユダヤの歌に特徴的なもので、きわめて動的なアーティキュレーションによって表現されます。

呼吸のように流れていくベッリーニの歌と、揺れ動く感情を映したシナゴーグの歌は、じつはノーノのなかでひとつの同じ家族をなしているのだ。先ほど呼吸について述べたことは、じっさい感情についてもそのまま当てはまる事柄である。生きている限り呼吸が続くように、感情もまた、音が鳴っていようと止んでいようと、またひとつの音楽が終わりを迎えようとも、途切れることなく継続するものである。しかもそれは、「五日間も続く怒りなどというものは、もはや怒りではなくて、ある精神障害である」 *2 というムージルの至言が教えるとおり、呼吸同様、刻々と変化しながら続いていく。

 

たぶんノーノは、感情あるいは呼吸が常態として具えているこの海洋的性格に魅せられているのである。本性として動的であり、かつ連続的という海の性質を湛えたものは、終わりもなければはじまりもないという果てしなさの感覚をわれわれに喚び起こしてくれる。ノーノにとってベッリーニの歌やシナゴーグの歌は、月が太陽の光を受けて輝くようにその面に無限を映し出している鏡だ。

「声の時間と空間、そして甘美な夢が限りなくつづいていきます」

ベッリーニの音楽をめぐる談話の結びでノーノはこう言っている。

La voix, dans l'œuvre de Bellini, parvient à faire sentir l'espace dans une continuité sans fin

*

ベッリーニの作品において声は、終わりなき連続性の中にある空間を感じさせてくれるにまで到るのです。

 

というわけでブルーノとノーノは、海の流儀で不断に移ろいながら断ち切られることなく流れつづける感情に無限なるものの翳をみとめるという点で、根本においてまったく同じ感情論を共有しているのである。ちなみにEnzo Restagnoとの対話をみれば、ノーノがその流れのゆくさきをどうみているかについても窺い知ることができる。感情や呼吸の連続性は、死をもって終わりを迎えるのだろうか。いやたぶんそうではないだろうとノーノは考える。死の本質は、もはや何事も起こらない静止=dead endではなく、動きと変化だ。個体の生を充たしている不断のざわめきは、個体の死によっても断ち切られることなく、別の様相(modo differente)へと変じて空間へ、時間へと拡散し、なお継続するだろう――今ここで詳しく立ち入ることはしないが、これは魂/生の遍在というブルーノの無限宇宙論の核心のひとつと密接に結びついた、またしてもきわめてブルーノ的な認識である。

 

Post-prae-ludium ― あとがき兼まえがき

動と静、あるいは多様性と純粋性などと呼び分けられるノーノの二つの音の世界を探索していくなかで目のあたりにしたのは、連続性という同じ一つのモチーフが、どこを掘っても湧き出る温泉のごとく、そこかしこで脈打っている光景であった。どうやらノーノの「二つの音の世界」自体が二組存在するようである。「動/多様性――静/純粋性」の第一の対と、「連続性――断片性」の第二の対と。

  1. 動/多様性――静/純粋性
  2. 連続性――断片性

この二つながらに興味深い二元性のテーマにアプローチするにあたっては、それぞれの傾向と対策がある。

 

まずA面に関して。Das atmende Klarseinのアカペラ合唱に代表される、ほとんど純音に達せんとするほどの清澄な、そして静的な音響は、結論から言うとカッチャーリの思想の音楽的表現という面で大きな役割を担っている。動(多様性)と静(純粋性)の二つの音の世界の成立を読み解く手掛かりは、したがって、Das atmende KlarseinやQuando stanno morendoやPrometeoのように、カッチャーリとの直接的な共同制作によって産み出された、Verso Prometeo (Towards Prometeo)と総称される諸作のうちにある。

 

いっぽうB面については、断片化とは連続性を断ち切ることであるといった真っ当な常識にとらわれて、断片性を肯定するノーノと連続性を肯定するノーノを相反する両極へと引き裂いてしまうことのないよう気をつけなければいけない。細部において不断に揺れ動く音を愛し、終わりなき漂泊をモットーに掲げ、ベッリーニの音楽にすらひとつづきの広大な連続性をみいだしている、卓抜した「連続性感覚」の持ち主であるノーノと、われれれがよく知っているほうのノーノ、すなわち、沈黙の海にきれぎれの音を鏤めて群島の図を描き出しているような、断片のマエストロとしてのノーノは、ジキルとハイドのごとき別人格ではないのである。

 

sospesoというたいへん含蓄ある語を含むノーノの代表作の標題が大きな示唆を与えてくれる。ノーノがうたう歌はすべからく、<<Il canto sospeso>>なのだと心得ておこう。Il canto sospeso、それは、Il canto sospeso=断ち切られた歌であるとともに、Il canto sospeso=航跡のように宙を漂う歌であって、なおかつIl canto sospeso=海のように包み込む歌(※)でもあるような歌、要するに、断片的であることと連続的であることを同時に体現している歌の謂である。sospesoとは、そこに立つと断片性と連続性を二律背反としてではなく、同一の事象の二つの側面として捉えることのできるような、ある観点の所在を指し示すキーワードなのだ。

 

※ sospesoを「包む」の意味で読んでいる例として、ノーノの合唱曲Cori di Didone (1958) のテキストに採られたウンガレッティの詩Cori descrittivi di stati d'animo di Didone(ディードーの心のうちを描いたコロス)の、河島英昭による訳を掲げる。Cori di Didoneの一曲めに相当する原詩 II の、冒頭の詩句。

La sera si prolunga / per un sospeso fuoco

夕暮れが引き延ばされてゆく/あたりを包む炎のなかで

*

以上の長いまえおきを踏まえまして、ここから先の予定。

 

二つのテーマ:二つの「二つの音の世界」

  1. 動/多様性――静/純粋性
  2. 連続性――断片性

二本立ての構成:B→Aの順番で。

 

一本目。連続性の原理と断片性の原理がノーノのひとつの音楽作品のうちに独特のありかたで共存している模様を、Risonanze erranti (1986/87)を中心的なモデルとして詳らかにしていく。

 

二本目。カッチャーリとの共同制作による、Prometeo (1984/85) に到るまでの5作品をモデルとして、動(多様性)と静(純粋性)のテーマに取り組む。一面においてこれは、ノーノのひとつの音楽作品のうちに、ノーノ的なものとカッチャーリ的なものが、それぞれの個性を保ちながらせめぎ合っている様を描き出す試みでもある。

*1:Luigi Nono (1987). Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes.

*2:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「アガーテはウルリヒの日記を見つける」