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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 3/8

4

これまで述べてきた二つの音の世界にほぼ対応する事例を、ノーノは音楽の歴史のなかにもみいだしている。それが

の対である。80年代のノーノはこの話題にしょっちゅう言及しているのであるが、そのなかから特にまとまった内容の発言を二つ読んでみよう。

 

その1 1987年のPhilippe Albèraとの対話より *1

私はこのことをジャベスとおおいに議論しました、特にシナゴーグの歌について、私がよく研究したアラブやユダヤの歌について。これらの歌は、バルトークが指摘したように、微分音程を用います。そうした微分音程はポグロムユダヤ人迫害)のあとに作られた哀歌にも認められます。これらすべては音声学に、どのように歌うかということに関わっています。そこには動的な音高があり、グレゴリア聖歌におけるような静的な音高とは違っています。音高は絶えず修飾され、連続的に変化します。ジャベスは私に言いました、ユダヤの歌において人は生に向き合って、あるいは見えない神に向き合って、同時に異なる複数の感情を表そうとするのだと。喪失のモメントがあり、愛のモメントがあり、待機のモメントが、記憶の、郷愁のモメントが、大きな歓喜のモメントがある、といった具合です。われわれの西洋の音楽に慣れた耳は、それを感じることができないということもありえるでしょう。いかに開かれてあるかの問題です。 (……) 私は組織化の必要性を理解しています。組織化と私が呼ぶのは「コンポジション」のことではなくて、ライプニッツのような、シェーンベルクが考えていたような、あるいはタルムードにおいて見いだされるような、「アルス・コンビナトリア」です。つねに、1つの「テーマ」から、6つや7つの可能な解釈が得られる。この場合、人はどこに真実があるんだと問うことができる。私にとってこれは、カトリックの信仰とユダヤの考えとの大きな違いです。カトリックのあいだでは、クレド、「我信ず」と言う。ユダヤの思考においては「聞け」と言う。

 

その2 1987年3月のEnzo Restagnoを聞き手とするロング・インタビューより *2

Enzo Restagno

あなたがいま語ってくれたように、Como una ola de fuerza y luzは、Luciano Cruzの死への一種の墓碑銘です。墓碑銘という言葉は、ときには明示的に、ときにはそうではないかたちで、あなたの音楽にじつにしばしば姿をみせます。Cori di Didoneは、悲劇的な死を遂げた詩人や画家に捧げられた音楽的瞬間のアンソロジーであり、ディドは、自殺による暴力的な死のエンブレムです。ガルシア・ロルカへの墓碑銘があり、Il canto sospecoの、犠牲者たちの生の別れの言葉がある。自殺した詩人たち、殺害された友人たち、歴史の猛威の犠牲者たちのこの悲劇的な眺望を背景として、私はあなたにお伺いしたいのです、死とはなんなのでしょうか?あなたがさきほど引用したカネッティは、死は人間性にとってもっとも恐ろしい脅威だと言っています、そして私は、もっとも心を動かされたことの一つとして、死に対する、途絶えてしまった哀悼の歌という彼の考えを覚えています。カネッティは言います、誰かの死に向けられたわれわれの哀悼は永久に続くべきだと。もしそれが無限に続くのであれば、死がわれわれから奪い去っていった人たちをおそらく取り戻すことができるだろう。けれどもある時点で、私たちは悼むことを止めてしまう。カネッティがあなたの音楽を聴いたら、これらの墓碑銘に、失われた友に向けられたこれらの哀歌に多くを感じとるのではないかと思います、慰めを探すことに終わるのではなく、鳴り響き、ただ継続することだけを希う墓碑銘に。

Luigi Nono

あなたの言葉は私に、ポーランドウクライナで起こったポグロムの後の17世紀と18世紀に生まれた、ユダヤ人のすぐれた哀歌のことを思い起こさせます。パリの偉大な詩人エドモン・ジャベスによって不意に啓示を受けるまで、それは何年ものあいだ私の記憶のなかで鳴り響いていました。これらの歌は、ただ悲しみだけを表現しているのではなく、同時に希望の、感謝の、記憶の感情をも表している。そしてこの、いっけん相反する感情の多重性は、ドイツのすぐれた音楽学者イーデルゾーン――彼はさまざまな系統のユダヤの歌を収集した記念碑的な著書を著しました――の研究で示されているように、歌の微細な揺れ動きをとおして表出されるのです。ジャベスの解釈とイーデルゾーンの研究をとおして、私はあなたの質問とカネッティの主張に対する答えを垣間見たように思います。私は死というものをおそらく、異なる様態で(in modo differente)ひらかれた空間と時間のなかを遊弋していく(naviga)ものだと感じています。死は閉じたものではなく、変容していくものである。ある精神的な力が変容し、別のものになり、別のさまざまな空間を、別のさまざまな記憶とともにさすらうのです。待ち受ける、あるいは新たな感情を帯びるのです。私の『ロルカへの墓碑銘』がダンスのリズムについての個別の研究と結びついてるのは偶然ではありません。私はグラナダで、ジプシーたちがロルカの命日に、詩人が撃たれた場所で会ってダンスを踊るということを知ったのです。同様の証言は、マルティン・ブーバーによって収集されたハシディズムの物語のなかにも見つけることができます。これらすべての証拠が、ジャベスの解釈に合致しています。歌の抑揚の無限の多様性のなかに、哀悼の、希望の、愛の、絶望の、不在の、忘却の、欲求の、待機の、さまざまな契機が共存し、同時に鳴り響き、組み合わさっている。 それはまた、ユダヤの素晴らしい歌(典礼歌であってもそうでなくても)――微分音程により動的な――と、キリスト教グレゴリオ聖歌――音高において静的な――とのあいだの差異でもあります。別の言葉でいうと、「聞け」の文化と「我信ず」の文化の深遠なる差異です。

Restagno

つまり、この感情の同時性をとおして音楽は、とりわけ哀悼歌は、そこにおいて生と死が接触し混ざり合い、二つの流れとして合流する場なのですね。カネッティは、ですから彼が、哀悼の歌をもし無限に続けたとしたら、生を取り戻すことことができるだろうと言うとき、正しいことを言っているわけですね。

Nono

そのとおりです、なぜなら哀悼歌は、さまざまな感情の同時性という意味において、死と生の無境界性を表しているからです。

*

発言の要旨を図式的に整理すると次のようになる。

シナゴーグの歌とグレゴリオ聖歌の対を、ノーノははなはだ明快に、動(mobile)と静(statico)の対照として描き出している。より具体的にいうと、前者はmobile per microintervalli(微分音程により動的)、後者はstatico nell'altezzo dei suoni(音高において静的)で、細部における動きの有無によって区別される。

 

シナゴーグの歌をはじめとするユダヤの音楽は、ノーノの特に後期における最大のモットーたるsuono mobileの、歴史的なモデルケースである。ノーノがよきものをユダヤ的なものと結びつけるのはいつもながらのことだ。そのシナゴーグの歌=suono mobileの対極に置かれ、もっぱら「静的」の形容を与えられているグレゴリオ聖歌に、多少なりとも否定的な含意を読みとるべきだろうか。一般論として「静的」は「固定的」につうじる言葉である。私はここ一年ほどのあいだ、ノーノが残した文章や談話をかなり読んできたが、固定の語をノーノがよい意味でつかっているケースに出会ったことは一度たりともない。ノーノの辞書のなかで固定という単語は、つねに唾棄すべきろくでもないものを表す語として用法が「固定」されているのである。グレゴリオ聖歌は「クレド」の精神に発するのだとノーノは言う。さしずめそれは、信仰に凝り固まってありうべき別の可能性への眼差しを喪失した歌とでもいうことになるのか。

 

しかし現実は、そんなマニ的二分法で片付けられるほど単純なものではないようだ。冒頭で述べたとおり、グレゴリオ聖歌的要素はノーノの音楽から決して全面的に排除されているわけではない。それどころか作品によっては、もう一つの軸といっても過言でないくらいのかなり重要な部分を担ってさえいる。この件を語るときはいつも真っ先に引き合いに出しているDas atmende Klarseinは、グレゴリオ聖歌的な性格に特化した純粋の極みのアカペラ合唱とシナゴーグの歌風の間断なく揺れる細部を特徴とするバスフルート独奏が二本柱として並び立つ、まさにグレゴリオ聖歌シナゴーグの歌のハイブリッドのごときつくりの音楽である。「音は絶えざる変化のなかにあるべし」というsuono mobileの思想をいっそう前面に押し出すようになった80年代のノーノの産み出す音楽が、それでもsuono mobile一辺倒とはならず、見方によっては「アンチsuono mobile」とさえ呼び得るようなまったく対照的な要素を孕んでいるという事実――これは、ノーノの後期作品にみられるもっとも興味深い特徴の一つである。

 

ただ今から詳しくとりあげたいのは、その本筋からややはずれた別の事柄である。上に掲げたノーノの二つの発言は、シナゴーグの歌とグレゴリオ聖歌に象徴される二つの音の世界の比較とは異なる文脈においても、注目すべき内容を含んでいる。suono mobileのmobileという性質、その発生源をノーノが具体的に特定している点である。シナゴーグの歌の微細にして不断の抑揚を、ノーノは感情の揺れ動き、すなわち、複数の相反する感情が同時に去来することの反映として捉えているのである。ノーノがエドモン・ジャベスから受けた啓示だとしているこの考え、またこの考えに端を発する、感情についてのノーノの所説全般に認められるのは、ジョルダーノ・ブルーノの思想との驚くべき類似性である。一貫性なんてものはイヌにでも食わせてやれというノーノのおしえに再びならって、このちょっと気になる脇道をしばらく辿ってみることにしよう。

*1:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono. [pdf]

*2:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 52-53.