アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌(ブルーノーノ 第二部) 前篇 1/8

まえおき:ノーノと二つの音の世界 + 連続性感覚

 

1

話のとっかかりとしてまず、コントラバス奏者のStefano Scodanibbioによるノーノの思い出話を読んでみよう。

……そしてarco mobileという運弓の技術も産み出され、Gigi はそれをPrometeoのスコアで不滅のものとしてくれた(Isora Primaのすべての弦のアゴーギクの指示として書き込まれたarco mobile a la Stefano Scodanibbio ――ぼくをいまでもクジャクみたいな誇らしさでいっぱいにせずにはいられない献辞だ)。

 

彼はクラシックの、というかロマンチックな器楽の音を嫌悪していた――固定的なイントネーションの音、そしてなおいっそう悪いのは、19世紀の伝統であるヴィブラートを伴う音。それで彼は、すべてのソロイストに音を「動かす」ことを求めた。音に変化を与え、やすらうことのない、不安定なものにする、もちろんヴィブラートによってではなく、微分音程によって、微細な音色の揺動によって、水平線のわずかなさざなみによって、つねに避けられるべき静止状態の、知覚しえぬほどの攪乱によって。 *1

ジジGigiとは、本人が推奨するノーノの愛称――「ぼくのことはジジと呼んでくれ」――Luigiのgiを二つ並べてGigi。ノーノが手紙に書き添える署名もGiGi

PrometeoのPrima Isolaの最初の頁の、次の書き込みのことなり

 

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Prometeoへと連なる80年代前半の音楽創作の現場でノーノと深く関わった演奏家の一人であるスコダニッビオが伝えているのは、叩けばカチンコチンと音がしそうなくらいの堅い「陸の言葉」で飾り立てられることの多いノーノのパブリック・イメージからは遠くかけ離れた、固定と名のつくものをとにかく忌み嫌い、水のようにたえず揺れ動き流動する音――総称すればsuono mobileをこよなく愛する、水の都の作曲家の姿である。ノーノの音楽が細部に到るまでガチガチに固定された硬質なつくりの音楽であるかのようなことを言っている批評をみることはまれではないが、これは単純に事実に反している。一般に考えられているよりもノーノの音ははるかに深く水の原理に侵されているのである。それは半ば水のごときものでできた音楽なのだと想像すればよいだろう、定まった輪郭をもたないため、音符のような固形物を使ってはどうにも書き表しようのない、多彩に揺らめく細部を湛えた音楽だとして。

 

この水の気配に満ちた音楽にはしかし、もう一つ別の成分が含まれていることも忘れてはならない。たとえヴェネツィアがアックア・アルタに襲われ街じゅうが水浸しになったとしても、空を見上げればそこには飛沫の一滴すら届かない、水とは無縁の空間がひろがっているということは、ノーノの作品世界についても当てはまるのである。スコダニッビオのノーノ評にひとつだけ留保をつける必要があるとしたらそこである。つまり、「つねに避けられるべき静止状態」というくだり。ノーノが静的なものを「つねに」忌避していたかと言えば、答えははっきりと否である。80年代のノーノの音楽には、水の流儀で不断に移ろうsuono mobileとは対照的な性格を具えた、まさに静的と呼ぶにふさわしい、澄みわたった純粋な響きの音が、ヴェネツィアの海と島を描いた絵の一角を占める空を思わせる趣で、時おり顔を覗かせるからである。suono mobileの見本市のような豊饒な細部に満ちみちたバスフルート独奏と、極限まで澄みきったユニゾンと完全音程の卓越するアカペラ合唱とが交互に現れるDas atmende Klarsein (1980/83) は、その代表例だ。ラッヘンマンがPrometeoについて述べた、「アモルフなクラリネットの音、そこに高貴とも言える歌が加わり、まったく新しいコンテクストが形成される」 *2 という短評が言わんとしているのも、海のような尽きせぬざわめきと、青空のようにゆるぎない清冽さのコントラストが織り成すこの独特のサウンドスケープの妙だろう。

 

2

ノーノの音楽のなかにあって、昼と夜ほどにも違っているようにみえる動と静、あるいは多様性と純粋性の二つの音の世界に関しては、現象と歴史の二通りの文脈にそくした説明づけが可能である。

 

まず第一に現象のレベルでは、それらはいずれもノーノがその眼で実際に「見た」音の姿である。1980年11月以降、ノーノが足繁く通うようになったフライブルクのEXPERIMENTALSTUDIOには、ソノスコープ(sonoscop)という、音を操作するというよりはむしろ観察するためのツールがあった。ソノスコープは、マイクロフォンが捕捉した音を、強さ、高さ、時間の三次元で可視化してリアルタイムで表示することのできる機器である。強さはfffを黒、pppを薄灰色として、16段階の色の濃淡で表され、高さは周波数成分のスペクトルとして表示される。そしてこの強さと高さの変化が、時間軸に沿ってリアルタイムでモニタ上に映し出されていく。 *3

 

ソノスコープをつかってさまざまな楽器や声の発する音、あるいは自然音を仔細に観察していったノーノは、「五線譜の上ではただひとつの音符で書き表せるようないっけん単純な音であっても、微視的レベルでは、森の木の葉や人の指紋のように千差万別の個性を示し、ほどんど無限に多様であることを如実に実感した」――というところまでは、既にさんざん書いてきたとおりである。ここでは、こうして見いだされた細部における音の無限の多様性が、suono mobile、すなわち「動き」と結びつけられる理由について補足を加えることにしたい。

 

私はこれまでソノスコープのことを、「音の微視的な形態を可視化する装置」であると何度か説明してきたが、反省するに、「形態」という静的な印象を与える言葉をつかったのは適切ではなかったと思う。ソノスコープは、音というものを、音符を用いて点的、静的に記述するにはまったく不向きなものとして、要するに、形姿の経時的な変化として知覚することを強く促す道具だからである。この論点は、なによりもノーノの口から説明してもらうのが一番だろう。1985年の講演のなかで、冒頭で引用したスコダニッビオもふれている弦楽器の奏法、arco mobileに言及したノーノは、こんなことを述べている。

...arco che gira continuamente perché anche se la "base" è unica - mettiamo un Do - il suono diventa sempre continuamente un "altro Do" perché è impossibile mantenere fisso e stabile un suono dato in quanto la qualità, le "parziali", gli armonici più alti, cambiano continuamente. *4

*

弓は不断に移ろっていきます。なぜなら、たとえ基音が一つであったとしても――「ド」であるとしましょう――その音はたえず、不断に、別のドになるからです。というのも、音の質、部分音、高次の倍音は不断に変化していく以上、問題の音を固定し安定的に保つことは不可能だからです。

ソノスコープが教える音の多様性とはこの種のものである。それはもとより動きのなかに宿る多様性なのである。この連続的に揺れ動く音について音符が表現し得ることは、せいぜいその基音がドであると規定するところまでである。より微視的な細部は「不断にcontinuamente」変化しているのであり、しかも奏者自身がその揺動を逐一制御することは「不可能」なのだから、もっともらしく細々と記述したところで意味をもたない。細部に関して楽譜が果たすべき役割は、音そのものを直接に規定=固定することではなく、その反対に、音を不安定化=脱固定化して微細な動きを誘発するための各種の仕掛けをもうけてやることにある。ノーノのとりわけ後期作品の譜面にひろがるあの独特の風景――音符そのものはごくシンプルに書かれているのに対し、その音符に付随して音の細部に暗に影響を及ぼすもろもろの修飾因子が異例の発達を遂げている――は、本来動いているものを紙の上で静的に表現するという明らかに矛盾した要請の所産だとみることができよう。多様に分化したフェルマータ、極端にレンジの広い強弱記号、弦にとりわけよくみられる、奏法についての言葉による説明書き、Risonanze errantiの楽譜で特に多用される感情表現に関する細かな指示、そして場合によっては詩の文句といった種々雑多な註記が、五線譜上の簡素な音符の配列のあちこちにぶら下がっている光景は、塩基配列のさまざまな部位に、遺伝子の発現調節に与る各種のタンパク質が結合しているDNAの図を思わせるものがある。ただ塩基配列が指定されただけの裸のDNAでは何事も起こらないのと同じで、ノーノの楽譜の本文にあたる音符はそれ自体では音のほんの大枠を規定しているにすぎず、そこに註がくっつくことでようやく表情を得て、まともに「動き出す」ようになる。

 

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一例として上に掲げたのは、No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskijの弦楽パートの典型的な光景である。そのままでは一定の音高に固定されたただの持続音としかみえない単純な音符に運弓についての注意書きが付着することによって音が不安定化し、音符で示された「平均潮位」のまわりを不規則に波打つsuono mobileの発現に到るというしくみ。もちろん微視的レベルでどのような波が描き出されるかは演奏のたびに異なり、一意に固定はされない。このいっけん不器用とも思える書法の背景に、「音は動く」というノーノの基本思想が横たわっているのだ。

 

音は動く。しかし動くというだけで十分なのだろうか。先に掲げたノーノの短いコメントのなかに三度も出てくる「不断にcontinuamente」の語が示しているのは、単なる動きからさらにもう一歩踏み込んだ、動きの連続性への高い意識である。音はただ動くのではなく、不断に動く、動き続けるのだ。あまり知られていないことだが、一般には断片や点描の名のもとに評されることの多いノーノは、じつは連続性への強い志向をもった作曲家である。continuamenteやcontinuità、continuo、continuareといった、連続性の概念を表す用語は、ノーノの発言のなかに、断片を意味する言葉よりもむしろ高頻度で現れる基礎単語だ。

 

連続性の語を、ノーノが明らかに否定的な意味で用いているケースもある。

Concetti come continuità e coerenza sono per me di una banalità incredibile. *5

連続性や一貫性といった概念は私にとって途方もなくつまらぬものです。

その忌まわしき連続性に換わるべき理想をノーノはこう説く。私はいつも自分が変わってほしいと思っている。毎朝起きるたびに変わっていたい、いやそれだけでなく、午前、午後、夜、それぞれに変わればいいと願っている。変化のなかにあり続けることdi continuare nel diversoを私は望む。一貫性だとか伝統とかいった考え方を私は理解できない、なぜなら文化でも思想でも「常にcontinuamente」変転するものなのだから――というわけで結局、肯定的な文脈でも連続性という言葉は使われる。 *6

 

要するに、よい連続性とわるい連続性があるのだ。ノーノにとってわるい連続性とは、一貫性や固定といった概念と組になった連続性である。対するよい連続性は、変化を表す言葉と結びついている――たとえばtrasformazione continuaだとかcontinuamente variabileといったように。

 

………と、ここでふと我に返って、そもそも今なんの話をしようとしていたのかを思い出してみる。そうだ、音の二つの世界。その現象レベルでの表れ方を、動の世界から静の世界へと順繰りに巡っていく行路の途中であった。本来の「進むべき道」はそれである。だがここはひとつ、一貫性なんてのは守るに足らないものだというノーノのおしえにならって、道端で何気なく目にした連続性の問題を、興味のおもむくまましばらく追いかけてみることにしよう。

*1:Stefano Scodanibbio. I miei anni con Gigi. [pdf]

*2:シンポジウム『ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>>』より [link]

*3:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*4:Luigi Nono (1985). Altre possibilità di ascolto.

*5:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 38

*6:このくだりはEnzo Restagnoによるインタビュー(p. 38)と高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)における発言を組み合わせたもの