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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 6/9

Risonanze erranti

リフレクション

そう、結局はこの場所に戻ってくるのだ。ジュデッカ運河――ノーノが抱いているあらゆる空間的イメージの源泉となる「母空間」である。

 

その空間は、

  • 内側の空間(spazio interno)と、それを取り巻く外側の空間(spazio esterno)とからなる。
  • 内側の空間は島と呼ばれる。
  • 外側の空間は海と呼ばれる。
  • 内側の空間=島からは外側の空間に向けてなにか(音)が流れ出している。
  • 外側の空間=海とはすなわち「面」の存在である。われわれ陸の住人がそのなかで10分と生きられない向こう側の世界(水圏)と、こちら側の世界(気圏)とを厳然と分かつ境界面。
  • 島から外側の空間へと流れ出したなにか(音)は、そこに横たわる面=海面にぶつかり、はねかえされる――反射の発生。

島と海の空間モデルを記憶のモデルへとつなげる糸口とは、その「反射」である。

 

ヴェネツィアの音景を語るノーノの発言集をここでもう一度掲げておこう。改めて確認したいのは、ノーノがヴェネツィアの水のほとりで聞く音を、さかんにリバーブ、エコーの語で表現していることである。

1 ... sofferte onde serene ... に寄せた文章より

ヴェネツィアのジュデッカにある私の家には、様々に打ち鳴らされ、いろいろなことを告げる、種々の鐘の音が、昼となく夜となく、あるいは霧の中を通って、あるいは日の光と共に、絶え間なく聞こえてくる。それらはラグーナの上の、海の上の、生のシグナルである。 *1

 

2 カッチャーリとの対話より

鐘の音がさまざまな方向に拡散していきます――あるものは重なり合い、運河に沿って水により運ばれていく、別のものはほとんど完全に消えてしまう、また別のものは、ラグーナや街のほかのシグナルと、さまざまなかたちで混ざり合います。 *2

 

3 ベルリンとヴェネツィアの音環境を比較して

ヴェネツィアでは)もっと高い音のスペクトラムを感じます――バーブによって、鐘同士のエコーによって、別の音によって、またそれらの音が水の上を伝播していくことによって。 *3

 

4 フライブルクの黒い森の音響空間やベッリーニの歌曲について語るなかで

ヴェネツィアと同様に、そこでは音にエコーが、バーブがあり、音がどこではじまり、どこで終わるのかを知ることができません。 *4

 

5 1985年の講演より

ヴェネツィアの、ジュデッカの一角で、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島で、サン・マルコの船着場の水の鏡面specchio d'acquaで、金曜の7時ごろに聞こえてくるのはこのうえなく美しい音風景です。それはまさしく魔術です。鐘楼から何かの古い宗教的なシグナル(晩課やお告げの祈り)が打ち鳴らされる、するとそれらの音にバーブが、エコーが重なりあい、どの鐘楼から真っ先に音が届いたのか、水の反射面superficie riflettente dell'acquaの上をあらゆる方向に四散する音の交錯が、どのように、どこで密になるのか、もはや分からなくなります。 *5

 

バーブ/エコーと呼ばれる物理現象に対するノーノの愛着のほどは、ライヴ・エレクトロニクスにおいてしばしばリバーブを音響効果として用いること、さらにはスピーカーの設置に際しても、わざわざスピーカーを外向きにして、いったん音が壁に当たってはね返ってから届くようなしかけを好むといったところによく表れている。「私は(直接的に届く音に対して)間接的な音の方がずっと良いのです」 *6 という、まことにストレートなリバーブ礼賛の弁をとある対談のなかで吐露したこともある。

 

バーブやエコーが成立するためには、言うまでもなく次の二つの要素が必須である。第一に音が空間を動くこと、動きつづけること、そして第二に、動いていった音がなんらかの反射面に出会うこと。反射面は石畳の路面でも建物の壁でもなんでもかまわないが、水の都ヴェネツィアではもちろん、島々を取り巻く海面がその代表格となる。

 

なんにせよ、反射面はぶつかった音を反射=リフレクトする。英語(reflect, reflection)でもイタリア語(riflettere, riflessione)でも、リフレクトは物理現象と心的現象を同時に表す言葉だ。「リフレクトする」をその二重の意味にそくして訳すなら、音は反射し、反響し、かつ思案され、沈思され、反省され、振り返られ、思い起こされるのである。音が拡散し→なにかにぶつかり→はね返されるという、ありふれた空間的行程に、はなはだ素朴な在り方ながら記憶の過程の雛形のようなものが、より広く言えばかすかな精神性のようなものが兆しているようにみえる。

 

たとえ話をつかっていえば、こういうことである。

確かに肉体という点からすれば僕と兄貴は正反対だった。兄貴は心の中までも肉体でぎっしり埋まっているのではないかと思わせるほど、思いを反芻したり屈折したりすることがなく、逞しい肉体が外の世界を表面できらきらとはね返していた。 (……) しかし、僕は違っていた。僕は肉体に恵まれていなかった。僕は子供のころから小さくて痩せていて、"骨" とあだなされるほどだった。しかし僕は "骨" であるがゆえに、心のなかの空洞は青の屏風から吹き付けてくるすべての風を入れることができるほどに広く、かつ自分でもよく分らない微妙なところがあった。そこはいろいろな思いが反芻され、光と影を作りながら屈折し、あるところは水のように暗く淀んでいた。 *7

この寓話のなかで海に相当するのが「兄貴」であり、島に相当するのが「僕」である。

 

いま注目すべきことは、「僕」という島の内側と外側で生起しているふたつの現象――

  • 島の横腹に開いた大きな海蝕洞のような「僕」の心の中の空洞で生じている屈折
  • きらめく海面のごとき「兄貴」の肉体の表面で外の世界がはね返されて生じている屈折

――これらがまったく同質のものだということである。そこでもしも、「僕」の心の空洞から潮が引くように外の世界に流れ出していったものが、あらゆるものの侵入を拒む「兄貴」の肉体ではね返されて再び「僕」のなかの空洞へと押し寄せてきたとしたら、空洞の内部で幾重にも生じている屈折とまったく同様に、「兄貴」の肉体の表面で生じた遠い屈折をも、「僕」の思いとして感受し得るのではないか――そんな推察をとおして、「僕」の体をはみ出しそのまわりに地球を取り巻く大気のようにひろがる、いわば「屈折圏」とでも呼ぶべき、拡張された記憶の海、想念の海が幻視されてくるようになる。反射という物理現象に宿る精神性を介して、ノーノがベッリーニの音楽について語った言葉を借りれば「どこが肉体で、どこが非肉体なのか、どこが物理の世界でどこが思考の世界なのか」 *8 の境が判然としなくなるconfusioneが生じるのである。

*1:イタリア語原文はFondazione Archivio Luigi Nonoの作品リスト中に掲載されている。Deutsche Grammophon日本盤CD解説中の日本語訳(庄野進訳)を一部改変。

*2:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*3:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 70

*4:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono [pdf]

*5:Luigi Nono (1985) Altre possibilità di ascolto.

*6:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*7:桑原徹 「風の駅」、『御神体(鳥影社)』所収

*8:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 16