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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 5/9

モデルケース

先にみた「ジュデッカ運河モデル」による音の海の形成過程をおさらいしてみよう。

  1. 音の島から音が流れ出し、
  2. 沈黙の海の海面ではね返されて拡散反射し、
  3. 音が沈黙の海のうえで混ざり合い融け合い、水のような性質を帯びた「別の音」になり、
  4. 沈黙の海のうえに二段重ねの格好で音の海が出現する

要するに、海の水はどこか遠くの沖のほうから満ちてくるものではなくて、あたかも島の内ふところから滲み出すようにして海を充たしていくのである。

 

ノーノの作品群のなかでもこのモデルにもっとも忠実につくられている、「ヴェネツィアの縮図」と呼ぶにふさわしい音楽がある。Omaggio a György Kurtágである。

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■ 海の眺め 5 Omaggio a György Kurtág (1983/86)

 

譜面のうえに音符で描かれたヴェネツィアの地図。八分休符や四分休符、あるいは二分休符の小規模な運河を内部にいくつも抱えた、いかにもヴェネツィア風のすきまだらけな音の島が二つ。そしてそのあいだに、島の内奥を走る運河と比べて格段に大きなジュデッカ運河(ここでは総休止のほぼ5小節にわたる連続)が横たわっている。

 

五線譜上にはひとつの音符も見当たらないジュデッカ運河の只中で間断なく聞こえる潮騒は、どこを出自としているのだろうか。答えははっきりしている。楽譜の上段の、網掛けされた島の一角――フルート、クラリネット、チューバの演奏音がマイクロフォンに捕捉され、音響処理を経て変質し水のようになった音――したがってもはや音符ではその形状を書き表せない――が、下段の総休止の連続でスピーカーから出力されるのである。

 

現実のヴェネツィアとは異なり、Omaggio a György Kurtágのヴェネツィアにはたくさんのジュデッカ運河が存在する。17分ほどの演奏時間のなかで、音楽は11ものジュデッカ運河、すなわち総休止の一小節以上の連続を渉る。それらの運河を充たす水のざわめきを生成する回路の概略図がこれだ。

 

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この回路に、音を混淆し液化させる作用が多段にわたって具わっていることをまず確認しよう。

  1. 別々のマイクロフォンで捕捉された4奏者の演奏音がただちに合流して一つになる、この時点で最初の音の混合が生じる。
  2. 3秒の遅延と組み合わされたフィードバック・ループによる音の圧縮ならびに混合。この処理によりもとの演奏音の輪郭や脈絡は大幅に不明瞭化し、3秒周期のうねりを伴う連続的なざわめきの様相を呈するにいたる。
  3. 出力段階で適用されるピッチシフトやバンドパスフィルタが音色を脱色させていっそうの音の非人称化が進行し、
  4. ハラフォンによって空間を水のように流動する性質が音に与えられる。

 

いっぽう、上のフローチャートに書き加えられた記銘や保持、想起の文字は、くだんの回路が音を記憶するはたらきをも兼ね備えた回路であることを示している。Omaggio a György Kurtágのライヴ・エレクトロニクスは、演奏音の入力と加工音の出力とのあいだにしばしば時間差が設けられているのが特色である。たとえば上の楽譜の例だと、エレクトロニクスへの入力終了後、四分音符約12個分、ということは、この間のテンポが「四分音符」=30であるからおよそ24秒の時を経て、ようやく音の出力が開始される。こうした芸当が可能なのは、もちろんこの間に電子回路網のなかで、過ぎ去った音がなんらかの形で記憶されているからにほかならない。

 

さて、いまここに顔を覗かせているのは、ノーノにとっての「記憶と水の親和性」という、新しいテーマである。

 

Omaggio a György Kurtágの記憶回路は、音を水のように変質させる液化回路をそのまま転用したものであるから、ここでの記憶の過程はもっぱら流体力学的な現象である。

 

記銘とは、アルトの声もフルートの音も、クラリネットの、チューバの音も、とりあえずいっしょくたにして電子回路網に放り込んでやること。記憶の保持とは、フィードバック・ループの渦巻きで音を攪拌しながら電子の海に滞留させること。記憶は固定された標本ではなく流れとして、動きのなかで保持される。ここでフィードバックのレベルを100%より減じてやれば、記憶につきものの忘却の再現になる。記憶された音の出力=想起の時点で作用するピッチシフトやバンドパスフィルタ、ハラフォンがもたらす音の変容は、水のようになってぐるぐる渦を巻いている記憶を思い出そうとする=渦を掬い取ろうとする際に避けがたく生じる記憶の攪乱を模したものだとみることもできよう。

 

記憶の海

刻み込むだの灼きつけるだの、記銘だ定着だ固定(consolidation)だのと、やけに手触りの固い言葉でもって語られるかと思えば、習慣的に海と名指されもする(Google "記憶の海" の検索結果 約 317,000 件 - 2014年11月現在)、記憶をめぐる語彙の不思議な二面性。いったいこの記憶というやつは海のものか、それとも山のものなのか。

 

かたさとやわらかさの印象が特殊な共存を遂げている記憶の空間にノーノが降り立ったところを想像してみよう。刻み込まれ灼きつけられ記銘され定着され固定された記憶の標本室に立ちこめるホルマリン臭に辟易してたまらず外へ飛び出し、記憶の海の爽やかな汐の香を求めて彷徨していくノーノの姿が眼に浮かぶようだ。

scopro infatti che gli eventi custoditi nella mia memoria perdono sempre più la loro immobilità ed improvvisamente posso intendere con altre orecchie e con altri pensieri quello che ritenevo già fissato e sedimentato. *1

*

じじつ私は、私の記憶のなかに貯えられていたできごとがその不動性を刻々と失っていくのをみいだしました、そして不意に私は、既に固定され、沈殿してしまったと思い込んでいたものを別の耳で、別の思考で聞くことが出来るようになったのです。

固定されたもの(fissato)を疎んじ流動性(mobilità)を渇望するノーノの性向は、音の世界にあっても記憶の世界にあってもなんら変わることはないのである。ノーノが記憶のテーマに対峙するにあたっての基本姿勢はここにある――どこかに刻み込まれて定着し、それっきり動かなくなってしまうような記憶ではなく、「海」と呼ぶことのできるような、動的な記憶のあり方を模索すること。

 

ノーノが蛇蝎のごとく忌み嫌っている「固定」がどういう事態であるかをイメージするには、記憶を例にとって考えるのがいちばん分りやすいかもしれない。わたしたちの身近にある、すぐれて固体的な記憶のしくみをいくつか思い出してみよう。たとえばデジカメに収められているn枚の写真だとかCDのn個のトラックが、水のように混ざり合いだんだんと別の絵や音に変質してしまうなどということは絶対に起こり得ない。人間が発明した不溶性の記憶媒体のなんという頼もしき安定ぶり、そしてなんと途方もなき退屈さ。そう、安定性と引き換えにして、別のなにかに変化することを可能にする力という意味での文字どおりの可変性を喪失してしまうこと、それが唾棄すべき「固定」の意味するところである。記憶というものを、もはや変わりようのない死んだ過去の標本庫にしてしまわないためには、記憶されるべきものをソリッドにする(consolidation)のではなくリキッドにする、可溶化することを心がけなくてはいけない。上に引用したノーノの発言はそのことを訴えている。なんであれ固まっていたものが溶解していく場面で、不断の変化を告げるaltroという水の世界の形容詞が呼び出されてくる(altre orecchie / altri pensieri)のは、ノーノの語法ではいつもながらのことである。水のように溶けるということは、ノーノにとって均質化への過程である以上に可変性の回復を意味するのだということが、ここからもよく理解できる。

*

Omaggio a György Kurtágは、EXPERIMENTALSTUDIOの音響技術を駆使することで可能となった、記憶の海へのかつてない接近の試みであった。いっぽう下に示したのは、Omaggio a György Kurtágの約5年前にノーノが手がけたはじめてのライヴ・エレクトロニクス作品、Con Luigi Dallapiccolaに既に現れている記憶の海の原型である。

 

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■ 海の眺め 6 Con Luigi Dallapiccola (1979)

 

この作品のライヴ・エレクトロニクスの中核は、メタルプレートの振動音に対するリング変調である。ダラピッコラのオペラIl prigionieroに由来するfa mi do#の三音にそれぞれ調律された3枚のメタルプレートにコンタクトマイクが取り付けられ、プレートの振動が空気を介さずして直接電気信号に変換される。それがリングモジュレーターによって周波数発生器の生成するサイン波と掛けあわされ、二つのシグナルの周波数の和と差の波に分解されて、舞台の両端に据えられたスピーカーから出力される。

 

Das atmende Klarsein以降のライヴ・エレクトロニクス作品に導入されるEXPERIMENTALSTUDIOの技術と比べて、この原始的なライヴ・エレクトロニクスに欠けている要素の第一は、記憶のはたらきであるようにみえる。

 

本人の語るところによると、ノーノがEXPERIMENTALSTUDIOへの初訪問(1980年11月)を思い立ったのは、そこに行けば演奏音に数秒、数十秒のディレイをかけることのできる装置があるとの話を伝え聞いたことがそもそものきっかけであったという。 *2 当時のノーノにとって、音をその場で記憶し、時間差をおいて加工再生する技術は目新しいものだったのである。単純なリング変調の回路自体に入力された音を憶えておく機能は含まれていないので、リング変調をかけているあいだは継続してメタルプレートを振動させ、入力を同時供給してやらないといけない。ところがこの記憶装置としては根本的な欠陥にもかかわらず、ノーノはCon Luigi Dallapiccolaのライヴ・エレクトロニクスの産物を、「記憶のシグナル」の名で呼ぶ。

...e applicandosi alle lastre di metallo, che riproducono le tre note del Fratello ne Il prigioniero, questo procedimento genera una ondulazione dinamizzata nello spazio. Per cui tu senti lo spettro semplice del suono originale che diventa, attraverso il modulatore ad anello, un suono complesso e si tratta, a mio avviso, non solo di un'amplificazione acustica ma di qualcosa di simile ad un segnale della memoria che si propaga nello spazio amplificandosi. *3

*

Il prigionieroのFratelloの三音を発するメタルプレートに適用されることによって、この音響処理は、空間に活性化された波のうねりをつくりだします。原音の単純なスペクトラムが、リングモジュレーターをとおして複雑な音響になるのが感じられます、思うに、それはたんなる音響の増幅ではなく、増幅しつつ空間を伝播していく、なにか記憶のシグナルのごときものなのです。

ノーノが言わんとするところを知るためには、「記憶するとはなにかをソリッドにするのではなくリキッドにすることである」という先の論点を思い出してみればよい。EXPERIMENTALSTUDIOの擁する高度な音響処理機構ほど劇的ではないにせよ、リング変調の回路にも、そこをくぐり抜けた音を「水っぽく」変える作用がある。もともとかなり噪音的なメタルプレートの音がリング変調によっていっそう噪音に近づき、形状がいよいよ曖昧化して、水のように不断に移ろう流動体(ondulazione)の印象を帯びてくる、その質感の変化にノーノは、いま目の前にある揺るぎない現実の陸地に対するところの、記憶の海の仄暗いゆらめきへとつうじる気配を感じとっているのだ。

 

そしてその水のごとき記憶のシグナルは「空間を伝播する」、とノーノは言う。そういえば同様のことを、ノーノは前に引用したベッリーニのオペラ『ノルマ』についての寸評のなかでも口にしていた(「altri suoni sgorganti dalla memoria=記憶から流れ出した別の音」)。ただこれだけでは断片的すぎて意味がよく分らないので、上の言葉に仄めかされているノーノの考えがより具体的に表明されている別の発言も聞いてみよう。 

私自身は全く空っぽで、私の空間も空虚です。砂漠のようなものといいましょうか。砂漠というのは孤独のモメントではなくて思惟のモメントです。(……)私は空っぽで、私の精神や思考はどこかに在って、それが戻って来るときに何か違ったものを持ってくる。 (……) 何だかはまだわからないが、何かが響いて来るのを待つ。自分の記憶、自身の中のこだま、知識。意識しているといないとにかかわらず……。 *4

 

ここで示唆されているのは、記憶も含めたわたしの心的世界の現象がわたしの体のうちそとを行き来するという、いま風に言えばクラウドを彷彿とさせるような心のモデルである。ノーノの記憶が神経系のしかじかの部位に牡蠣のごとくはりついて固着してしまうような静的な記憶でないのは自明のことである。だがそれを、「外から隔絶された自身の内面(intimo proprio che differisce dall'esterno)」 *5 で波打つ「内なる海」だというだけではどうやらまだ不十分なようだ。記憶の海の水は、汗や涙や尿や唾液といった他の体液と同様に体の外に流れ出し、空間を拡散すらしていくのである。Con Luigi Dallapiccolaではこの内→外の動きが、メタルプレートのそのままではよく聞き取れない「内的な」波動が最終的にスピーカーから外界に放出され、ホール全体に波及していくという、まだハラフォンなんてものには接していなかった当時なりのシンプルな方式で再現されている。

これは奇抜な発想というべきだろうか。いやむしろ逆で、記憶が水のように流動するものならば、それが決まった枠のなかに大人しく収まっていると信じることのほうがおかしなことなのである。だがそれにしても、ノーノはこの「さすらう記憶」のイメージを果たしてどこから得たのだろうかと考えたとき、またしてもありうべきルーツとして浮かび上がってくるのは、ヴェネツィアの音響体験である。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 46

*2:Ibid., p. 63

*3:Ibid., p. 59

*4:高橋悠治との対談(『高橋悠治対談選(ちくま学芸文庫)に収録)での発言

*5:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).