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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の上 2/9

怪物の棲む海への小旅行、のつづき

D ライヴ・エレクトロニクス

ここまでの内容は、Guai ai gelidi mostriの海に関するまだ7割ていどの説明でしかない。以上の三要素にさらにライヴ・エレクトロニクスが加わるのである。

 

なんでもかんでもアップロードされることで有名なYouTubeには、Guai ai gelidi mostri全曲の演奏風景を収めた魅惑の動画もあがっている(削除されていなければGuai ai gelidi mostriで検索するとヒットする)。それをひらいてみてすぐ気がつくのは、ステージに段差がつけられていることである。弦楽トリオが一番低い位置にいて、二人のアルトが中間の位置、4人の管楽器奏者(通常は3人で演奏されるがこの動画は1人多い)が一番高い所にいる。これはスコアの指示どおりのセッティングだ。

 

航海のための布置:

弦を弾く人の座は地上から20cmの高さに、

(弦は海なのであるから最低層を占め、

歌を歌う人の座は60cmの高さに、

(歌手は船の甲板に立ち、

管を吹く人の座は100cmの高さに設置すること。

(管は帆柱の風の通い路をわが住処とする。

 

だがこの空間的関係は、それぞれの奏者ごとに割り当てられたマイクロフォンから取り込まれた演奏音が電子処理を施されたのち、会場に分散配置された10台のスピーカーから出力される段になると、大きく再編成される。

 

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ライヴ・エレクトロニクスの音響処理回路は弦、管、声のモジュールに分けられているが、特に声のモジュールの独立性が高い。会場の中央に立てられた、もしくは中央部の天井から吊り下げられたL9とL10の2台のスピーカーは、声の出力に特化したスピーカーである。これらは音の伝播する方向が上向きとなるよう設置されているので、空間に放たれた歌声――リバーブのみのシンプルな音響効果が加えられている――はいったん天井に反射して、空のほうから下方に拡がる弦の海へと陽光のごとく降り注ぐ仕組みになっている。

 

その弦に対する音響加工の基本的語彙は、フィードバックとハラフォンである。3秒もしくは8秒のいずれかのディレイと組み合わされたフィードバック・ループによって、生の演奏音の線的な流れが機器の内奥で円環状に圧縮/混合され、短波長(3秒)と長波長(8秒)のふたとおりの周期でうねる、連綿たる波のしらべが生成される。出力の際にはハラフォンが、L1→L2→L3→L4→L1の流路を3秒かけて一周する時計回りの速い流れと、L8→L7→L6→L5→L8を9秒かけて一周する反時計回りの遅い流れの2種類の海流を空間に描き出していく。このほかに、ローパスフィルタが弦に適用されることがある。フィルタ使用の意図について、ノーノは創作メモに「倍音を除去するため」と記している。弦の奏でる潮騒はローパスフィルタをくぐることによって、たとえ倍音の全カットとまではいかないにしても顕著に音色を漂白され、沖合いのような遠さのオーラを身に纏うようになる。

 

付記2

Guai ai gelidi mostriの弦楽三重奏の海は、スコダニッビオの編み出したarco mobileの技法ともどもPrometeoに継承されている。旅のついでに少し足を延ばして、Guai ai gelidi mostriの海とは瀬戸内海と太平洋のような関係にある、Prometeo第1島(Prima Isola)の海もチラ見しておこう。

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■海の眺め 2 Prometeo. Tragedia dell'ascolto (1984/85) - Prima Isola

 

いま目の当たりにしているのが、海があってその中に陸地が点在してという群島の構図とはまったく異質の世界であることに注目しよう。これは、見わたすかぎりの陸地と見わたすかぎりの大洋が、ありうべき二つの世界として二重刷りのように併存している光景である。楽譜の上側の、13×4=52段で書き表された(上の写真には一部のみ写っている)4群のオーケストラが、その頂にプロメテウスのつながれたコーカサスの岩山の風土を思わせる、起伏に富んだ、しばしば苛烈な音景を表出していくその一方で、下段の弦楽三重奏は、arco mobileによる静謐な海のドローンを、Prima Isolaの全篇をとおして終始平らかに奏でつづける。両者の小節線のずれは、陸と海とが空間的には重なり合いながらも、異なる時間体系に属していることを物語っている。陸の緩急まちまちな時間に対して、弦の海を流れる時間は最も遅くかつ常に一定である。そのテンポが「四分音符」=30であることは、ノーノの海に慣れ親しんでいる人にとっては言わずもがなの常識である。ノーノ的海洋地理のエッセンスが凝縮されたPrima Isolaの海へは、いずれもう一度ゆっくり訪れる機会があるだろう。

 

別の音で充たされた沈黙

杓子定規な整理。「沈黙の海に浮かぶ音の島」という常套句より、

沈黙 = 海 (1)

音  = 島 (2)

「ノーノの音楽のそこかしこに音の海がひろがっている」ことから

海 = 音 (3)

(1) と (3) より

沈黙 = 海 = 音 (4)

そこにおいて音と沈黙の区別が消失する場としての海、という図式。さらに間に挟まっている海を取っ払うと、

沈黙 = 音 (5)

となって、「沈黙もまた一種の音である」という、わりといろんなところで聞き覚えのある文句が浮かび上がってくる。ノーノがこの言葉をスクリャービンからの引用として口にしたのは、ヴィンチェンツォ・ベッリーニのオペラ『ノルマ』についての寸評の中でのことだった。

Per esempio nel Preludio della Norma le corone bloccano i suoni dell'orchestra; le batture vuote, che di solito non vengono rispettate, introducono silenzi improvvisi che non sono il vuoto, ma un silenzio denso di altri suoni sgorganti dalla memoria, dall'orecchio, da un comporsi improvviso di segnali acustici circostanti. Skrjabin diceva che <<anche il silenzio è suono, ci sono opere musicali che si basano sul silenzio>> ... *1

*

 たとえば『ノルマ』の前奏曲では、フェルマータがオーケストラの音を堰き止めます。通常は重んじられることのない休拍が不意の沈黙を招き寄せる、その沈黙は空っぽなのではなくて、記憶から、耳から流れ出た別の音で充たされた沈黙、周囲の音のシグナルの不意の重なり合いからなる沈黙なのです。スクリャービンは言っていました、「沈黙もまた音であり、沈黙をもととしてつくられた音楽作品が存在する」……

さてこの発言は、「沈黙の海に浮かぶ音の島」というおなじみの群島の図に、最低限付け加えておかなければならないある重要な要素にノーノが言及しているという点で、たいへん注目すべきものである。ここで言う『ノルマ』前奏曲の沈黙とは、冒頭付近に3度現れるフェルマータ付きの休止のことで、下の譜例はそのうちの一つである。

 

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発言内容の大枠を整理しよう。まずはじめに、オーケストラの音の流れを堰き止める(断ち切る)という人為的操作によって、音と音のあいだに、ふつうは沈黙の名で呼ばれる空隙が生じる。ところがノーノはそこに別の流れを、「空間に流れ込んで空虚であることを許さずこれを充満する」別の音の流れを感受する。その流れによって、沈黙と呼ばれていた空隙は、島々のあいだの空間を水が充たすように、「別の音」で充たされていく。un silenzio denso di altri suoniというのが、したがって全文のもっとも簡潔な要約である。

 

ではその「別の音」とは何処からきたものなのか。簡単にひとくくりにして言えば、空隙の周囲に点在するもろもろの島(のようなもの)が流れの源である。「島」の具体的な内訳としてまず思い浮かぶのは、上の楽譜でフェルマータ付き休符として描かれている沈黙の海を取り巻く音符の島である。ただこれだけでは、sgorganti dalla memoria, dall'orecchioのくだりを説明することができない。このちょっと変わった表現は、どうやらこういうことを言っているようだ――「沈黙の海のほとりに佇ってこの音楽を聞いている聞き手の記憶から、耳から音が海へと流れ出していく」。記憶から、耳から音が流れ出すとはどういう事態を指すのかおおいに気になるところではあるが、それについての詳細はより議論が進んだ段階でふれることにしよう。さしあたっていま必要なのは、島から海のほうへと向かっていく音の流れが存在するという基本的な認識である。

 

母なるジュデッカ運河のほとりで

「別の音で充たされた沈黙」と聞けば、誰もがジョン・ケージのかの有名な沈黙の概念を多少なりとも連想するのではないかと思う。ケージを意図された音に対するところの意図せざる音に満ちた沈黙の発見へと導いたのがハーバード大学の無響室だとすれば、それに相当する啓示をノーノは何によって得たのか。おそらくはヴェネツィアの「水のおしえ」によってである。

 

... sofferte onde serene ... の項で書いたことの繰り返しであるが、ノーノがヴェネツィアの戸外の音風景について語っている発言をまとめて読んでみると、

1 ... sofferte onde serene ... に寄せた文章より

ヴェネツィアのジュデッカにある私の家には、様々に打ち鳴らされ、いろいろなことを告げる、種々の鐘の音が、昼となく夜となく、あるいは霧の中を通って、あるいは日の光と共に、絶え間なく聞こえてくる。それらはラグーナの上の、海の上の、生のシグナルである。 *2

 

2 カッチャーリとの対話より

鐘の音がさまざまな方向に拡散していきます――あるものは重なり合い、運河に沿って水により運ばれていく、別のものはほとんど完全に消えてしまう、また別のものは、ラグーナや街のほかのシグナルと、さまざまなかたちで混ざり合います。 *3

 

3 ベルリンとヴェネツィアの音環境を比較して

ヴェネツィアでは)もっと高い音のスペクトラムを感じます――リバーブによって、鐘同士のエコーによって、別の音によって、またそれらの音が水の上を伝播していくことによって。 *4

 

4 フライブルクの黒い森の音響空間やベッリーニの歌曲について語るなかで

ヴェネツィアと同様に、そこでは音にエコーが、リバーブがあり、音がどこではじまり、どこで終わるのかを知ることができません。 *5

 

5 1985年の講演より

ヴェネツィアの、ジュデッカの一角で、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島で、サン・マルコの船着場の水の鏡面で、金曜の7時ごろに聞こえてくるのはこのうえなく美しい音風景です。それはまさしく魔術です。鐘楼から何かの古い宗教的なシグナル(晩課やお告げの祈り)が打ち鳴らされる、するとそれらの音にリバーブが、エコーが重なりあい、どの鐘楼から真っ先に音が届いたのか、水の反射面の上をあらゆる方向に四散する音の交錯が、どのように、どこで密になるのか、もはや分からなくなります。 *6

いつでも話題の中心にあるのは、ヴェネツィアの島と島のあいだの、運河の水の上の空間で鳴り響く音のことであるのが分かる。それではノーノがこういう話をしている時、脳裏に思い描いているのは主にヴェネツィアのどの運河か。

 

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↑だとか、

 

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↑のような、いかにも「ザ・ヴェネツィアの運河」といった趣の絵はがき的情景を差し置いて真っ先に挙げるべき場所は、

 

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そう、ここである。河というよりは海峡や水道といった呼び名のほうがよっぽど似合いそうなこの大きな運河の名は、ジュデッカ運河。

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白地図は矢島翠『ヴェネツィア暮し(平凡社ライブラリー)』巻頭のもの

 

地図上のA地点、ノーノ生誕の地であり終焉の地でもあるザッテレの岸辺の家と、B地点、1950年代以降ノーノがながらく住んでいたジュデッカ島の家を二大拠点とするノーノの生活圏のど真ん中に横たわる水域、それがジュデッカ運河である。上の発言5に出てくる2つの具体的な地名、サン・マルコ(C)とサン・ジョルジョ・マッジョーレ(D)も、ともにジュデッカ運河とその周辺に位置している。 

 

ジュデッカ運河のオンリーワンぶりは、こうして地図を見れば一目瞭然である。リオ(rio)と呼ばれる毛細血管のような小運河がたくさんの16分休符や8分休符で、ヴェネツィアの大動脈として有名なカナル・グランデが2分休符だとすれば、外洋からやって来る超大型客船でもやすやすとひと呑みにしてしまう消化管クラスのジュデッカ運河は、ヴェネツィアでもただ一箇所ここだけに出現する、全休符の数小節にわたる連続だ。クロダイみたいな背の高いのと、ボラみたいにすらっとしたの、伴泳する2匹の魚のようなヴェネツィア本島とジュデッカ島の配置が産み出した、幅約400mの絶妙なスペースは、ザッテレで生まれ、ジュデッカ島で暮らし、再びザッテレで生涯を閉じたノーノにとっての海の原イメージであり、ひいては沈黙の原イメージでもある。

 

そのジュデッカ運河のほとりでノーノが日々観察していたのは、一言で言えば流れである。運河の岸辺に佇って観察できる流れといったら誰もが思い浮かべるのは運河を流れる水のことだが、ノーノが感じとった流れとはそれではなくて、陸のさまざまな方角から、運河の水の領域へと拡散していく音の流れである。この流れが、ベッリーニの『ノルマ』についての談話のなかでノーノが言及していた音の流れと相同であることは言うまでもない。

 

ノーノの沈黙を考えるにあたっては、「沈黙の海に浮かぶ音の島」という常套句を、まったく字義どおりのものとして受け取ることが大切である。すなわち、沈黙は海であるということ。言い換えると、ノーノの沈黙はがらんどうではなく、底に水を湛えた沈黙だということである。水の存在が音に及ぼす物理的影響を考慮しなくてはいけない。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 16

*2:イタリア語原文はFondazione Archivio Luigi Nonoの作品リスト中に掲載されている。Deutsche Grammophon日本盤CD解説中の日本語訳(庄野進訳)を一部改変。

*3:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*4:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 70

*5:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono. [pdf]

*6:Luigi Nono (1985) Altre possibilità di ascolto.