アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 16/16

遠い音

再びPrometeoのIsola Primaの譜面に目を向けてみよう。Isola Primaはノーノ的世界観の忠実な反映である。併存する二つの世界――この日常の陸と、あの別の海。阿呆船は下層に延々とつづく弦楽三重奏の大海原を渉っていく。その上に聳え立つオーケストラの大地には、コーカサスの岩山の「縛られたプロメテウス」の日常がある。

 

Isola Primaのプロメテウスのモデルは、リブレットに直接の引用こそされていないものの、ゲーテの詩のプロメテウスである。天の方角をしかと見据えて、ゼウスの暴虐にゼウスの鏡像をみるような雄々しい「力の言語」 *1 で立ち向かう、敢然たる抵抗者としてのプロメテウス。

濛々たる煙霧をもって ツォイスよ

お前の空を覆え

薊の首をむしる少年のように

槲の梢にまた山巓に

ほしいままにお前の力を振え

だが然し この大地は俺のものだ

お前の干渉は許さぬ

お前が建てたのではないこの家

またそこに燃える火ゆえに

お前が俺を嫉視するこの竈にも 一指をも触れてはならぬ

(……)

俺はここを動かぬ

俺はここに坐って

俺の姿を似せて人間を創る

俺と同じ種族をだ

悩むことも 泣くことも

享楽し 歓喜することも

お前を崇めぬことにおいても

一切俺と同じ種族をだ! (山口四郎訳)

間歇的に炸裂するオーケストラの激烈な強音が、果たしてゼウスが天から振り下ろした裁きの雷なのか、プロメテウスが地上に燃え上がらせた反撃の炎なのかの見分けもつかない「ゼウスとプロメテウスの内戦」 *2 の舞台に、どこか遠くから別の声が聞こえてくる。「アスコルタ、聞きなさい、あなたもまた、妬み深く困らせ好きな新しい主のようではないですか?」――ノーノがCoro lontanissimoと名付けた合唱が歌うMitologiaは、ゲーテの「プロメテウス」に向けられた批判的なコメントである。そしてまた、荒ぶるプロメテウスの耳にきれぎれに届く、遠い弦の海のかすかな潮騒。「別の altro」と並んでノーノの世界観を特徴づけるもうひとつのキーワードは、そう、「遠い lontanissimo/lontano」である。

 

「これは遠くから聞こえてくる音である」旨の但し書きをノーノの後期作品の譜面上で目にする機会は少なくない。たとえばRisonanze erranti全379小節の道のりには、じつに計13箇所の「遠い音出没注意」の標識が立てられている(lontanissimo 11箇所、lontanissime 1箇所、 lontano 1箇所)。

 

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その一例

 

ちなみにノーノは、EXPERIMENTALSTUDIOのスタッフ宛に書き送った手紙のなかで、Risonanze errantiの「こだま」全般の音響的性格についてこう記している。 *3

immer von draußen, immer von anderer Seite
常に遥か遠くから、常に別の側(クビーンの小説の邦題に倣えば「裏面」か)から

 

「遠い」とは、では具体的にどこのことか。PrometeoのIsola Primaの弦の海が、コーカサスの山岳地帯からはたしかに遠く離れている地中海やペルシャ湾や紅海のような現実の海を模したものでないことは明らかだろう。ノーノの「遠い音」の主成分は、いつでも(時間的にも)どこでも(空間的にも)二重層をなしている世界の地(あの別の世界)から図(この日常の世界)へと、非物理的な距離を渉ってきた音である。日常の背後に別の世界が、「裏面」があるという世界の二重性の意識が、ノーノの中に遠さの意識を産んだと言っても過言ではない。

 

系譜はさらに続く。altroから産まれたlontanissimoは、frammentoという名の子を産むのである。

別の → 遠い → 断片

 

和風に言えば遠山さんや遠藤さんみたいに、「遠い」の字を名前に含む音がPrometeoには4種類出てくる。

Coro lontanissimo
Isola Primaに 6 度挿入される 2、2、4、6、6、3 小節の断片

Ricordo lontanissimo
Stasimo Primoに 4 度挿入される 3、2、1、3 小節の断片

Ricordo lontano (Eco)
Tre Voci a に 6 度挿入される 2、1、3、3、2、2 小節の断片

Eco lontano (dal Prologo)
Terza/Quarta/Quinta Isola に 6 度挿入される 3、4、3、7、5、3小節の断片

 

以上4分派の遠音一族に共通する断片的性格は、遠さがもたらす効果のひとつである。長い距離を渉ってきた音はおしなべて減弱する。減弱した音はより近くて強い音が発せられるそのたびにかき消されて、途切れ途切れのきれっぱしとなって耳に届くようになる。要するに、連続性は距離に濾されて断片性へと変質を遂げるわけだ。

 

ノーノにおいて、島型ではなく穴型の断片が重視されるべき大きな理由がここにある。ノーノの作品世界には、遠さによって断片化を遂げた音が多産するのである。無辺際の海原が距離により断ち切られて偽りの皮膚を纏う。遠さには水さえをも(擬似的なやり方ではあるが)断片化する力がある。遠い断片はしたがって必然的に、島ではなく穴のイメージをもって迎え入れなくてはいけない。空間や時間のあちらこちらに穿たれた穴を想うこと。そして、穴の向こう遠くにひらけているはずの、ひとつづきの広大な世界を脳裏に再現してみること。

 

ステップ1、ひとつの広大な連続性が、遠さの作用を介して、いくつものささやかな断片性へと変換される。ステップ2はステップ1のまったくの鏡像で、いくつものささやかな断片性が、穴のイメージを介して、われわれひとりひとりの裡でひとつの広大な連続性へと逆変換される。「ちりぢりに砕けた鏡(ムージル)」の復元作業はこれで完成である。

 

ステップ1、ひとつの広大な連続性が、遠さの作用を介して、いくつものささやかな断片性へと変換される。つづくステップで、いくつものささやかな断片性を、島のイメージによってその場に凝固させる。これは、遠さが変質させた状態の不可逆的な固定化である。断片=穴がその両側に招きよせる対称性を断片=島は抑制するのだ。穴が開いた眼だとすれば、島は閉じた眼である。

 

次回予告

ノーノの別の世界に拡がっているものは、必ずしも常に一面の海であるとは限らない。カッチャーリに薦められて *4 1984年ごろに *5 はじめて読んだエドモン・ジャベスに傾倒して以降は、海が砂漠に変貌することもある。ジャベスの砂漠でノーノはあるものを発見した。別の遠い砂漠、もしくは海へアクセスするための手段をひとことで呼び表す言葉である。次回はその言葉、subversion(転覆)についての話題から。

*1:Massimo Cacciari L'étroite bande de terre. [pdf]

*2:Ibid.

*3:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 184-185.

*4:Nils Röller (1995). Vorwort. In: Edmond Jabès, Luigi Nono, and Massimo Cacciari. Migranten. Berlin: Merve: 7-17, p. 11.

*5:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 160.