アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 14/16

無限性検査

ノーノの作品世界において30が青色だというのは、単純な比較から導き出される結論である。

 

■たくさんの小さな穴をとおして、ひとつの同じ海を見つめている。

  • 青い海
  • そのひとつの海の上に、浮島のように、船のように点在する、二十いくつかの小片(pieces)
  • おのおのの小片(a piece)の下方にひらいている、多数の小さな穴
  • その穴の個数だけ回帰してくる青色

■たくさんの小さな穴をとおして、ひとつの同じ海を見つめている。

  • MM = 30の海
  • そのひとつの海の上に、浮島のように、船のように点在する、二十いくつかの作品群(pieces)
  • おのおのの小片(a piece)の下方にひらいている、多数の小さな穴
  • その穴の個数だけ回帰してくるMM = 30

 

ゆえに、30=青色。先ほどまで長々と述べてきたように、私はノーノの30が、ブルーであるだけでなくブルーノの徴でもあると信じている。30の青い水で充たされた海は、ブルーノ的な空間――すなわち、ひとつの連続した無限空間――のモデルであって然るべきである。巨大なるPrometeoを優に包み込んでいるMM = 30の海の広大さが、果たして「無限」と呼ぶに値するほどのものなのかを、ブルーノの名にかけて検証しなくてはいけない。

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『動物の錯視』27頁の図を再び眺めながら、まずはアモーダル補完なきハト派の世界に思いをめぐらせてみる。本のなかでは白と灰の見え方についてしか書かれていないけれども、灰が図(c)のように見えるからには、おそらく黒も、見かけどおりのえらく複雑な輪郭の物体だと思ってハトは見ているのだろう。補完しないということは、現に見えている形がそのものの本来の形に正確に一致するということである。ものとものとの境界を、それぞれがおのれの輪郭線として仲良く分け合い各自の持ち場におとなしく収まっている、領土侵犯のようなキナ臭い有事とはいっさい無縁の、このいかにもハトらしい平和な世界に、無限へとつうじるおおいなる扉がひらく徴候は一向に見当たらない。アモーダル補完のないハト型群島モデルは実際のところ、海によって限界づけられた島と、島によって限界づけられた海の2種類の有限性が同一平面上に住み分けている状態を示したモデルと言うべきなのである。島の存在が、海の無限性をあからさまに損なっている。島々をその只中に鏤めた海は、広大ではあっても明らかに無辺ではない。

 

アモーダル補完はこの問題の解決を、世界に奥行きをつくることによって図ろうとする。みたび『動物の錯視』の図を、こんどはヒトの目線で眺めてみよう。灰が白の下にあるように、黒は白と灰の下にあって、白、灰双方の背後で補完される。その結果、われわれは黒を、白と灰で中央部を隠された、三色のなかで最大の四角形として認識する。ヒトの眼のなかで黒の領域は、ハトが見ているよりも大きな広がりを得るわけであるが、大きいとは言っても、『動物の錯視』A5判の紙面に余裕で収まるていどのものである。だがここで視点を切り替えて、黒を白い紙面の上に置かれた物体ではなく、紙面に空いた穴であると想像してみる。そう難しいことではないはずである。「穴だ」と認識できた途端、『動物の錯視』27頁の紙面の裏側にひろがる漆黒の果てしない空間が透視されるようになる。地が図に輪郭線を譲り渡して図の背後に滲みひろがっていく、液化作用に似た図地関係の連鎖の涯、視界のもっとも遠い奥処に、もはやいかなる辺によっても規定されずとめどなく拡がる(無限の)空間を出現させる/させてしまうこと。これが穴というものの「恩寵と呪い」である。

 

有限から無限を産むかにみえるこの錬金術のからくりはいたって単純である。世界を高層化する。そして邪魔な物体はすべて上の階に押しやり、一階をワンフロア丸ごと「無限」専用の貸切スペースにしちまおうというのが、アモーダル補完の基本戦略である。形あるものが点在する図の層と、形なきものが遍在する地の層の厳然たる区別を前提として成立する無限。だがこれは裏を返せば、地の層を充たしている掛け値なしに広大無辺の海は、図の層に向かってたった一滴の波しぶきをひっかけることすら許されていないということでもある。

 

どうもうさんくさい。これって結局、ハト型群島モデルでは横方向に住み分けていた島と海を縦に並べ直しただけなんじゃないのか。渚から見はるかすにしろ、穴から覗きこむにしろ、何者かによって外側から眺められる対象物を無限と呼ぶのは、そもそも語義矛盾というやつなんではないか。

 

と、俄かに不信感が募ってきたところで、今まで眺めていた『動物の錯視』を脇に置き、新しい本を手に取る。『英雄的狂気』――ジョルダーノ・ブルーノによる、この熱く厚い一冊を通読すれば気がつくだろう、ブルーノが「無限の対象」あるいはそれに類する表現をさかんに口にしていることに。

 

その『英雄的狂気』の第一部第五対話でブルーノはこう言っている、「なぜならば、神は近くに、われわれとともに、われわれの内にいるのですから」。 *1 ブルーノの語彙のなかで「神」の語は「無限」とほぼ同義であるから、この一節は次のように読み替えることができる。

無限は近くに、われわれとともに、われわれの内にいるのですから

 

「近くに」を、「われわれとともに」「われわれの内に」と二度にわたって上書きする、このいささか回りくどい言い回しから読み取るべきなのは、「準備運動もなしにいきなり冷たいプールに飛び込んではいけませんよ」などといった学校の先生の台詞にも似た、すぐれて現実的なアドバイスである。無限という途方もない存在へは 一歩一歩、段階を踏んで接近を試みるのが筋だとブルーノは言っているのである。無限がわたしの内にいるのだということ、つまり、わたしは無限の外側に立っているのではなく、わたし自身もまた無限なるものを構成する一要素なのだということをしるためには、無限を対象としてしかと見据えるところからまずはじめなくてはいけない。一個の限りあるものが限りのないものに対峙しているという構図は、たしかに無限についてのいまだ不完全で不正確な描像ではあるけれども、無限との合一という究極点へと向かう長く困難な道のりにあってはそれも必要な通過点だ、というのがブルーノの立場である。PrometeoのIsola Primaを出発点としてそこから徐々に視野をひろげることで見えてきた穴の向こうの大海原は、無限への旅路のいわば玄関口の光景である。ブルーノの提示する、「無数の諸世界を群島のように鏤めた無限の宇宙」の空間モデルは、アモーダル補完のないハト型群島モデル、アモーダル補完のあるヒト型群島モデルのいずれとも若干異なっている。コロンブスの卵のように単純だが効果覿面なある設計変更によって、二者のモデルがそれぞれに抱えている無限性からの乖離はワンステップで解消されるのだ。

 

そのモデル――「水浸しの島」モデル――のことは、後ほど詳しく紹介するとしよう(「後ほど」とは、この後すぐにということではなく、今からたぶん半年ぐらい後という意味)。

 

群穴性

この世に島と穴という二種類の断片が存在し、一方に群島性という概念が息づいているのならば、他方について群穴性なるものを考えることもできるだろう。

 

群穴性、その模範的実例。ムージルは言う、「人類の全歴史にわたって、ある二分法が貫き通っている」 *2 のだと。人間の二つの精神状態、人間の感情の二つの在りかた。手短かに言えば二つの世界。その対をムージルは、1925年のエッセイ『新しい美学への端緒』の時点で「通常の状態」と「別の状態」と呼んでいた。「通常」と「別」の対が示唆する関係性は明らかに非対称的だ。南極と北極のような両極性の構図ではなく、中庸と極地、日常と非日常の関係。実際ムージルは同じエッセイのなかで、通常の状態を「中間的な」 *3 と形容している。となると興味を惹かれるのは、われわれの通常の立ち位置に、常ならざる別の状態がどのように現れてくるのかということである。「透けて見える」のだ、とムージルは言っている。

世界はそのあるがままの形において、ありえたかもしれぬ、あるいはそうならねばならなかったもうひとつの世界を、到る所で透かして見せている *4

*

一定の感情は、少なくともそれが「放射する」、「襲う」、「それ自体から作用する」、「膨張する」、あるいは、外的運動なしに世界に「直接」働きかけると言える場合には、その中に必ず未定の感情の特色が透けて見えるのである。 *5

※「一定」と「未定」は「通常」と「別」の対におおむね対応する

日本語訳でともに「透けて見える」となっている動詞は、原文を辿ると前者がdurchscheinen、後者がdurchblickenである。ドイツ語の辞書を引いてもよいが、ここはネットの世界ですっかり通常のツールとなった画像検索を試してみよう。durchscheinenでは日本語独特の表現で言うところの木漏れ日の情景が、durchblickenでは洞窟の開口部や紙の筒やレンズをとおして向こう側の風景を覗き見ている図が、何枚も出てくる。要するに、ムージルは「穴」を思い描いているのだ。

 

別の状態の断片的性格にムージルが言及することがある。 曰く、「周知のようにこの状態(別の状態)は――病的なコンディションを除外すれば――けっして永続しない。これは仮説的境界事例であって、われわれはこれに接近しては、繰り返し通常状態に帰還する」。 *6 あるいは、別の状態は「あまりにもすばやく逃れ去ってしまう」。 *7 これらの発言を、別の状態そのものの断片性を述べた言葉だと単純に受け取ってはいけない。のちに『特性のない男』のウルリヒによって与えられた「海」の形象が物語るとおり、別の状態はまさしく大海原のように、空間的にも時間的にも遍在するのである。ムージルが指摘しているのはあくまでも、通常の世界から別の世界に向かってひらいている個々の穴はおしなべて小さなものだ、ということである。

 

ムージルを読む体験は、海沿いの、けれども山がちな土地を旅するのに似たところがある。木立の向こうにチラチラと垣間見える海のように、「似たようなことが起こる」平凡な日常のそこここに「別種の生活の断片」 *8 が明滅している――それがムージルの作品世界の基調をなす眺望である。ムージル自身の言葉で言えば、「あの恍惚の生(…)を映す鏡は散りぢりに砕けて日常の生の中に隠見している」。 *9 つまりわれわれは別の状態を、ほんのささやかな「日常性の中断」 *10 として断片的に体験するすべしか持ち合わせていないのだが、それにもかかわらず、とムージルは言う、「にもかかわらずわれわれには、これらの『中断』を『ある別の全体性』の諸断片、ある体験行為の構成要素と見なす傾向があるのである」。 *11 ここに表れているのはまたしても島ではなく穴のイメージだ。というのも、多数の断片性を補完してひとつの連続性(全体性)へと変換する回路は、断片が穴として認識された時にしか作動しないからである。

*1:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、149頁

*2:ムージル「新しい美学への端緒」、早坂七緒訳、『ムージル・エッセンス』、中央大学出版部、57頁

*3:同上、69頁

*4:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「庭の鉄格子の特命(草案)」

*5:同上、「ウルリヒと二つの感情の世界」

*6:「新しい美学への端緒」、73頁

*7:大川勇『千年王国を越えて:ムージルの『特性のない男』における〈別の状態〉の行方』、37頁 [pdf]

*8:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「一連のふしぎな体験のはじまり」

*9:「新しい美学への端緒」、69頁

*10:同上、71頁

*11:同上、71頁