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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 11/16

Risonanze erranti

「ブルーノ=ノーノの海」縁起、つづき

第四層 Caminantes no hay caminos hay que caminar

長女のSilviaさんとともに行ったスペイン旅行の途次に立ち寄ったトレドの修道院 Monasterio de San Juan de los Reyes の壁にノーノが例の言葉、Caminantes no hay caminos hay que caminarをみつけたのは1985年のことだとする文献 *1 *2 と、86年だとする資料 *3 がある。いずれにせよ、84年9月のヴェネツィアでのPrometeo世界初演よりは後のことで、翌年9月のミラノでの再演の少し前か、もしくはちょい後である。

 

Silvia Nono談 *4 によれば壁に書かれたただの落書きだというこの言葉がノーノの心を電撃的に捉えたのは、これに先立つ10年ほどのPrometeo制作の日々をとおして、漂泊者とその旅のありかたについて考えを深めていった、一層から三層までの蓄積があったからこそである。Restagnoのインタビューで語っているとおり、ノーノはそれを航海の心得として受けとった。no hay caminosという前段の文句は、だから少なくともノーノにとっては、道がある(yes)か、もしくはない(no)という固定された二分法が罷り通っている陸上における、「道がない」ほうの絶望的光景を指しているのではなくて、可能な経路(possible)が無限にあってあらかじめ固定された「道がない」海の上の不安な情景を表しているのである。終わりなき探究(ricerca senza fine)のモットーは、だから時にはinquietudine senza fine *5(終わりなき不安)と言い換えられることもある。

 

いっぽう後段のhay que caminarに関しては、ノーノが1980年に話していた言葉をそのまま注解として聞くことができる。「常になにかを探しつづける漂泊者であって、型にはまった図式や目標を与える者ではない。漂泊者はそうやって歩いていかなくてはいけない」――まるで未来のスペイン旅行からタイムワープして帰ってきたノーノがしゃべっているかのような台詞ではないか。これを前半の大海原の情景と組み合わせてみれば、「無限なものは無限に探究すべし」の飽くなき熱意をもって果てしない世界の広がりを渉猟しつづける、能動的なブルーノ主義者の標語が浮かび上がってくる。

 

トレドの壁の言葉におおいに感銘を受けたノーノは、その文言を三つに分解して表題に織り込んだカミナンテス三部作の構想を練り、第一作Caminantes...Ayacuchoの歌詞にブルーノの詩を選ぶ。

 

Caminantes...Ayacuchoは1987年4月25日に初演されたが、この曲のそもそものルーツはじつはずっと古くて、ミュンヘン・フィルから委嘱の手紙が届いたのは1982年(手紙の日付は2月26日)のことである。当初の締め切りは1984年11月末だった。おそらくはPrometeoの制作で手一杯だったため、それが遅れに遅れて1985年の初演予定が86年になり、その刻限も過ぎた87年の4月7日にようやく曲が完成して、同月末の初演に漕ぎ付けたのだった。

 

この作品にブルーノの詩を使おうという考えをノーノはいつごろから抱いていたのだろうか。委嘱を受けてすぐの82年春にノーノが書き留めたごく簡単なメモには、編成に関してvoci e str (umenti) と書かれており、管弦楽団からの委嘱にも拘わらず、ノーノがはじめからなんらかのかたちで声を用いるつもりだったことがみてとれる。ブルーノの名は、1985年に書かれたと推定される4つの作品の構想リストのなかにはじめて現れる。

  1. 3 canti, München, G. Bruno, Blech, coro, Fl, P, N, D, Claudio, 1986, Berlin
  2. 1987 Berlin
  3. Manfred, opere? [oppure?] 1989
  4. canto = Claudio       *6

問題のミュンヘン・フィルからの委嘱作がカミナンテス三部作に組み込まれている様子がまだ見受けられないことから、ひょっとしたらこのメモはノーノのスペイン旅行の前に書かれたものかもしれない。

 

以上のやけに細々とした記述は、Caminantes...Ayacuchoのことならなんでもかんでもグウの音も出ないくらいに詳しく書いてあるChristina Dollingerの本を参考にしたものである。 *7 Dollingerが書き写して付録にまとめているCaminantes...Ayacucho関連のノーノのスケッチをみていくと、例の30という数が、テンポ指定とは別の目的のために呼び出されている箇所に行き当たる。

  • Giordano Bruno- Ayacucho per strumenti, organo, voci a più cori, testi di G.B., U.A. 1987 30'
  • Jabès 40'
  • No hay caminos 30'
  • Hay que caminar 30'    *8

作曲予定の4作品の長さの見積もりを列記していくなかで、カミナンテス三部作の演奏時間をノーノはいずれも30分に設定しているのである。ブルーノの基数30との一致は果たして偶然だろうか。

 

陸から海へ:scomposizioneによる島ルート

地球上のあらゆる生きものの体のなかで遺伝情報がDNA→RNA→タンパク質と流れていくさまになぞらえて、陸から海へと向かう流れをノーノの音楽創造と聴取のセントラルドグマと呼んでもよいだろう(もっとも、ドグマなどという「固い」言葉はノーノの好みではないだろうが)。

 

たま~に逆転写酵素という改造車に乗って逆走してくるへそ曲がりがいるにしても、通り道はとにかく一本だけなのが、生きもののほうのセントラルドグマの特徴である。いっぽうノーノのほうのセントラルドグマでは、あたかも北回り航路と南回り航路のように、陸から海へと向かう経路がもともと二系統存在する。scomposizione(解体/断片化)による島ルートと、subversion(転覆)による穴ルート。名のとおり、それぞれのルートで主要な役割を果たす断片の型が異っている。

 

このうち島ルートに関しては、ノーノ自身によるたいへん明快な道案内がある。1987年12月1日に東大キャンパスで開かれた公開講演(水声社刊『現代音楽のポリティックス』に収録)。その初っ端でノーノは黒板に3つの図を描き、フランドル楽派の作曲技法を紹介していく。実際のところノーノはここで、フランドル楽派の作曲技法というよりは、フランドル楽派に多大な影響を受けた自身の作曲術のエッセンスを語っているのだ。

 

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ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声部からなる合唱で、折れ線が各声部の音型を表す。1図は模倣カノンのもっとも簡単なモデルで、テノールに置かれた定旋律が(歌いだしのタイミングが声部ごとにずれてはいるものの)他の3声部にそっくりそのままコピペされている。ソプラノ、アルト、テノール、バスのどの声部の上に降り立ってみても、決まって目に飛び込んでくるのは、型どおりの一本の旋律線がくっきりとした道筋を引いて前方へとまっすぐに伸びていく、まったくの陸上的光景である。

 

このあと3図に到るまでのあいだになにが進行しているのかは一目瞭然であるようにみえる――断片化。既に2図の段階で、テノールからのれん分けしてきた三本の旋律線は寸断済である。

 

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さらにテノールの元祖・定旋律本舗にも手が加わった結果、3図の群島的状態が出現する。

 

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このありさまを破壊的とみるAさん(仮名)のような人は少なくないだろう。右を向いても左を向いても、目に映るものはバラバラの点だけ、四囲に耳を澄ましても、耳に入るのは「断ち切られた歌」だけ。「進むべき道がないとはまさにこのことだ」、途方に暮れてそう呟きつつも、この無常な解体劇に意味があるとすればそれはなにかについてあれこれと思いを巡らせた結果、Aさんはこんな考えに辿りつくことになる。「たしかに進むべき道は断ち切られてしまったけれども、でもその代わり、かつて道がひとつにつながっていた頃には単なる通過点の一つとしてあっさり素通りしていた個々の音に立ち止まることは出来るようになったんじゃないだろうか。バラバラになったおのおのの断片が、純粋で、固有で、唯一無二の、比類ない、単独的な、反復不可能な、かけがえのない今この瞬間として輝きを帯びてきているのではないか。ノーノは音を線ではなく点で捉えようとしている。ひとつひとつの音を大切にする作曲家なのだ、ノーノは」――巷でよく耳にする類のノーノ評だ。ある人曰く、「ノーノはダルムシュタットで始められた、音楽を <<点>> としてとらえていく考え方を深めていった作曲家だったわけですが……」 *9 、別の人曰く、「彼は点的なものにあくまでもこだわる」 *10 、2年くらい前までの日本版Wikipediaルイジ・ノーノの項を見ると、「この時代(後期)においても点的に音楽を構築する態度はいささかも揺らぐことはない」、云々。

 

3図の光景を前にしてノーノが口にする台詞も、たしかに表向きはAさんと変わりがない――「進むべき道がないとはまさにこのことだ」。もっとも、その言葉が意味するところはAさんとはほとんど正反対と言ってよいほどである。ノーノは3図をこうみているのだ、「Aさんがバラバラだと言っている点と点のあいだに、いまや青々としたひとつの海がうちひらけているではないか」

 

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その海の上を、たとえば上図に書き込んだ細い水色の線のような経路で進むことができる。もちろんこれは、ありうべき可能性のほんの一端の例示に過ぎない。海の上に「進むべき(決まった)道はない」のだから。行く手にひろがる渺茫たる海原を前にして、ひとが不安に戦きながらそのつど選びとった航路が強いて言えば道だとも言えるし、「それはただ海の上の航跡であって道ではない(マチャード)」のだとも言える。

 

ノーノ本人による説明にも耳を傾けてみよう。

ここ(3図)では関係がすべて自律的であって、すべての声部における断片が各々他と多様な関係を、縦横だけでなく斜めの方向においても、結ぶことができます。また次のように言うこともできます。すなわち1図では、関係は二次元的で、つまり水平と垂直の方向に生じますが、時間的な流れには連続性があり、2図では、新しい関係が斜めにも生じますが、なお定旋律は保たれていますから、連続性はあります。それに対して3図では、定旋律すら分断され、単に一つの旋律が歌われることもなく、断片相互が自律的に時間を形作っていきます。b(アルト)はa(テノール)とある関係性を作りますが、そこには新しいものが生じます。と言うのは、aが別の状況において再考され、再現され、再び想起されるからです。 *11

この発言のなかではあくまで断ち切られるべきものとしてノーノが語っているようにみえる「連続性」という言葉には注意が必要である。ノーノがここで言う連続性とはもちろん、全声部で模倣される定旋律の旋律線の直線的な連続性のことを指している。

 

定旋律のa straight and narrow pathの連続性は断ち切られるべきものであるし、実際に断ち切られる。思想の本をひらけば「切断の必要性」などと当たり前のことのように言われているが、切断という操作はどんなものに対しても無条件で行えるわけではない。しなやかに動く水は切りようがない。たとえ直線的であっても光線は切れない。そこそこ以上の固さをもっていてはじめて「断ち切る」ことが可能になる。ラテン語でcantus firmus、イタリア語でcanto fermoの名が暗示するとおり、定旋律の旋律線は固いのである。その固体的な、硬直した線の連続性がn個の点に粉砕され消失したとき、バラバラの点と点のあいだに、ノーノが明示的には言及していない、別の面的な連続性が浮上してくる。その上をしっかと踏みしめて、決まった方向に迷わず歩いていくことのできる陸路が断ち切られたことと引き替えにして、その上に船を浮かべて、あらゆる方向にsospensione=不安(定)にゆれ動くことのできるひとつづきの海面が出現するのである。ノーノが重視する断片相互間の多様な関係は、すべてこのおおいなるひとつの水域を介してとり結ばれていくものだ。

 

つまりノーノの断片化は、ただ単に連続性を破壊する操作ではないということである。ひとすじの堅い線をn個の点にバラしてそれでおしまいではなく、そうして出来た複数の点をひとつの面に浮かべる。前に示したノーノ流scomposizioneの黄金の方程式

1個の○○ → scomposizione → n個の断片 + 水

をもとに図式化すればこうなる。

連続性A(内陸/線) 
→ 断片化 scomposizione → 断片性(島/点) + 連続性B(海/面)

 

一本の線をn個の点に解体することをとおして、硬質な陸の連続性(A)に統べられていた諸要素を柔軟な海の連続性(B)の作用下に移し替えること、そこに断片化の意義がある。断片をつくることはそのための手段であって、目的ではない。

 

以上のことから、ノーノにとって「島」の必要性がどこにあるのかもみえてくる。ノーノの諸作品のなかでも群島の構造がもっとも明瞭に顕れているFragmente - Stille, An Diotimaを例にとって、島の存在様式を観察してみよう。

*1:Erik Esterbaurer (2011). Eine zone des Klangs und der Stille: Luigi Nonos Orchesterstück 2° No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij. Würzburg: Königshausen & Neumann, p. 29-30.

*2:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrücken: Pfau, p. 92.

*3:Juan María Solare (2004). Nono: Soñando caminos. Acerca de la trilogía "Caminantes" del compositor Luigi Nono y sus fuentes de inspiración en España y América Latina. Humboldt 141: 24-26.

*4:Erik Esterbaurer (2011), p. 29-30.

*5:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 62.

*6:Christina Dollinger (2012), p. 282.

*7:Ibid., p. 83-88.

*8:Ibid., p. 283.

*9:シンポジウム:ルイジ・ノーノと<<プロメテオ>> より [pdf]

*10:同上

*11:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社、88~89頁