アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 2/16

第2日 1956年 Il canto sospesoの海

第2楽章のアカペラ合唱の歌詞のなかの、

(Per) esso sono morti millioni di uomini

それ(のために)何百万人もの人が死んだ

※原文のPerは歌では省略されている

という一節を、構成要素の母音に注目して吟味すると、中央部のmortiという単語が分水嶺になっていることがみてとれる。mortiより前では母音 o の、後では i の響きが卓越する。

(Per) esso sono morti millioni di uomini

 

上のテキストをバラバラに分解するとどうなるか。

  • 母音は「かの動かざる土」のごとくその場にとどまることはなく、
  • 水の流儀であたり一面に、(海のように)滲みひろがっていくだろう。
  • 拡散の過程で海の水は混ざり合うが、完全な均質化に達することはない。
  • したがって、海のしらべは o から i への緩やかな音調のグラデーションを示すだろう。
  • そしてこの o - i の響きは、全体の要にあたる語、morti(=死んだ)のこだまでもある。

 

Il canto sospesoの譜面上ではおおむねこのとおりの状況が再現されている。

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■ 海の眺め 8: Il canto sospeso (1956) - Nr. 2 125~135小節

 

o 音から始まって徐々に i 音へと推移していく母音の海。その海の只中に浮かぶ(= sospeso)子音の断片。mortiの語はバス2(楽譜の最下段)に現れ、両側を o と i で挟まれている。バス2が歌っているのは、125~135小節の音響構成の簡潔な要約(mortiのこだまとしての母音 o - i)である。

 

原文にはmorti以前に4個の o が、morti以後に7個の i が、それぞれ含まれている。o や i が単独で歌われるとき、おのおのの o、i がその4個と7個のいずれに由来するのかを特定することはしばしば困難になる。水の世界ならではのcon-fusione=溶融に伴う不分明の発生である。

 

本筋からややはずれるがもう一点興味深い、125~126小節のソプラノ2の「予兆的な i」についてもふれておこう。

 

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125小節にこだまする a の響き(ソプラノ1、アルト2、バス1、2)は、Per esso sono...の前段の...non è nulla末尾の nulla である。そこに最初に混入してくる別の母音がソプラノ2(楽譜の上から二段め)の i。これは一体どこから来た音かというと、約4小節先のmorti以降に頻出する i の先取りなのである。126小節でソプラノ2は続けてPer essoの o を歌う。2小節の範囲に収まるソプラノ2の小さな i - o は、このあと126小節から135小節にかけて全声部をつかって奏でられる大きな o - i の縮小された鏡像である。

 

第3日 1987年 Risonanze errantiの海

以前の議論のなかで、Risonanze errantiの歌詞をエルンスト・ユンガーの『母音頌』にならって語詞と音韻とに分類した。

  • 語詞 ―― メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片
  • 音韻 ―― シャンソンのこだま

語詞Wortspracheと音韻Lautspracheは『母音頌』の軸となる対概念で、前者は母音と子音が結びついて化合物をなし、音声が本来もっている活性が制御され秩序づけられることによって、語義が凝結し形をなすに到った言語の陸的な領域を、後者は母音と子音がそうした安定的な化合物を形成することなく遊離状態で活発に流動している、言語の海洋的にして始源的な領域を表している。

 

メルヴィルの詩は原文どおりの英語で歌われる。周知のごとく、英語は典型的な閉音節言語である。世界の言語のなかでもとりわけ硬質で水気に乏しい「陸の言葉」だ。Risonanze errantiの中盤で10回も繰り返されるpastの一語に、英語の特徴がよく表れている。唯一の母音 a を子音 p s t の、文字どおり水も漏らさぬ堅固な外骨格で封じ込めた、言葉の世界の甲殻類。半面でこうも言える――pastの固体的性格は、水そのものの欠如によるのではなく、子音と母音が強固に結合することで、母音の水としての性質の発現がきびしく抑制されているところから来ている。もし必要とあらば、pastの内部に潜在している水をとり出すことは難しい相談ではない。Il canto sospesoやCori di Didone以来の伝統の技をつかって、母音の体液を閉じ込めている子音の甲羅を剥いでやりさえすればよいだけのことである。

 

ところがRisonanze errantiのなかでは、その簡単な解体作業が行われている形跡をほとんど見つけることができない。メルヴィルの詩の断片化は、原文の脈絡から単語を切り出してくるところまでで、個々の単語にナイフが入れられることはまず無いのである。どうやらノーノはRisonanze errantiの作曲に際して、英単語が概して具えている船板のような固さをなるべく保存しようという意図をもっているように見受けられる。バッハマンのドイツ語もその点は同様の扱いである。

 

そこでRisonanze errantiでは、代わりとなる母音=水の供給源として「こだま」と名付けられた別の語群が用意される。列挙すると、

a ah u uh eh ahimé pleure adieu mes amours malheur me bat

これらの母音優位でみるからに水分豊富な語句を主原料に、音の海がつくられていくわけである。

*

約40分の演奏時間中に13回出現するRisonanze errantiのこだまのうち、ちょうど真ん中あたりの、pleureのこだま(188~194小節)を具体例としてとりあげる。「泣く」あるいは「嘆く」を意味するpleureは、子音の身体plから母音の水eureが流れ出している、涙の象形文字ともみることができよう。そのpleureの語を歌うアルト独唱と、同時に演奏されるチューバの、譜面上ではそれぞれ3つの音符で書き表される音が海の素になる。

 

まずは今までと同じく、楽譜を掲げておく。

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■ 海の眺め 9: Risonanze erranti (1986/87) - 188~194小節

 

もっとも、これだけ見てもさしたる参考にはならない。30年前と違って海の絵が直接五線譜の上に描かれていないからである。こだまの海洋化に寄与している立役者は、1981年初演のDas atmende Klarsein以降に本格導入された新しき電磁的手法、ライヴ・エレクトロニクスである。

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188~194小節で稼動しているライヴ・エレクトロニクスのフローチャートは、水の発生→流動化の二段構えである。前段の回路は、五線譜上の所定の位置にホヤのごとく固着している3+3=6個の音符が規定する音を水のようなものに変貌させる、強力な液化作用を具えている。そこで生じた、歌声とチューバのブレンドからなる音の混合液を、液体らしく演奏会場内に流動させる回路がその後につづく。

 

水の発生

188~194小節の歌声とチューバに、残響時間60秒の非常に深いリバーブがかけられる。リバーブは、楽譜に書かれた音符が定める音の輪郭線を溶かし去り、音を水のように滲み拡がらせるための、もっとも直接的かつ効果的な手段である。

 

Risonanze errantiの録音を聴いた印象から、リバーブはこだまにのみかけられているものと私は思い込んでいたが、スコアをみたところこれは間違いで、アルトの歌声にはじつは常にリバーブがかかっている。もっとも、声に施されるリバーブの大半(全379小節中294小節)を占めるのは、基礎代謝レベルと言うべき、残響時間4秒のごく薄いリバーブである。下表にまとめたとおり、こだまの多く(すべてではない)にはずっと残響時間の長いリバーブが適用される。下に挙げたこだま以外の音に残響時間4秒を超えるリバーブがかけられているケースは、136~165小節のチューバに対する10秒のリバーブのみである。

・こだま、その内訳

ID小節歌詞バーブの対象
01A 36-40 malhuer me bat C. sarde, Crot
02A 60-65 adieu C
02B 66-68 ah... ah... C
03A 83-85 -lheur me C
04A 103-111 ahimé ahimé C, Tb (103-105): C (109-111)
05A 133-137 [ah...ha] C
05B 137-138 u C
06A 188-194 pleure C, Tb
06B 196-196 ah C
07A 214-218 ahimé uh eh uh ah ahimé C
08A 242-245 a a ahimé ahimé ahimé C
08B 245-247 ah C, Fl.b, Tb
09A 256-261 adieu C, Fl.b
09B 262-265 adieu C
10A 288-293 adieu mes amours ah! ah! C
11A 319-320 adieu Ottv
12A 357-366 pleure C
13A 369-371 malheur C

・こだま、そのリバーブのかかりぐあい

ID小節再生時間残響時間 (s)
01A 36-40 3:54-4:38 10
02A 60-65 6:30-7:20 20 / 4
02B 66-68 7:25-7:36 4
03A 83-85 9:02-9:27 4
04A 103-111 11:12-12:25 20
05A 133-137 14:37-15:16 4
05B 137-138 15:17-15:46 70 / 4
06A 188-194 19:38-20:28 60
06B 196-196 20:32-20:35 4
07A 214-218 22:29-23:06 4
08A 242-245 24:57-25:09 4
08B 245-247 25:10-25:43 20
09A 256-261 26:15-27:15 30 / 4
09B 262-265 27:16-27:54 30
10A 288-293 29:54-30:40 10
11A 319-320 33:02-33:32 50 / 4
12A 357-366 37:26-38:36 80
13A 369-371 38:48-39:03 4

C=アルト C.sarde=サルデーニャ島の牧用の鈴 Crot=クロタル
Tb=チューバ Fl.b=バスフルート Ottv=ピッコロ
※1 小節数の後に示した時間は、Risonanze errantiの現時点で唯一の録音であるSACD (NEOS 11119) の再生時間である。
※2 一部の例でひとつのこだまに二種類の残響時間が示してあるのは、ひとつのこだまに残響時間の異なる二種類のリバーブが適用されているためである(後述)。

 

流動化

Risonanze errantiの作曲にあたってノーノは、演奏会場に分散配置されたスピーカーから音を再生するタイミングを調節することにより音の空間移動を模擬的に再現するためのプランを、何枚もスケッチに図示していた。その一部は、Marinella Ramazzottiのノーノ本 *1 の203頁と209頁や、Hans Peter Hallerが書いた二分冊からなるEXPERIMENTALTUDIOの総説 *2 の第2巻185頁や、昨年出版されたMusic Sketchesという、作曲家の草稿分析の入門書 *3 の39頁に転載されている。それらの図を見てもうかがわれるようにノーノは当初から、音を動かすしくみをこだまに限定して使用する心積もりであった。

 

新しく出版されたスコアの巻頭解説では、1987年10月パリでの演奏の際に採られた合計10台のスピーカーの配置が、今後の演奏で踏襲すべき模範として掲げられている。

  • L1~L8のスピーカーは床面から少なくとも220cmの高さに設置する
  • L9とL10は床面から350~550cmていどの高さに設置する

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こだまの動き方を表にまとめてみた。

ID小節再生時間運動パターン残響時間 (s)
01A 36-40 3:54-4:38 E 10
02A 60-65 6:30-7:20 B 20 / 4
02B 66-68 7:25-7:36 E 4
03A 83-85 9:02-9:27 E 4
04A 103-111 11:12-12:25 A 20
05A 133-137 14:37-15:16 E 4
05B 137-138 15:17-15:46 B 70 / 4
06A 188-194 19:38-20:28 A 60
06B 196-196 20:32-20:35 E 4
07A 214-218 22:29-23:06 E 4
08A 242-245 24:57-25:09 E 4
08B 245-247 25:10-25:43 C 20
09A 256-261 26:15-27:15 B 30 / 4
09B 262-265 27:16-27:54 D 30
10A 288-293 29:54-30:40 A 10
11A 319-320 33:02-33:32 B 50 / 4
12A 357-366 37:26-38:36 A 80
13A 369-371 38:48-39:03 E 4

動き方のパターンは以下の5種類である。

  1. 旋回運動
  2. 中央から四囲へ拡散する動き
  3. 左側から右側への動き
  4. 前方へ遠ざかっていく動き
  5. 動きなし

 

A
会場の四隅に置かれた4台のスピーカー(L1 L2 L3 L4)を左もしくは右回りに巡回する動き。10Aではアルト独唱、ピッコロ、チューバがそれぞれ独立の旋回運動を行う。188~194小節の06Aのこだまの動き方だけは変則的で、L2を起点としてL4→L1→L3とたすき掛けのような経路を辿り、L3で24~32秒にわたって滞留する。

 

B
02Aのadieuのこだまのフローチャートを例に説明しよう。

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アルトが a を歌っているあいだは上側の回路が作動し、下は遮断されている。つまり、 a の歌声に残響4秒のリバーブがかけられ、会場中央のL9とL10のスピーカーから出力される。アルトが dieu を歌いはじめた時点で、回路が上側から下側へと滑らかに切り替わる。dieu の歌声には残響20秒のリバーブがかけられ、会場四隅のスピーカー(L1 L2 L3 L4)から出力される。体感としては、 a から dieu へと、音が中央から四方へ発散していく動きになる。上のリストのうち4例でひとつのこだまにリバーブの残響時間が二種類付せられているのは、いずれも同様の音響処理によるものである。

 

C
08Bの一例のみ。会場の左側のスピーカー(L1 L5 L8 L4)から右側(L2 L6 L7 L3)への遷移。

 

D
09Bの一例のみ。会場前方のL1 L2 L5 L6の4台のスピーカーから出力された歌声が、フェルマータのあいだに徐々にフェードアウトしていくもので、潮が沖へ退いていくように音が前方へと遠のいていく効果が得られる。

 

E
リストに挙げた全18例のうち8例のこだまは動かない。リバーブのかかり具合を表に併記したのは、音の動きとリバーブの関係をみるためである。01Aの特殊なこだま一例 *4 を除き、「動きなし」と残響時間4秒の基礎代謝レベルのリバーブは正確に一致している。 *5バーブの作用を受けて水っぽく変質していないこだまは、水のように空間を流動することもないのである。動かないこだまは、個々の音が具える形を有耶無耶にするほどの効果はもたらさない弱いリバーブをかけられて、常に所定の位置のスピーカー(会場中央のL9とL10)から再生される。

 

輪郭がぼやけてもいなければ空間を流動することもない、水の気配を欠いたこだまを、上の表では土色で塗り分けて示した。これらの「乾いたこだま」が、特に06Bから08Aにかけての中間部に連続して出現することに注意しよう。この部分におけるこだまの変質はメルヴィルの歌詞と呼応して生じているものなので、詳しくはのちの「メルヴィル 船の歌」の項で述べるが、ひとことで要約すると、Risonanze errantiは中盤で一時的に作品世界の乾燥化、硬直化が昂進するのである。

*1: Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos.

*2:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft.

*3:Friedemann Sallis (2015). Music sketches. Cambridge: Cambridge University Press.

*4:01Aは声ではなく器楽のみによるこだまである。38~39小節のクロタルの音符にMa- -lheur me batと歌詞が付けられている。このほかにもう一例、11Aも、クロタルのチン(A)、チン(G)の二音でa、dieu を表す。リバーブはその直後のピッコロの持続音にかけられている。

*5:ただし、10Aで独立の旋回運動を行うアルト独唱、ピッコロ、チューバのうち、リバーブがかけられているのはアルト独唱のみである。