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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 10/16

Risonanze erranti

「ブルーノ・ノーノの海」縁起

あれはもともと、壁に書かれた落書きであった。1987年3月、Enzo Restagnoを聞き役にとり行われた長いインタビューの中でノーノが約2年前にトレドの修道院の壁に見たその言葉、Caminantes no hay caminos hay que caminarの意味を問われたとき、ノーノはこんな受け答えをしている。

È il Wanderer di Nietzsche, della continua ricerca, del Prometeo di Cacciari. È il mare sul quale si va inventando, scoprendo la rotta. *1

*

ニーチェの漂泊者、その不断の探究。カッチャーリのプロメテウス。それは、その上で航路がつくり出され、探し出されていく海です。

 

上の短いコメントは、これに先立つ約10年の期間をとおしてノーノのなかに堆積していった4層ほどの思考の地層が顔を覗かせている、地質マニアの興味を惹くちょっとした崖のようなものである。下のほう、すなわち古いほうから順に、

  • 第四層 Caminantes no hay caminos hay que caminar
  • 第三層 海
  • 第二層 ブルーノ
  • 第一層 ニーチェ

 

第一層 ニーチェ

Prometeo誕生のきっかけになったのが、ノーノとカッチャーリとのあいだで1975年ごろから続いていた日々の対話だったということは、二人がともに回想のなかで認めていることである。その対話の中身について、ノーノはこう話している。

私とカッチャーリの起点となったのはニーチェベンヤミンでした。彼らをとおして私たちは、それによって既存のものを転覆させる新たな「法」を常に探し続ける漂泊者としてのプロメテウスun Prometeo-Wandererを見いだしたのです。言うなれば、終わりなきプロメテウスの連続性 la continuità prometeica senza fine です。 *2

カッチャーリとノーノの出会いは1960年代の半ば、ベンヤミンに触発されて『新しい天使』という雑誌を発刊したカッチャーリが、「イタリア共産党を代表する知識人のひとり」であったノーノに雑誌についての意見を聞きに行ったときにまで遡る。だがその当時のノーノは、ベンヤミンの思想に対していかなる好意をも示す余地を具えていなかったとカッチャーリは振り返っている(ノーノは「その種の著者をむしろ軽視する<<正統派> >マルクス主義の重しによって <<抑止>> されていたのです」 *3 )。

 

1975年のAl gran sole carico d'amore初演後に訪れた模索期に、ノーノはそれまで食わず嫌いにしていた「非マルクス主義的な」作家や思想家に対する不寛容を、カッチャーリに薦められた本などを読んで少しづつ克服していった。最後まで残っていたノーノの意識の防壁を最終的に崩壊へと導いたのは、ニーチェの読書体験だったという。「ニーチェを読んだことでついにノーノはあらゆる誤解を払拭しました。その時以降、ともに本を読み、議論を交わし、音楽を聞くわれわれの日々のやりとりは非常に濃密なものになり、1976年にはPrometeoの構想の周りを旋回するようになっていったのです」。 *4

 

それから2年後の1978年に、ノーノはニーチェのDer Wandererを「つねに新しい道を見つけだし、立ち止まることのない」者だと評している。 *5 さらに2年後の1980年、Fragmente - Stille, An Diotimaの初演に際して開かれた討論の席で、漂泊者のあるべき姿についてこう語っている(この時はWandererとしてベンヤミンニーチェの二人の名を挙げている)。

漂泊者――固定された瞬間はなく、常になにかを探し求めている。  (……) 常になにかを探し求めている漂泊者であって、単なる型にはまった図式だとか、目標を与える者ではない。人はそうやって、歩いていかなくてはいけないのです。 *6

ノーノがPrometeoに託した不断の探究(continua ricerca)、終わりなき探究(ricerca senza fine)のテーマは、(Prometeoへとつうじるカッチャーリとの対話の直接の引き金になったという意味では)Prometeoの産みの親と言っても過言ではないニーチェの漂泊者像を核として育っていったのである。

 

第二層 ブルーノ

ニーチェ的な漂泊者の探究の過程にはどうして終わりがないのか。その理由を教えてくれるのがブルーノである。

 

80年代のノーノがよく口にするinfiniti possibilii 無限の可能性というキーワードは、ブルーノの「無限」とムージルの「可能性感覚」を組み合わせたものらしい。

......per considerare altre possibilità altre probabilità (Musil), rispetto a quelle abitualmente scelte e date, altri pensari musicali altri spazi infiniti, alla Giordano Bruno. *7

*

習慣的に選ばれたり与えられたものに対して、別の可能性、別の蓋然性をかんがえること(ムージル)、別の音楽的思想、ジョルダーノ・ブルーノのような別の無限の空間を、かんがえること

 

「Il lavoro di ricerca è infinito, infatti 探究の営為はほんとうに限りのないものである」 *8 のは、対象が孕んでいる無限の可能性、要するに対象の無限性が、探究の完遂を原理的にありえないものにしているからである。この考え方は、蔵書リストから判断するにおそらくノーノは読んでいない『英雄的狂気』のなかでブルーノが説いている、「無限なものは、無限であるために、無限に追究されるのが、適切で自然なのです」 *9 という基本的態度とまったく同じものだ。

 

Caminantes...Ayacuchoの歌詞に選んだブルーノの詩を、「それはまさしくla sconfinatezza del continuo 連続的なものの際限のなさです。ジョルダーノ・ブルーノの無限の宇宙の連続性です」 *10 と簡潔に評した時ほど、ノーノの中に宿るブルーノの魂が色濃く滲み出たことはなかっただろう。ブルーノは、そしてノーノも、デカルトのようには考えなかった。デカルトにとってはただ神のみが、無限の呼び名に値する存在であった。宇宙が涯のない広大な拡がりであったとして、それは無限ではなく「単に無際限なものと見なすべきである」 *11デカルトは説く。無限性と連続性をデカルトは厳然と峻別するのだ。

 

ブルーノもまた神と宇宙を区別してはいるが、それは「有限と無限との別ではありません」 *12 と明言している。「神は全世界にくまなく遍在し、そのそれぞれの部分のなかで無限かつ全的に存在している」。 *13 それゆえに神は「全的に無限」=totalmente infinito *14 である。「宇宙には縁も終りもないが、宇宙から採り出すことのできるその各部分は有限なものである」。 *15 宇宙のこうしたありかたを、ブルーノは神の「全的な無限」と区別して「全体の無限」=tutto infinito *16 と呼ぶ。そうなのだ、ブルーノにとっては宇宙もまた、神とは様態の異なるある種の無限なのである。宇宙のことを「延長的無限」 *17 とブルーノが呼ぶこともある。要するに「全体の無限」とは、神の「全的な無限」を空間に展開したかたちである。それは具体的には、際限のないひとつの連続性のことである。

 

宇宙の実体である「空間という一つの連続した無限」 *18 のなかには、数えきれない有限な諸事物が散在している。これら無数の(無限個の)諸事物は、「連続した無限ではなく、分散した無限」 *19 だとブルーノは言う。

 

そして最後に、われわれ有限者が、この一なる宇宙のなかに鏤められた諸事物を経巡る行程は、空間の拡がりが無限であり、かつ事物が無数に存在するがため、必然的にきりなくつづく。それは「無限の力」 *20 、「つねに所有すると同時につねに求め続ける無限の熱意」 *21 によって駆動される無限の探究であるとブルーノは言う。一者たる神の無限性が宇宙に反映され、宇宙のなかに存在する諸事物に反映され、最終的に「la sconfinatezza del continuo 連続的なものの際限のなさ」の主観的体験となって、ひとりの有限者の意識に届いてくる。連続性とは、ブルーノやノーノにとって、無限性が有限性の上に落とした翼影である。その連続性を断ち切ることは、無限から目をそむけることと同義だ。無限の可能性を渉猟する漂泊者は、だから、立ち止まることなく「常になにかを探し求めて歩いていかなくてはいけない」。もちろん、ひとりの人間の有限な生の範囲内で、無限の宇宙が蔵するすべての可能性が汲み尽くされることなどあろうはずもないが、「神的な美が、知性に対して、知性の視力の地平線が広がるかぎり、現れるだけでじゅうぶんなのです」。 *22

 

第三層 海

海はノーノにとって、ブルーノ的な無限空間を特徴づけるla sconfinatezza del continuoを体現する象徴的空間である。海は一面の水の世界である、そして水の本質とはノーノによれば「ひとつの連続性」 *23 である。肝腎なのはその連続性の質だ。はっきりとノーノには無いと言えるのは、海を一様で均質な空間として捉えるようなものの見方、連続性をあっさり一様性へと短絡させるような考え方である。「Prometeoへ到る作品群において海は、時間的、空間的な無限の次元の只中で生じる連続的な変容の生き生きとした象徴となる」 *24 、Marinella Ramazzottiはそう指摘している。1984年のとある対話のなかでノーノがヴェネツィアの海について語った、「非対称的で、非周期的で、中心もなければまとまった単位もなく、常に動きのなかにある」 *25 という発言によく示されているように、ノーノが海に感じとっているのはいつでも、単なる連続性(continuità)ではなく、際限のない変化の連続性(trasformazione continua)であった。

 

海は一様だよ派の人々は、もっと長たらしい名称を付けるとすれば連続的なものは必然的に一様になるよ派の人々は、海(水)の均質化作用に抗うために島(陸)による連続性の確固たる切断が必要だと考えているらしいが、海が一様だなんてのは言いがかりだよ派のノーノは逆に、無限の可能性を有限の現実性に貶める不動の陸地の忌まわしき固定化作用に抗するために、海の動的な連続性を必要とする。海の平板さに欠点ではなく美点を見いだすのは、海を愛する人すべてに共通の資質である。平板なものは本当に魅力的だ、「山あり谷あり」の起伏のなかでは埋没してしまう微かな差異を見ること、聞くことを可能にしてくれるから。しかもその差異は、海においては定まった形姿に固定されずに、絶え間なく、尽きることなく、千々に変転していく。海というひとつの連続する空間において、差異は消滅するのではなく繊細かつ動的になるのだ。くだくだと理屈を並べてきたが、要するにこういうことである。

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梶井照陰写真集『NAMI』(リトル・モア)より(これが一様に見える奴ってのはどこに目がついてんだろう?)

 

この素敵な一枚の写真が捉えている海の姿は、液相にある水の動態がもたらしたものだ。陸上で飼い馴らされているあいだは川になってクロノロジカルな時間のごとく一方向に流れ下ってみせたり、器に収まって擬似的に固体化したり複数化したりしていた水が、固有の輪郭をもたず、固有の方向をもたず、固有の名をもたず、切断されることなく、混ざり合い、流動をつづける、液体本来の特性なき特性を十全に発現する場。そういう場としての海を、またそういう様態としての水を、ノーノはニーチェが高地の冷涼な空気を欲するように、生理的レベルで欲している。まさしく渇望している。その思いを、ノーノが創った音の聴き手はノーノと共有しているのでなくてはならない。メルヴィルが『白鯨』のChapter 1で描いた人間の生態が、ノーノの音景を旅する際の良い手本になる。

Let the most absent-minded of men be plunged in his deepest reveries -- stand that man on his legs, set his feet a-going, and he will infallibly lead you to water, if water there be in all that region.

もっとも放心状態になりがちな人間をもっとも深い瞑想状態に置き、そして彼を立たせてその足を動かせてみよ。その地方に水のあるかぎりは、かならず水の辺に歩むだろう。

*

They must get just as nigh the water as they possibly can without falling in.

かれらは溺れぬかぎり、できるだけ水に近づき迫りたいのだ(阿部知二訳)

 

陸から海へ、より流動的でよりしなやかな piú fluida ed elastica *26 もののほうへ。Ascoltaの呼び声は、いつでも海の方角から聞こえてくる。Prometeoの決定的な場面で二度唱えられるNon sperderla(それを失ってはいけない)の「それ la」とは「かすかなメシア的な力」のことであるが、ノーノの作品世界を訪れた者が決して失ってはいけない「それ」とは、ear for the sea-surge/潮騒を聞き取る耳 *27 である。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 72.

*2:Ibid., p. 70.

*3:Entretien Marco Biraghi avec Massimo Cacciari (1987).

*4:Ibid.

*5:Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 92-93.

*6:Kay-Uwe Kirchert (2006). Wahrnehmung und Fragmentierung: Luigi Nonos Kompositionen zwischen <<Al gran sole carico d'amore>> und <<Prometeo>>. Saarbrücken: Pfau, p. 207, 209.

*7:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*8:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*9:ジョルダーノ・ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、98頁

*10:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 73.

*11:アレクサンドル・コイレ『閉じた世界から無限宇宙へ』、横山雅彦訳、みすず書房、85頁

*12:ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』、清水純一訳、岩波文庫、63頁

*13:同上、64頁

*14:同上、64頁

*15:同上、64頁

*16:同上、64頁

*17:同上、63頁

*18:同上、103頁

*19:同上、103頁

*20:ブルーノ『英雄的狂気』、157頁

*21:同上、258頁

*22:同上、83頁

*23:Laurent Feneyrou (1993). Introuction. In: Feneyrou, L. (réunis, présentés et annotés) Luigi Nono, Écrits. Paris: Christian Bourgois éditeur: 7-20, p.16.

*24:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 157.

*25:1984年4月8日、Werner Lindenとの対話のなかでの発言。Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-226.

*26:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 13.

*27:エズラ・パウンドのCanto VIIの一節。Guai ai gelidi mostriのプログラムノート にカッチャーリが引用している。