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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 9/9

Risonanze erranti

ノーノの音

ノーノの講演 *1 の前半部は以前の記事で紹介した。その内容は、ノーノが黒板に描いた三段階の図で要約される。これは直接的にはフランドル楽派の作曲技法を模式図にしたものであるが、ノーノ本人の作曲法のエッセンスを示した図だと受けとってかまわない。4声部の声楽曲が、ひとことで言えば断片化されていく過程である。

 

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ノーノの作曲法の特異性を実感するには近藤譲と比較するのがよい。上り列車と下り列車を想像せよ。この二人の作曲家は、同じルートを正確に逆方向へ向けて動いていくのである。ちなみに近藤譲が上り列車で、ノーノが下りである。

 

上り列車、近藤譲の場合――

  1. 形なくむなしい、なにか海のような漠としたものがはじまりに横たわっている。
  2. その海をいくつもの形に切り分けていく(※海を丸ごと凍らせる大型製氷器をイメージのなかで稼働させることによって)――分節化
  3. 分け切れずに余ってしまった水の存在には目を瞑り、
  4. 分けられたものだけを手元に集めてつなぎ合わせる――連接。

――こうして、一面水浸しの茫漠としたさかいに、波しぶき一つ届かぬかわいた陸地を堅く立てようとしているのが近藤譲だとすれば、ノーノはあべこべに、近藤譲の創造の到達点である最も陸寄りの、最も高い位置から第一歩を踏み出す。はじまりに置かれているのはひとすじの堅い線=連接された音の配列である。フランドル楽派はそれを L'homme armé や Malheur me bat のような既存の歌の旋律の借用でまかなっているが、ノーノの作曲の行程では最初期の段階において、同様の役割を担う一本の長い旋律がしばしば自前で用意されるということが、残されたスケッチの分析により判明している。Risonanze errantiの場合は、マショー、オケゲムジョスカンの3つのシャンソンの旋律断片を無作為につなぎ合わせた127小節のモノディがそうである。 *2 フルートの特殊奏法の本に載っている重音表の和音の列を展開してつくったモノディは、Quando stanno morendoのPARTE I やPrometeoのPrologoなどの共通の原素材として用いられている。 *3 これらの長大な構造物は、このあとただちにバラバラに解体されることを目的として、ノーノの作品世界のなかですべてに先立って創造されるのだ。Risonanze errantiのモノディは、音符の一部を休符に変換するという一種の変則的な断片化を伴いつつ、いったん4声部からなる379小節の楽譜に膨張を遂げたのち、44個の断片に解体される。 *4 Quando stanno morendoのためのモノディはただちに18個の断片に切り分けられる。 *5

 

ひとつづきの旋律を細かく切り刻んでいった結果得られるものは、近藤譲の場合の分節化の産物とみた目はいっけんよく似たものである。線ではなく点と呼んだほうがふさわしい音の断片。そしてそれらの断片がちりばめられた群島の情景。たしかに近藤譲の断片とノーノの断片は似ている、季節の周期のなかで5月と10月が似ているのと同じ意味で。近藤譲はこの群島地帯に、下のほうのだだっ広い大海原から上ってきた。いっぽうのノーノは上のほうのかわいた小高い陸地から下りてきた。二種類の断片はベクトルの向きの違いによって識別される――断片Kは海から陸への上昇、断片Nは陸から海への下降。

 

音が点状に散在している群島の状態が、線の音楽の作曲家にとって最終目的地でありえないのは当然のことだろう。「音の分節化はあらゆる音の扱いの前提」 だとはいっても、分節化されただけのばらばらの音は、音楽未満の「単なる音」の域を出るものではない。音は相互に関係づけられることによってはじめて音楽と呼べるものになる、というのが近藤譲の信条である。そこで近藤譲は、点をつなげて線にする。その際に近藤譲が留意しているのは「関係のあいまいさ」だと言う。近藤譲のあいまいさとは、分節済の複数の音の並べ方を調節することで醸し出されてくる不安定で移ろいやすい関係性(n番目までの音の配列によってできている関係がn+1番目の音によって裏切られるように音をつないでいく)のことであり、音が分節化されているという前提を寸分たりとも揺るがすものではない。要するに、近藤譲の連接の単位である「ひとつ(一個)の音」は不溶性である。

 

音は相互に関係づけられなければならない、というのはノーノの信条でもある。それゆえにノーノは、線を断ち切って点にする。ノーノは3図の光景を、音がバラバラになって孤立した状態ではなく、多様に関係づけられた状態だとみているのである。近藤譲とノーノを分かつこの根本的な相違は、両者のイメージのなかでの音の存在形態の違いに拠っている。近藤譲の音は「一個の音」と言うくらいで固体である。対するノーノの音は「suono mobile 動いている音」と言うくらいで液状である。当然のことながら、液状の音は島を形成することができない。

 

ノーノに関するかぎり、3図を「音の群島」と呼ぶのは本当は不適切だ。正確には「音源の群島」と言うべきである。ヴェネツィアの鐘の音がつくる音響空間のモデルを思い出してみよう。島の各所に散在しているのは鐘楼である。各々の鐘楼のてっぺん近くに据えられた鐘である。鐘楼や鐘は堅くて重たい固形物だから、据え置かれたその場を動くことはない。しかし鐘の音は、音源である鐘楼から四方八方に、「水のように」拡散していく。そして島と島のあいだの空間(海)で自然に、不可避的に、いりまじり(con-fusione)、こだましあう(risonanze erranti)。これが80年代のノーノの掲げるsuono mobile=音は動くというモットーのひとつの意味である。ジョン・ケージがやっているような偶然性の音楽はノーノにとってはまったくのナンセンスだ。作曲家による作為の是非以前に、ケージが当たり前のことのようにみなしている無作為化のための操作が、そもそもノーノの音では実現不可能だからである。間隔を置いて音を「配置」し、個々の音の独立性を確保しようなどという発想は、イメージのなかで音が液化を遂げているかぎり、はじめっから出てこようはずがないのだ。

 

1図から3図へ向けてノーノが旋律線の堅い枝ををポキポキと手折っていく過程は、単線的な管状の脈絡のなかに封じ込められている音=水を抑圧から解き放つための方途なのである。木の枝を折れば樹液が、仕留めた鯨を解体すれば体液が、切り口から四囲にジワジワと溢れ出してくる。断片化に伴って避けようもなく生じる副産物のようにみえるこれらの水分こそが、ノーノにとっては音の実体である。断片それ自体は音の器である。そんなノーノ流の断片化の過程をチャートにまとめると下のようになる。

 

 1個の○○ → 断片化 → n個の断片 + 水

 

解体操作によって生じたおのおのの断片に対して

 

 1個の断片 → 断片化 → n個のより小さな断片 + 水

 

というさらなる解体操作を実行することができ、そのたびに水のかさが増えていく。この再帰的過程は、すべてが水(すなわち、断ち切ることのできないもの)に変わり尽くす海に辿りついた時点で、燃焼で言うところの火種を使い果たして終わりを迎えることになる。

 

近藤譲とノーノは「正確に逆向きに動く」という先の言明の意味するところの一端はこのことである。3図に描かれている群島的光景はノーノ線の終着駅にあらず。この図のなかの断片群はなおも変容の途上にある。ノーノの行う断片化は突き詰めていくと海洋化であって、近藤譲の出発点である、いずこにも形見ること能わざる大海原へと最終的には行き着くのだ。晩夏に鳴きはじめるツクツクボウシの鳴き声が秋へと向かう小さな時の矢であるように、ノーノのあらゆる断片は海を目指して進んでいく小さなベクトルである。断片は全面的な液化の途上に現れる中間生成物であるとも言えるし、ノーノを海へと導くある種の乗り物だと解することもできる。

 

「正確に逆向きに動く」のもうひとつの意味は、動く方向こそ正反対だが同じルートの上を移動しているということである。近藤譲が線の音楽の構築のために取り扱っているのと同じ素材を、同じ手つきでまさぐりながら、ノーノは作曲の作業を進めていく。近藤譲、エロワ、ノーノの三人を比べたとき、ノーノの立ち位置がいっけんエロワよりも近藤譲寄りであるかのような錯覚を起こすのはそのためである。

 

Werner Lindenとの対話でノーノが描き示した二種類の歌の模式図を講演の図と見比べてみよう。

 

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明らかに、ノーノが作曲の行程で直接の操作対象としているのは、上段のグレゴリオ聖歌タイプの「堅い歌」のほうである。シナゴーグの歌タイプの液体的に揺れ動く海の歌(下段)は、その堅い物体をまさぐっているうちにだんだんと漏れ聞こえてくるのである。シナゴーグの歌はグレゴリオ聖歌がその表皮の下に蔵している体液である。ただ座して待つだけでは体液の滲み出しを引き起こすことはできない。狩人の流儀でグレゴリオ聖歌に掴みかかり、その肉を引き裂かねばならない。

 

(以下、「船の歌」のための予告を兼ねて)

 

陸から海へと下降していく音の旅の過程でノーノが終始手を加え続けている堅く乾いた構造物は、島ではなく「船」と総称するのがふさわしい。ノーノが紙上で加工していく音符の配列は船である、ヴェネツィアの都市空間を構成する堅い石は船である、ライヴ・エレクトロニクスのための仰々しい電子機器も船である。これらはいずれも、固定と名のつくあらゆるものを忌み嫌うノーノが、にも拘わらず、「固定されたものはなにもない」海を目指すがために敢えて必要としている「堅さ」である。究極においてノーノの船は、大海原の真っ只中で『白鯨』のピークォド号のように難破して水と一体化するのであるが、その最後の瞬間が訪れるまで、ノーノの視界から船影が消えることは決してない。要するに、ノーノは船を造り、操り、あくまで意志的に海へと向かって進んでいくタイプの人である。黄金時代の海やムージルの「愛の海」とは異なり、ノーノの海には必ず船が浮かぶ。

 

船はプロメテウスが人間に授けたテクネーのひとつである(「白帆の翼に海上を翔ける、船頭たちの乗り物を造ったのも、私に外ならない」 *6 )。しかし一般的に言って、テクネーと海の相性はあまりよろしくはないのではないか。テクネーとは本来、もろもろの建築的営為のために活用されるはずのものであるから(アーキ/テクチャ)。技術はなにかをかたちづくり、築き上げ、立たせる。だからテクネーを使えば使うほど、海は人為によって干拓されていくいっぽうなのではないのだろうか、ヴェネツィアのラグーナのように。しかしノーノは、テクネーの行使に伴って発生する――もっと強く言えばテクネーの行使なくして発生し得ない――多量の水分の存在に、早くから気づいていた。通常は省みられることのないその水に身を浸すことのできる人は、天地の万象から形なくむなしい始原の海へと向け、創造の頁を逆向きに繰るための駆動力としてテクネーを時には subversiveに利用する。

 

創造の最初の一週間の光景を撮影して逆再生させれば、地上に犇めく数多の個物からとめどなく水が溢れ出して海を創出しているようにみえるだろう。まさしくそれがノーノの作品世界で起こっていることである。本当のところ、船はノーノを海へと導く単なる乗り物ではない。「ノーノの海には必ず船が浮かぶ」どころの話ではなく、船こそが海の水の発生源なのだ。ウンガレッティの詩句の解体操作によって滲みひろがった母音の海の上を、子音の船板を纏った一隻の船が航跡を引いて進んでいく、以前とりあげた1958年のCori di Didoneの楽譜の一頁は、ノーノの作品世界の原風景である。

 

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そのCori di Didoneから約30年後。Risonanze errantiの音の海を渉る船のために、ノーノはメルヴィルの詩句断片を材料に選んだ。おおメルヴィル!自らが航行する海を自らが産み出していくノーノの船を造るのにこれ以上ない、うってつけの素材ではないか。

*1:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社

*2:Stefan Drees (1999). Die Integration des Historischen in Luigi Nonos Komponieren. In: Thomas Schäfer (ed.) Luigi Nono - Aufbruch in Grenzbereiche. Saarbrücken: Pfau, 77-95.

*3:http://www.luiginono.it/it/node/20077

*4:http://www.luiginono.it/en/node/20506

*5:David Ogborn (2005). "When they are dying, men sing...": Nono's Diario Polacco n. 2. EMS: Electroacoustic Music Studies Network - Montréal 2005. [pdf]

*6:アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』、467-468、呉茂一訳