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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 8/9

Risonanze erranti

FUKAKAIな音楽

「浜辺で石をみつけようとするように、音をみつけている」、あるいは「浜辺で散歩しながら貝を集めるように音を集めた」とケージが言っているのを聞いて、言葉尻をとらえるようではあるが、「ああやはり」と私は思う。やはりケージのイメージのなかの音は石ころや貝殻みたいな形をしているんだな、と。石ころ、貝殻。一言でいえば固形物である。石や貝殻は固形物であるから、ひとつふたつと手に取って拾い集めることができる。拾うことができるということは、環境から切り離して好きな場所へ自在に移動させることができるということでもある。浜辺で拾った石や貝は家に持ち帰ってもいいし、キノコが生えている内陸の森に撒いてもいい。偶然性の音楽は音がこのような存在形態をとっていることを暗黙の前提として成立しているのである。

 

……持続の構造枠が予め設定され、準備された素材がそこにランダムに配置されるのである。しかしこのランダムな素材の配置自体に意味がある訳でないことはいうまでもない。無意識的にせよ、何らかの基準に従って実行された配置とは異なり、素材のこの偶然的な配置によって目指されていることは、聴き手の聴覚的関心を、個々の響きという出来事の内部へ、作曲家が作り出したのではない、響きの内部構造へと向けることである。そのための響きの独立性、今、ここでの唯一性を実現するためにこそチャンス・オペレーションズが必要なのである。そしてさらにこの独立性を強化するためにケージは、音と音とを物理的に切り離す。『易の音楽』においては、出現する音と音との間には、ある程度の長さをもった、不規則な持続をもった沈黙が挿入されており、それが音と音との間の関係を断つことに役だっているのである。こうした持続や沈黙もチャンス・オペレーションズによって決定された。 *1

これは偶然性の音楽の作り方を解説した文章の一部である。偶然性の音楽を実践するために作曲家が行うべき二種類の音の操作が挙げられている(これを作曲家による操作だと思わないのは偶然性の音楽の信奉者だけである)。第一に、音をランダムに「配置する」こと。第二に、音と音とを物理的に「切り離して」関係性を「断つ」こと。これらの操作はどんな音に対しても無条件で行えるわけではない。近藤譲の表現をもじって言えば、偶然性の音楽の作曲以前に、音は偶然性の音楽の作曲行為が可能となる状態に準備されていなければならない。

 

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エロワの講演で紹介された北インドの歌のスペクトログラム。この音楽を無作為に並べ替えてみよと言われても、どこをどう手をつけていいものやら皆目見当がつかない。

 

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ノーノが図示したシナゴーグの歌の旋律線も同様だ。並べ替えの単位となるべき個々の音(a sound)がそもそもどれなのかが定められないからである。その種の人為的操作を行うにしては、これらの音はあまりに水っぽすぎるのだ。

 

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音が上図のように成型加工された時点で一挙に見通しがひらけてくる。ここには固有の輪郭を具えた5つの「堅い」音があって、それらが順に連結されている、と認識できる。そこでその5つの音をバラバラに分離して、あいだに沈黙と呼ばれる使い勝手のよいスペーサーを挟んでやれば、先ほどの解説で書かれていたとおりの状況の再現になる。偶然性の音楽に用いられる音素材が満たすべき要件は、近藤譲の線の音楽が必要としている音の条件と基本的に同じである。すなわち、音が複数個の「ひとつの音 a sound」へと完全に分節化/固化していること。HPSCHDという、ハープシコードのテープと生演奏のための作品のレコードにチャンス・オペレーションを適用した例では、もともとの音源にここと特定できるような明瞭な切れ目が見当たらないため、全体を5秒刻みのブロックに強制分割してパラメータ設定の単位とするという、海面を5m四方の碁盤目に切り分けて並び替えていくのにも等しい力づくの強硬策がとられている。 *2

 

たとえそれが人間の知覚特性の半ば必然の産物だとしても、「ひとつの音」は飽くまで人の作りしものだという大切な視点が近藤譲にはある。『線の音楽』のなかで近藤譲は、音の構造化の二段階モデルを唱えている。第一段階、音の分節化。形のない切れ目のない「単なる音」が、複数の「ひとつの音 a sound」に整然と切り分けられる。第二段階、音の連接。分節された複数の音が線へと繋ぎあわされ関係づけられていく。人間が音の構造化への決定的な第一歩を踏み出したとき、「ただの音」が「ひとつの音」になる。そしてその第一歩は構造化の全行程をとおして最大の歩幅でもある。Divide et impera、分割して統治せよ。本当の意味で手つかずの音の原野に分節化という名の区画整理さえ施されれば、もうこっちのものだ。あとは切り分けられた個々の音同士の関係性を人間がいかようにでも、意のままに調節することができる。「関係のあいまいさ」に留意しつつ音を順に継ぎ足していけば近藤式・線の音楽になり、音列の法則性に厳格に則り音を配列すれば総音列音楽になる。そのなかで、敢えてまったく無作為に音を並べるという手もある。偶然性の音楽とはただ単に、分節化によって人間が手中にしたよりどりみどりの音の配列パターンのうちの一選択肢に過ぎない。n個の単位にデータ化された加工済みの音については、確率論の援用によってお望みなら並べ方を定量的に「きちんとでたらめにする」こともできる、ただそれだけのことである。チャンス・オペレーションの手法をとおして独立性が確保されたと喧伝されている「ひとつの音」を、「作曲家が作り出したのではない、個々の響きの唯一性」といった耳ざわりのよい常套句で殊更に飾り立てることが妥当であるとは私には思えない。ひとつの音、それは森に生えている手つかずの自然な木ではなく材木の一片である。海に泳いでいる生きた魚ではなく刺身のひときれである。ひとつの音が生の素材であるとしたら、それは刺身がraw fishであるのと同じ意味においてである。煮られても焼かれても揚げられてもいないしどんな味付けも施されていないが、既に人の手で切り分けられたものだ(sliced raw sound)。ひとつの音なるものにしばしば冠せられる、純粋な音、手付かずの音、ありのままの音、音そのもの、ただそこに存在している音、音それ自体などといった完全無加工をうたうキャッチコピーは、本来すべて不当表示である。

 

皿の上に間隔を置いて並べられた数切れの刺身を前にして、「さあ見てくれこの刺身を。なんの加工も加えられていない、ありのままの、手つかずの素材だ。料理人である私の作為はいっさいはたらいていない。あ、それからこの刺身と刺身のあいだの間隔、それも私の意図が入らないように乱数表にしたがって決めてるんだよ」などとゴタクを並べているシェフがもしいたら、少なくとも私はそのような料理人をリスペクトすることはまずなかろう、というか、ぶっちゃけて言えば「アホかこいつは」と思うだろう。私が偶然性の音楽に対して抱いている印象はまあだいたいそんな感じである。

*1:庄野進『聴取の詩学』、勁草書房、62~63頁

*2:同上、72頁