アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 7/9

近藤譲の音

近藤譲が語る音の手触りは、それはもうとにかく固い。なにしろ「ひとつの音」のさらに上をいく「一個の音」なる恐るべき表現が出てくるのだから。

そこいらに転がっている石ころ一つもきれいですし、音一個も美しいですし、 *1

*

聴くのは旋律のほうであって、それを構成する一個一個の音には、もう誰も関心がなくなるわけです。 *2

*

例えば、演奏時間にして五分間の長さを書いた後も、次の五分間分のものプラス一個の音を書くときには、曲頭からそれまで書いたものをすべて聴いていってその一個の音を決める。 *3

 

大海原のとある一角を「ひとつの水」などとはたしかに言い表さないにしても、沖合で盛り上がりつつある海面を指して「ひとつの波」と言ったりすることはとりたてて不自然ではない。だが同じものを指さして「あの一個の波が」と口走っている人がもし隣にいたら、思わず「え?」と聞き返してしまうだろう。大多数の人間の生涯のなかで、液状のものに向かって「一個の」と口にする機会が訪れる回数はまずゼロ回だろうと想像される。近藤譲の言う「一個の音」なるまぎれもない固形物とは「一匹のオタマジャクシ」のことなんじゃないか――そう思っていると、じじつ三番目の引用のすぐ後で、「一個の音」は「個々の音符」と言い換えられている。

 

「私のこの十五年間ぐらいの作曲はどれもほぼ同じような仕方で行なわれています」 *4 という近藤譲の曲づくりは、まず出だしの一つ目の音を決めることからはじまる。「最初の音がとにかくどれかに決まると、それを繰り返し何度も聴く。聴いているうちに、二つ目の音を思いつくわけです。そこで、最初の音のあとに二つ目の音を書く。(……)ともかく、私は二つ目の音を思いついたらこんどは一つ目と二つ目の音を聴いて三つ目の音を、三つ目の音を思いついたら一つ目、二つ目、三つ目を聴いて四つ目の音をというふうに、いつも必ず始めから聴いて、順番に一つ一つ音を前に足していくというやり方で作曲していきます」。 *5 同様の作業を繰り返していった末に最後の一音が決まる、するとその時点で一曲の近藤譲作品が完成することになる。

 

さて、そうなると近藤譲が作る音楽は、エロワが分析した非西欧圏の音楽とは異なり、n個の音(符)に余すところなくきれいに割り切れるとみてよいのだろうか。『線の音楽』の議論によるとどうやらそういうことになりそうである。この本のなかで近藤譲は、割り切れない音、すなわち分節不可能な音の存在を、完全なる無音を除いてきっぱりと否定しているからである。聞こえる音に関しては、「高さ、強さ、長さ、音色、その他の要素の上の差異によって、常に相対的に他の音から区別されて、ひとつの音として認識される」 *6 というのが近藤譲の立場である。この基準のもとでは、「海のような」持続音も、複数の音の接合からなる「sounds」とみなされることになる。

作品全体が分割できないひとつの持続音で成り立っていても、音色等の――音の「長さ」以外のパラメーター――が時間を逐って変化してゆけば、聴き手は「認識上の分節化」によって、その持続の中に「接合されたいくつかの音」を聴き分けてしまい、それは最早文字通りの「一音の音楽」ではなくなる。

(……)

或る作品を構成する音がどれほど単一的な性格を具えていても、音の非分割性と無変化が共に完全でなければ、それは複数の音を含んでいると考えなければならない。 *7

 

要するに、近藤譲がイメージする音は徹頭徹尾、countableなのである。試しに最後の文を、不加算名詞の代表格たる水の世界の記述に変換してみよう。

或る海を構成する水がどれほど単一的な性格を具えていても、水の非分割性と無変化が共に完全でなければ、それは複数の水を含んでいると考えなければならない。

分子レベルまで下りていかなければ意味のとおらないような、なんとも奇怪な文言になってしまう。エロワの次の言葉と比べてもまったく対照的な認識だ。

ヨーロッパなら、いくつかの音に分割され、その間を跳躍進行するように捉えられるものが、インドでは、ひとつのまとまりとして捉えられ、その内部で音は滑るように上下動しているわけです。 *8

 

近藤譲の音イメージの尋常でない水気の無さに恐れ戦いた私は『線の音楽』などほかの著作も読んで理由の把握に努め、おおむね以下のような理解に達した。 

 

鳥のさえずりも、風にそよぐ草の葉ずれの音も、椅子が軋む音も、この世界に鳴り響くすべての音は音楽である――近藤譲はこの種のよくある考え方に与する作曲家ではない。彼のなかには作曲家が作る音楽とはなにかについての私的で明快な定義がある。「作曲とは書く仕事だ」というのがそれである。

筆記文化というもの、これはある意味で長い間西洋の芸術音楽を支えてきたものであって、作曲家というのは、書いてこそできる音楽というものを探究する仕事だ、という自覚をぼく自身個人的には持っているわけです。 *9

その書く仕事のなかでも近藤譲の最大の関心事は、ひとつの音をどうやって別の音に(書き)繋いでいくかという「連接」の問題である。本人は「音をどう繋ぐかということにしか関心がない」 、「この音の次に何の音を置こうかということしか考えていない」 とまで言い切っているので、 *10 「最大」というだけではまだまだ足りない、「唯一無二」と言うべきなのかもしれない。

 

近藤譲が音楽を作るにあたっては、彼の考える作曲行為である、音を「書き」「繋ぐ」作業が実行可能となるように、自然のままの「単なる音」に対して最低限の下処理を施しておく必要がある。木の家を建てるためには、すべてに先立って、森に生えている木を材木に加工しておかなければ話がはじまらないのと同じように。

人が作曲行為によって操作する音は、無前提に存在するわけではない。作曲以前に、音は作曲行為が可能となる状態に準備されていなければならない。 *11

 

近藤譲の場合、この準備作業は一種の治水対策の様相を呈する。音を書き繋ぐということは、要するに音を「所定の位置に並べ置く」ということである(「(私は)一つ一つ音を置いて作曲している」 *12 )。このことから必然的に、音が湛える水の気配はいかなるものであれ抑圧されねばならないことになる。イメージのなかの音が水気を孕んでしまったら、もはやそれを書くことも望みどおりの位置に並べ置くことも覚束なくなってしまうのだから。近藤譲の作曲の用途のために準備される「音楽可能的な音」は、ひとつ、ふたつと、いや一個、二個と明快に数えられるような、イメージのなかで手に取って文字どおり掌握することのできるようなかたちに、余すところなく整然と分節化されていることが絶対的に必要とされるのだ。

 

特に『線の音楽』を読むと強く感じられることだが、近藤譲は「単なる音sound」を複数の「ひとつの音a sound」へと分節化していく人為的工程の大半を、(大半の)人間の知覚が生来帯びているメドゥーサ的特性に起因する必然の産物に帰しているようにみえる。

音は、それが聴こえるものでありさえすれば、ほとんどどんな場合にも分節化され得る。人々の生活を取り巻く様々な音を考えてみれば、意識的にはどのような音も分節化され、他の音から区別され得ることは自明だろう。 *13

 

近藤譲が事もなげに「自明だ」の一言で済ませているこの世界観が私を心の底から震撼させる。変化は感じられるけれども明瞭に分節化はできない、水のように滑らかな連続変化の余地が一切認められないような無味「乾燥」な世界のことを私は想像したくないので、あらゆる音は「常に相対的に他の音から区別されて、ひとつの音として認識される」ではなく、「せいぜい相対的にしか他の音と区別されない」と言うほうを取りたいのだ。近藤譲はそうではない、たとえ相対的であってもこの音をあの音から分けることができるという側面をあくまで強調する。これはひとえに近藤譲が、音は分節化されるものだという信頼のうえに全面的に立脚している連接の音楽のスペシャリストであるがゆえのことだろう。個人的にあまり同意はしたくないけれども、そこが近藤式作曲法にとって譲ることのできない生命線なのだという事情を理解することはできる。

 

それに引き換え、私が同意も出来なければおおよそ理解もし難いのが、GUUZENSEIの音楽とか称するかの有名なアレである。

*1:近藤譲「音楽の意味?」、『現代音楽のポリティックス』、水声社、162頁

*2:同上、163頁

*3:同上、164頁

*4:同上、156頁

*5:同上、158頁

*6:近藤譲『線の音楽』、朝日出版社、1979年、16頁

*7:同上、30頁

*8:エロワ「東洋の声=道」、『現代音楽のポリティックス』、水声社、116頁

*9:小林康夫近藤譲・笠羽映子「音楽のポストモダン」、『現代音楽のポリティックス』、水声社、51頁

*10:「音楽の意味?」、178頁

*11:『線の音楽』、朝日出版社、14頁

*12:「音楽の意味?」、165頁

*13:『線の音楽』、朝日出版社、20頁