アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 6/9

ノーノが一度だけ来日した折(1987年)に一度だけひらかれた講演(12月1日)の内容は、これまでに何度も引用したことがある。その講演は、水声社から出ている『現代音楽のポリティックス』という本に収められている。ノーノを含めた5人の作曲家(クリスチャン・ウォルフ、ジャン=クロード・エロワ、ヴィンコ・グロボカール、近藤譲ルイジ・ノーノ)の講演録。この本を、人間が抱く音のイメージのサンプル集として読んでみよう(標本数=5。全員作曲家なので母集団からの無作為抽出とは言いがたいが)。

 

メドゥーサとアンチ・メドゥーサという二体の怪物を召喚して、一本の軸の右端と左端に陣取ってもらう。右側、メドゥーサの魔法にかかって石のように固化した音。左側、アンチ・メドゥーサの魔法にかかって水のように液化した音。

 

液化 ―――――― 固化

 

右にいけばいくほど「ひとつの音」が容易に認識できるようになり、左にいけばいくほどどれが「ひとつの音」なんだか定かでなくなる。さて、この座標軸の上に5人を配置するとすれば、両端はただちに決まる。左のはしっこにジャン=クロード・エロワ、右のはしっこに近藤譲

 

エロワの音

エロワの講演では、下の例のように非西欧圏のさまざまな音楽(主に声楽)をソナグラフにかけ得られた周波数分布の時間的変化の図(スペクトログラム)が紹介されていく。

 

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全部で24種類のスペクトログラムの実例を次々に示しながらエロワが懇々と説いているのは、これらの音楽が細部においていかに多種多様な動きに満ち溢れているか、そしてその動的な多様性を記述するのに、音符という「点のような個物」 *1 をつかった西欧式の記譜法がいかに不向きであるかの二点である。

 (……)例えばヨーロッパでは、どちらかと言えば、音を一定の高さに保ち、一定の固定されたレヴェルに分類する傾向がありますが、南インドでは、ヴァイオリンでも、ある音を出した後、そこにとどまらずにその周囲をたゆたい、過剰な程の装飾が行なわれるわけで、しかもその装飾の過剰さは声の装飾の過剰さに呼応しています。ヨーロッパでは中世以降、音はいわばひとつの点とも言うべきものになっていきます――記譜法の確立はそうした状況に対応しています――。ある音が持続する場合、その音は一定の高さに保持されます。音符という概念は、音を点ないし点の保続として捉える音響観に通じます。そしてそのような音響観からすれば、今のようなインドの音楽を聴くと、ある音が持続するというのではなく、ひとつの音の周縁での微妙な揺れ動きとして、いわば散歩のようなものとして感じられます。ヨーロッパとインドでは、音に対する態度がひじょうに違うのです。 *2

 

音は不断に動いている、という認識のもとで、「ひとつの音」の自明性までもがゆらゆらと揺れ動き出すのは自然の成行だ。

旋律はきわめて単純なのですが、しかしそれは微細な変化に満ち満ちていて、ひとつの音が続くうちにも、厳密には、それは固定した状態にはけっしてとどまらず、音のドラマトゥルギーといったものが感じられます。 *3

 

上に掲げたスペクトログラムをもう一度眺めてみる。さて、この10秒ほどの旋律はいくつの音でできているでしょうかと聞かれても、にわかには答えられない。よくよく考えてみても、やっぱり答えられない。よくよく聴いてみれば、いよいよなおさら答えられない。

 

スペクトログラムの下には一応参考のために五線譜も付されてはいる。もっとも、音符による通常の点描的記譜法は放棄されていて、代わりに旋律を連続的な曲線で描くやり方がとられている。複雑な部分音構成を一本の線に集約しているわけだから、これだけでも相当な簡略化であるが、北アフリカモーリタニアの歌の例だと、あまりにも音の揺れ動きが激しいため、音高を一意に定めることも場合によっては難しくなるという。旋律線をなぞることすら覚束ないようなものを力ずくでn個の音符に分割しようとすれば、割り切れない(つまり分節という操作を受け付けない)余りが生じることは避けられない。その余っている部分が音の孕んでいる水分である。非西欧圏に生息する音楽的オタマジャクシは、オタマジャクシにふさわしく水のなかを泳いでいるわけだ。

 

講演の最後にエロワがふれているのは、「それに引き換えどうしてわが軍は」という問題である。わがヨーロッパの音楽はどうしてああも対蹠的に、静的で点的な性格を概して帯びているのか。その理由をエロワは西欧文化の基底に横たわる教会の影響力に求めている。

本質的にピューリタンな西欧の教会における声のモデルは天使の声であり、それが純音のイメージに結びついたのではないでしょうか?そのように、西欧音楽の基底には教会があり、教会が行なった音の純化があって、音の純化は同時に非・感覚化、脱・官能化であり、純粋な音を聴いていると飽きてきて、仕方なく音を一点から一点へと変えていくようになりました。そうしないと、何の変化も生じないからです。聴覚的には、ある音からある音への移動を聴くことになり、音と音との間隔、つまり音程が重要な関心事となり、その分だけ音それ自体の価値が軽視されていきました。 *4

 

エロワが話していることは、使用している機器にしても、そこから得られた知見にしても、ノーノがフライブルクのEXPERIMENTALSTUDIOにおいてソノスコープを使って体験したことに酷似している。ノーノ風に言えば、エロワは非西欧圏の音楽にsuono mobile(動いている音)を発見したのである。教会を意識したエロワの比較文化モデルのノーノ版にあたるのが、クレド(我信ず)の精神に発するカトリックグレゴリオ聖歌と、アスコルタ(聞け)の精神に発するユダヤのシナゴーグの歌の、静と動の対である。クレドとアスコルタの対比ならノーノはPrometeo初演前の1984年春に行われたカッチャーリとの対談 *5 で既に話しているし、グレゴリオ聖歌シナゴーグの歌の対比は少なくとも1983年初演のGuai ai gelidi mostriの時点でノーノの意識に上っている。 *6 しかしこの両者の紐づけが確立したのは、1986年のエドモン・ジャベスとの対話をとおしてではなかったかと思う。 *7 ジャベスの啓示以降、このネタはノーノが事あるごとに披露する十八番のひとつになった。1986年12月19日のWerner Lindenとの対話のなかでは、ありがたいことに2種類の歌の違いを分かりやすく絵に描いて説明してくれている。 *8

 

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※上はノーノが描いた絵そのものではなく、Lindenが記憶をもとにノーノの絵を再現したもの

 

一瞥してこの両者は成分組成が異なっているようにみえる。では下側のシナゴーグの歌にあって、上側のグレゴリオ聖歌にないものはなにか。「水」のひとことですべて説明がつきそうだ。これは石段と波のうねりの違いである。

 

そう言い切ってしまった直後にいまいちど考えを改める。いや、水分の有無と言うのは適切ではないな、治水対策の有無と言うべきだろう。たとえば人間。御存知のとおりヒトの体の半分以上は水からなっているので、向こうのほうから歩いてくる誰かを四捨五入の原理にしたがって「あ、水だ」と呼ぶこともできるはずだ。ところが現実には一向にそう見えないのは、人体の過半を占める水の気配が周到に抑圧されているからである。言語。エルンスト・ユンガー曰く、語は子音と母音の合成であり、母音(という水分)を子音のかたい甲皮で捕えることによって、人間が自在にハンドリング可能な対象物としての単語(a word)になる。言語化とは一種の固化のようにもみえるが、個々の単語の内部にはじつは潤沢な水分が潜在していて、戦場のような特殊な条件下で「子音が焼きつくされる」 *9 とその水があたり一面に滲み出してくる。鐘の音。人間のイメージのなかで生じる鐘の音の固化は脱水処理ではない。余韻の水分......iiiiiiiii......をtとnの子音の殻で囲って封じ込めた結果(tiiiiiiiiiiin)である。ユンガーの言語の場合とまったく同じ。固化は文字どおり「表面的」な現象である。カトリックの堅い信仰の歌が、表面を覆う強固な皮殻の内部に水をふんだんに湛えているということはだから十分にあリ得る――いや、そうに違いない。無限の似姿のように水は遍在し、ただその存在様式が顕在化したり潜在化したりして、まちまちに変化していくのである。

*1:ブルーノ『原因・原理・一者について』、加藤守通訳、東信堂、94頁

*2:ジャン=クロード・エロワ「東洋の声=道」、笠羽映子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社、114~116頁

*3:同上、118頁

*4:同上、128~129頁

*5:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*6:Andrea Cremaschi (2005). Parola-suono-silenzio: Guai ai gelidi mostri di Luigi Nono. In: Cremaschi, A. & Francesco, G. (eds.) Il suono trasparente. Analisi di opere con live electronics. Rivista di Analisi e Teoria Musicale. Periodico dell’Associazione Gruppo di Analisi e Teoria Musicale (GATM) 2: 35-68. という論文に詳しく書かれていそうだが、Abstractしか読んだことがない。

*7:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 52-53.

*8:Werner Linden (1989). Luigi Nonos Weg zum Streichquartett: Vergleichende Analysen zu seinen Kompositionen Liebeslied, .....sofferte onde serene.... Fragmente-Stille, An Diotima. Kassel: Bärenreiter, p. 256-257.

*9:エルンスト・ユンガー「母音頌」、『言葉の秘密』、菅谷規矩雄訳、法政大学出版局、19頁