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アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 5/9

ゴーン

人間のメドゥーサっぽいところが視覚だけではなく聴覚にも及んでいることを確認するために、頭のなかで鐘の音を鳴らしてみる。

 

ゴーン ゴーン ゴーン キーン コーン カーン

 

これは和風の鐘の音。英語圏だと多少表記が変わってDing Dong...になる。ドイツやフランスでも同様らしい。イタリアやスペインではDin Don、オランダではBim Bom……と、お国は変われどいつでも必ず決まり事のようにケツにくっついている「ン」や「ng」や「n」や「m」、これこそは、人類の性とも言うべき形への憧憬がつくりだした、音と沈黙の「架空の境界」である。

 

Risonanze errantiの曲中で何度となく強打されるクロタルの音に耳を澄ましてみれば分かるように、本当の鐘の音は決して「チーン」などと鳴ったりはしないものである。クロタルを一発、強く叩く。するとまず聞こえてくるのは<t>といった感じの、堅く乾いた子音的な手触りの音だ。だがその一瞬のアタックの後に続くのは、ただひたすらiiiiiiiという母音のこだまばかりである。そしてその<i>音は、長く尾を曳きながら徐々に減衰して沈黙のなかへと有耶無耶に融け込んでいく。

 

tiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii

 

音と沈黙を截然と区切る「ン」だとか「ng」のような境界線はどこにも見当たらない。現実の打撃音は、先端部のごく小さな堅い核から余韻という名の不定形な水分を大量に滲み出させて、なにか彗星を彷彿とさせるような、甚だ糢糊曖昧とした形状をなしている。人間のイメージの世界への入国審査で槍玉にあがるのはそこである。液体を垂れ流し状態のこんなだらしない恰好で我が国をウロウロされては困るということで、沈黙のほうへの音の分泌をある時点で完全に遮断するストッパーがあてがわれる。

 

tiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiniiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii

 

その余は無いものとしてバッサリ切り捨てるとしよう。

 

tiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiin

 

こうしてtとnの固い枠のなかに水が封じ込められて輪郭が一意に固定され、「ひとつの音」としての確たる身分証明を鐘の音が獲得した時点で、はじめて入国許可がおりることになる。こんな案配で、見たものだけでは飽き足らず、聞いたものまでメドゥーサ譲りの魔法で片端から固化させてしまうものだから、人間の知覚世界(ただし一部例外は除く)は四季をつうじてそれは深刻な水不足に苛まれているのである(その一方で、記憶のなかのものが押しなべて水気を孕んでいるように感じられるのは、忘却がものを次第に溶かしていくからだろうか)。

 

「ただし一部例外を除く」。その例外が、ヴェネツィアの鐘の音を語るノーノである。なんたるアマノジャクぶりだろうか。架空の輪郭線の付与によってゴーン、ゴーン、ゴーンとn個の独立した音の島へ固化を遂げていくはずの鐘の音が、ノーノのなかではあろうことか、ゴーンのンどころかゴの音すら聞き取り得ないひとつづきの音の海へと溶解してしまっているというのだから。この目くるめく「魔術」のカラクリがヴェネツィアの空間構造だけで説明のつくものだとは正直信じがたい。ヴェネツィアの空間が具える資質と、ヴェネツィアの音を聞いているノーノ自身の資質、その両者が相俟った協同作業の賜物とみるのが妥当である。凡百の人間の思いもよらぬところに潮騒を聞き取るノーノの耳のなかでは、凡百の人間とまったく逆向きに現実が歪んでいく現象が発生しているに違いない。おそらくノーノは、メドゥーサとは別の非常に希少な怪物から魔法を継承しているのである。その怪物の名はアンチ・メドゥーサ。見たもの、聞いたものを水のように液化させる異端の魔術の使い手。

 

最終的な結果からみれば確かにそのとおり、「液化」である。だが、そこに到るまでの作用機序をいますこし詳しく吟味してみよう。

 

  1. ノーノの耳が聞くヴェネツィアの鐘の音は、凡百のメドゥーサ系の人間の基準からすればいくらなんでも融けすぎである。
  2. 融けすぎの原因は、音の混ざりすぎ。
  3. 混ざりすぎの原因は、音の反射しすぎ。←現実の歪みは直接にはここに生じている。

 

ヴェネツィアの音を語るノーノの発言を聞くたびに私が抱く素朴な感想は、「しかしそんなに反射すっかなあ」である。島の内部に縦横に張り巡らされた小運河のほとりならまだしも、「ノーノのヴェネツィア」の中心部にあたるこのジュデッカ運河のような、

 

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※ザッテレの岸辺に立つノーノの生家正面から見た眺め

 

いかにも海の辺らしい平坦でひらけた空間において、音が水のように溶けてしまうほどに混ざり合ってしまうほどの多数回にわたる複雑な反射が生じるということは、少なくとも現実世界では少々考えづらいことである。ノーノのイメージの世界にだけ通用する独自の物理学がはたらいている。たとえば尾形亀之助の詩の世界のなかでは現実世界と異なり夕陽は低い窪みに溜まる、それと似たようなものである。ノーノはあたかもそこが海洋都市にあるまじき起伏に富み、複雑に入り組んでいて、発せられた音が乱反射を繰り返すのに理想的な環境であるかのような体で、ヴェネツィアの空間を語っている。どうやらノーノが駆使しているイメージの魔法は、ヴェネツィアの音そのものに直接向けられるのではなく、ヴェネツィアの街の形を定めている石や煉瓦や海面に作用し、それらもろもろの辺の反射特性を大幅に高めて超反射面へと変貌させる強化系の特殊能力であるらしい。音が融けてしまうのは、イメージのなかでヴェネツィアの街が過剰に堅くなり、立体化したことの反作用である。

 

別の言い方をしよう。抑えがたい海への渇望を癒すがために、ノーノは水辺に直接歩んでいくのではなく、その場でイメージのなかに船を建造する。「船」とは人間が海を渉っていくのに必要とされる堅く立体的な構造物の総称である。サン・ロレンツォ教会に設営されたPrometeoの演奏空間はまさにそれを具現化したものだ。教会の内部に据えられた木製の巨大な構造物は意図的に船を模したものであるが、Lydia Jeschkeが指摘しているとおり、 *1 船は古くから教会のシンボルでもある。「『教会』の小単位となる個々の教会の建物もまた船であり、信者たちはひっくり返した船にほかならない身廊の下に集うべく招かれている。穹窿は船底であり、後陣は船首、正面は船尾である」。 *2 だから、実はここには材質の異なる二艘の船がある、石造りの堅い「我信ず(クレド)」の船と、木製の軽くて可塑的な「聞け(アスコルタ)」の船と。石の船と木の船は合わせ鏡のように並び立ち、複雑に相互作用する反響体として機能することになる。

 

二艘の船の並立が産み出す音響空間についてHans Peter Hallerが所見を述べている。 *3 まず木の船の内部で小さな音を発してみる。音の質感は比較的乾いていて(relativ trocken)、定位も容易である。そこで音量をやや上げていくと、ユダヤの仮庵のように到るところ隙き間だらけの木の船から音が漏れ出し、外側の堅牢な石の船にぶつかって反響するようになる(堅い石は音をよく反射する)。木の船の中で鳴っている乾いた音に外から流れ込んできた反響音が入り混じり、音像が一変する。具体的にどう音が変化するのかについてHallerは明記していないが、要はtrockenではなくなる、水気を孕んでくるのである。その水分は、カトリックの信仰のごとくに堅く揺るぎない石の関与なくして生じることはなかった。

 

「船の形体は必然的に海を目ざす」 *4 ものであるから、ただ船を建造するだけでもおのずと行く手に汐の香はたちのぼってくるものだ。反射面の集合体としての船はそこからもう一段進んで、「自らが航行する海を自らが産み出す船」という、いっそう過激な船の存在形態を表している。海のあるところに船が浮かぶのではなく、船のあるところに海が生じるのだ。ノーノが造る船は海をその胎内に孕んでいるマザーシップである。

 

ひとつの音

他人の頭のなかを直接覗き見ることはできないので、自分以外の人間のイメージのなかで音がどのような存在形態をとっているかは、外に表われているもろもろの指標を手がかりとして間接的に推し量るほかない。「ひとつの音」という言葉は、そのなかでも特に信頼性の高い指標である。

 

ひとつの音。ありふれた言葉。誰もが当たり前のように使う表現。たとえば、「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」。 *5 だが、ちょっとひっかかるものがある。ひとつの音?ひとつ?これは英訳するとすればやはりa soundになるのだろうが、音というものはa sound, two sounds, three sounds......と数えられるようなものだったんだろうか。

 

ひとつの音、と口にしている人の頭のなかで鳴っている音を想像してみる。もし仮にそれが、「海」に喩えられるようなすっかり溶けきった状態の音だったとしたら、まずこういう言い方にはならないだろう。人はおもむろに海の一角を指さして、「そこにあるひとつの水が」などとは言ったりしないものである。「ひとつの」と形容されるような音は、海よりは、その海の上に点在する個々の島にずっとよく似た姿をしているに違いない。ところで、「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」という先の例文から明らかに読み取れるのは、その島のごとき「ひとつの音」なるものこそが、人間の作為の手垢に汚されていない、純粋な、ありのままの音の姿だという含意である。

 

ノーノもときどき「ひとつの音」と言うことがある。ただしノーノはこの言葉を、ひとつの音ってのは言うほど「ひとつ」じゃないよね、という文脈で主に用いる。といっても、ひとつの音とみられるものは実は複数の部分音からなる複合体で云々とかいう、例のよくある話ではない。ノーノが指摘しているのはもっと深刻な事態である。

... anche se la "base" è unica - mettiamo un Do - il suono diventa sempre continuamente un "altro Do" perché è impossibile mantenere fisso e stabile un suono dato in quanto la qualità, le "parziali", gli armonici più alti, cambiano continuamente. *6

*

たとえ基音が一つであったとしても ――「ド」であるとしましょう――その音はたえず、不断に、「別のド」になるのです。というのも、音の質、部分音、高次の倍音は不断に変化していく以上、問題の音を固定し安定的に保つことは不可能だからです。

音は水のように絶え間なく揺れ動き、刻々と変動していくものなので、そもそも「ひとつの音」の輪郭を画定することなどハナからできない相談だということである。こうしたエピソードひとつとってみても、ノーノのイメージの世界はじつに「みずみず」しい(文字通りの意味で)。さすがは海の作曲家だと思う。

 

*1:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 206.

*2:ミシェル・フイエ『キリスト教シンボル事典(文庫クセジュ)』、武藤剛史訳、白水社、150頁

*3:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 174.

*4:桑原徹『要素』、書肆山田、24頁

*5:武満徹「一つの音」、『音、沈黙と測りあえるほどに(新潮社)』所収

*6:Luigi Nono (1985) Altre possibilità di ascolto.