アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 2/9

ヴェネツィアの石(承前)

「石を聞く」、その言葉の意味を探るために。1988年のサン・マルコ寺院前の談話のなかで、ノーノが「架空のスピーカー」と言っていたことを思い出そう。80年代のノーノが没頭していたライヴ・エレクトロニクスは、ヴェネツィアの空間が日々成し遂げていることを、電子回路上に仮想的なヴェネツィアを構築することによって再現しようとする試みだ、という側面が多分にある。ならば逆向きの連想も可能だろう。ヴェネツィアの街に張り巡らされた、不可視の音響加工回路を想ってみること。石はこの回路の主要なパーツである。

 

・ライヴ・エレクトロニクスによる音響加工のフローチャート

共通の骨格は「入力→音響加工回路→出力」の三段階である。会場の演奏音がマイクロフォンに入力されて電気信号に変換され、電子回路をくぐり抜けて変貌を遂げた音がスピーカーから再び会場に出力される。入力と出力のあいだに挟まっている回路には、楽譜に書かれた音符にしたがって発せられた演奏音が鳴り響くその同じ時空間に、まったく別のサウンドスケープを二重刷りのように出現せしめる力が――いまここにある現実をいまこの場で別様に覆すことのできる力が宿っている。これは電磁的手法による一種のsubversionである。 

 

・ノーノが語るヴェネツィアの音の変容/転覆のフローチャート

第一段階、入力。ヴェネツィアに鳴り響く音といったらそれはもう多種多様であるが、ノーノのなかで主役の座を占めているのは鐘の音である。「霧が濃い日には、島の位置を知らせるために鐘楼の鐘が鳴り続けるんですよ、Dong Dong Dongとね……」、 *1 ノーノのヴェネツィア話はいつもそんな風に切り出される。ノーノに倣ってまずは脳裏にひろがるヴェネツィアの街に鐘を鳴らしてみよう――Dong Dong Dong 和風に言えばゴーン ゴーン ゴーンか――それが入力シグナルである。

*

第二段階、回路。空中に放たれた鐘の音がくぐり抜ける音響加工回路は、ヴェネツィアの都市空間それ自体である。pietra su pierta *2 ――石の上に石を積み重ねて茫漠たるラグーナの只中に築き上げられた稀有なる海洋都市の外形をかたちづくるもろもろの辺――建物や塔の石造りの壁面、舗石や水面――が反射面としてはたらくことによって、この回路は作動する。

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第三段階、出力。反射を繰り返すにつれて別様に変化していった音が向かう最終的な出力先は、空である。 

ヴェネツィアで)人は空や光の、あるいは建物の石の上の色彩の変化に誘われるかのようにして、共に混ざり合っていく感覚的印象へと到ります。人は教会の鐘の音の響きあいを、そのハーモニーが街に反響するのを、そのこだまが水の上で余韻を響かせるのを、そして空に消えていくのを聞きます。 *3

*

不意にヴェネツィアの鐘が鳴り響く。鐘の音が宮殿のあいだを揺れ動き出し、水面から壁へと投げ返され、壁がまたそれを反射して、最後には空へと消えていく。 *4

 

Guai ai gelidi mostri初演直前のインタビューでノーノが口にした「il cielo sia una creatura delle pietre, dei mattoni, dell’acqua 空は石と煉瓦と水の被造物である」という表現は、以上の過程の簡潔な要約とみなされる。そこで肝腎なのは、反射が具体的に音をどのように変容させるかという問題だ。

 

時刻は正午近く。カナル・グランデに架かる橋の上にノーノと佇んでいる、と想像せよ(1988年に北ドイツ放送が制作したドキュメンタリーLuigi Nono. Portrait des italienischen Komponistenの冒頭にて)。

私たちは今、カナル・グランデに架かるアッカデーミア橋の上にいてサン・マルコのほうを向いています。有名な場所ですね。あまり注意を払われていないけれども私が魅かれているものは、この場所で水と運河と空と空気と建物によってつくり出される特別な音環境です。さあちょうど今、鐘の音が正午を告げています。ヴェネツィアにあるこれら多数の鐘、サント・ステーファノ、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ、サン・トロヴァーゾ、サンタ・マルゲリータの鐘、それと同時にサン・マルコの鐘が鳴り響き、それらが一体となって、ひとつの音響体eine Klangeinheitを成していきます。おのおのの鐘が他の鐘と響き合い、ある鐘が別の鐘の音と干渉し、そうして経路を見つけ出していく、その行程のはじまりを見定めることはもはやできません。 *5

(……)

屋内と同様に屋外で私をもっとも魅了するのは特別な音響空間です。その始まりも定かではない、まさにヴェネツィアのきわめて特別な音楽。不意にヴェネツィアの鐘が鳴り響く。鐘の音が宮殿のあいだを揺れ動き出し、水面から壁へと投げ返され、壁がまたそれを反射して、最後には空へと消えていく。この音現象には、ヴェネツィアのすべての鐘が関与しています。(…) 空間は音の絶えざる変遷を、永遠の漂泊を、ヴェネツィアの音の流浪を可能にしています。鐘の音は舗道の足音や小型モーターボートのエンジンの唸る音と重なり合い、再び水の音楽と混合していく。 *6

 

季節は冬。ジュデッカ島の南岸をごく低速で航行する小舟にノーノと揺られている、と想像せよ(Olivier Mille監督による1988年のドキュメンタリー映画Archipel Luigi Nonoより)。

多種多様な音がある、それらの音の質、それらの結びつきcombinazione、コンポジションcomposizione――空間の中での、水の上の――壁を介しての、反響、gibigiane *7 ……。これらすべては、教条主義的な音楽が妨げている、音楽についてのある考え方を産み出していきます。音楽は生の一要素になる……耳の、心の、脈動の、感情の、体験された感情の要素に……まさに「魔術」と呼ぶほかない――(近くを走り去ったモーターボートの引き波を受けて舟がひときわ大きく揺れるが、ノーノはそのまま話を続ける)――、このヴェネツィアの空間の本当の神秘のなかで。あらゆるものが到来する、その訪れを告げることなしに。それはマーラーの『交響曲第1番』の冒頭のようです。人はその只中に浸っている。ここではまさに……私はこの音楽の中に常に浸かっていたのです。  *8

 

さて、上の発言のなかでノーノはコンポジション(conposizione)といういかにもカッチャーリ風な語彙を口にしているが、これが前に言った「表面を覆うサクサクした衣」の一例である。「さまざまな声がけっしてひとつに融けあうことはできないままに合成されており、それらの確固とした差異を維持しながらの合成を要求している、そのような相対立する声の複合体」 *9 とカッチャーリが言う意味での合成=composizioneと呼ぶにしては、ノーノの描き出すヴェネツィアサウンドスケープはあまりに深々と水の気配に侵されている。うわべの飾りつけに惑わされることなく虚心坦懐にノーノの言葉を辿っていけば、ここで語られているのがノーノの用語で言うところのcon-fusioneの過程――さまざまな音が水のようにひとつに融けあっていく過程であることは否みようがない。

 

ヴェネツィアの空間が奏でる音楽は、堅くかわいた陸地に端を発する。五線譜上に書き込まれた音符のごとく陸上のあちらこちらの定点に座を占めるいくつもの鐘楼から、鐘が打ち鳴らされる。Dong Dong Dong...... 陸に点在するn個の音源から発せられるm回の鐘の音はしかし、建物の石の壁や石畳や水面にぶつかって反射し、宙をとりどりの方向に行き交う過程で互いに(あるいは舗道の足音、モーターボートのエンジン音、潮騒などの別の音と)、否応なく混ざり合っていく。「(ヴェネツィアで)人は空や光の、あるいは建物の石の上の色彩の変化に誘われるかのようにして、共に混ざり合っていく感覚的印象へと到ります」。 *10 その涯にさまざまな音はひとつに融けあう、渾然一体となって eine Klangeinheitひとつの音響体をなすと、ノーノははっきりそう言い切っている。「さまざまな」どころか「すべての鐘が」とまで口にしている。これはまさしく「海」と呼ぶにふさわしい音の様態ではないか。ノーノが毎度強調しているのは、そこではもはや個々の音のはじまりを聞き取ることができないということである。たとえばDongなどといった擬音で表される、比喩的に島と名付け得るような一定の輪郭をもつ音像を、この海のどこにも見つけることができない。「固有性を持った <しま> が確固として存在する」という群島都市ヴェネツィアの大前提が根底からくつがえってしまったかのようだ。

 

すべてが渾然一体となって融けあっているこの状態が、ノーノにとって一様化、均質化を意味するものでないのは言わずもがなのことである。言わずもがなではあるが、これまで引用したことのない発言をひとつ例証として挙げておこう。1988年、仕事場のあるジュデッカ島の南面の、航路を教える木杭が僅かに点在するばかりの茫漠たるラグーナの眺望を前にしてノーノが語った言葉である。

ヴェネツィアの南側は例外です。なぜならここにはこの厖大な空間が、無限なるものがある。この静寂、この色彩と音色の千変万化。静的な状態をほとんど完全に埋没させるこの混合(Vermischung)を見ること、聞くことができます。 *11

ついでにもうひとつ。1986年の8月中旬に、ノーノは北極圏への船旅に出かけた(この旅の印象は翌年にかけてのRisonanze errantiの改訂作業に影響を及ぼしたかもしれない)。同行者が寝静まった深夜――と言っても昼間と遜色ないくらいに明るいのだが――の船上でノーノがひとり飽くことなく眺めていたのも、海と雲と氷山に濾過された光の織り成す、色彩の絶えざる変容trasformazione continuaであった。 *12 海は尽きることのない可変性だというノーノの信条は揺らぐことなく不変である。1978年、ジュデッカ島の仕事場を訪れたハンガリーの指揮者・音楽批評家Várnai Péterとの長い対話をノーノはこんな言葉で締め締めくくっている。「私の家からはヴェネツィアのラグーナの一角をこうして直接見ることができます。私はここヴェネツィアに産まれ、水、海を、私自身の本質的な要素だと感じています。しばしば私は変化を観察します、色彩の変化、その移ろい、その動態を、家の窓から、あるいはじかに海で」。 *13 ところで、先の発言でノーノは「例外」と言っていたけれども、ヴェネツィアの南側は実のところ決して例外ではなかった。サン・マルコ広場だろうとカナル・グランデの橋の上だろうとザッテレの岸辺だろうと、ヴェネツィアのなかぞらにはどこにでもいつであっても、「この厖大な空間が、無限なるものが、静寂が、色彩と音色の千変万化が」連綿とつづいていることをノーノの耳は聞き取ったのである。 

 

ヴェネツィアの街に張り巡らされた不可視の音響加工回路は、この街に未曾有のアックア・アルタを引き起こす回路であった。水の都に犇めきあう数多の形象を覆い尽くす、はじまりも終わりもない広大無辺の音の海。実際のアドリア海や太平洋のような海とは異なるそのおおいなる「別の海」は、反射現象の一側面である、跳ね返した音を虚空で混ぜ合わせてcon-fusioneさせる作用をとおして生まれてきた。石とコンビを組んでいる共演者の水も、ここではもっぱら水面=反射面として――陸界と水界を厳然と分かつ境界面として、ヴェネツィアの音の変容劇に参加している。縁も境界もない広大無辺のものを産み出すために、ヴェネツィアの街を構成する雑多な個物の縁や境界が利用されているのだ。海の産みの親が反射ならば、反射の産みの親は形である。ものの輪郭をかたどる確固たる面が与えられたその時点で、反射はいつでもどこでも自動的に生じるものであるから。とすれば、形は海の祖母ということになる。

 

世界には表面と裏面があるのではないかとノーノは言った。表の世界――あらかじめ定められた囲壁gironi prefissati *14 でガチガチに束縛された、窮屈きわまりないこの日常と、裏の世界――逐われし者、もしくは逃がれし者を乗せた阿呆船が渉っていく、茫洋たるあの別の大海原と。ノーノはヴェネツィアの都市空間に、二つの世界を接続する回路を見出した。驚くべきことに、後者は前者から産まれてきたものであった。ヴェネツィアのなかぞらにひろがる広大無辺の音の海の底には、数々の反射面が海底遺跡のごとく、あるいは沈没船のごとく立ち並んでいる。海を充たしている水はすべてそこから滲み出てきたのである。厭わしいgironi prefissatiはただ単純に否定すべきものではない。否定どころか、それは世界の裏面を水で充たすために必要不可欠な存在である。ヴェネツィアのための2つのモットー。Découvrir la subversion――堅い硬直した壁面や舗石がその堅さゆえに有している裏の機能を見つけ出せ。Ascoltare le pietre bianche――白い石や赤い煉瓦から絶えず漏れ聞こえてくる形なき海のしらべに耳を傾けよ。

*1:Luigi Nono (2015). Äußerungen zu Venedig 1957-1990. In: Geiger, F. & Janke, A. (eds.) Venedig - Luigi Nono und die komponierte Stadt. Münster: Waxmann: 185-226, p. 224.

*2:pietra su piertaはGuai ai gelidi mostri第4章の詩句で、エズラ・パウンドのCanto XXVIIからの引用(原文 stone upon stone)。

*3:Nono (2015), p. 218-219.

*4:Nono (2015), p. 223.

*5:Nono (2015), p. 222-223.

*6:Nono (2015), p. 223.

*7:gibigianeとは反射がもたらす一現象を指す言葉。Archipel Luigi Nonoの別の場面で、壁面に映る水の反映を見ながらノーノがこう説明してくれている。「ここではヴェネツィア人がgibigianeと呼んでいるものを見ることができます。水の反射、それが木を変化させ、壁を動的なものにする。ここには静的なものはなにもありません」。

*8:Nono (2015), p. 224.

*9:カッチャーリ『死後に生きる者たち』、上村忠男訳、みすず書房、271~272頁

*10:Nono (2015), p. 218.

*11:Nono (2015), p. 224.

*12:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987). In: Restagno, E. (ed,) Nono. Torino: EDT/Musica: 3-73, p. 39.

*13:Nono (2015), p. 197. ハンガリー語原書Luigi Nonóvalのpdfは http://mek.oszk.hu/06700/06743/pdf/06743.pdf

*14:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 42.