アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 9/14

船に乗る人、乗らない人

世の中には二種類の人間がいる、海に船を浮かべる人間と、浮かべない人間と。

 

「意欲的すぎる意志が、あなたの邪魔になっている(あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることが、あなたの邪魔になっている)」 *1 、弓術の阿波研造師範は弟子のオイゲン・ヘリゲルにそう教えを授けた。私には方向性があり、海(に喩えられるような世界)には方向性がない。ならば私を方向づけているもの全般が私と世界の合一を阻む障害であるに違いない、とするのは理にかなっているようにみえる。「進みゆくものよ、進むべき道はない、ならば進むべきではない」――かくして「移動を行うための意志」 *2  をそのまま形にした船(船の左右対称形は船が進みゆくものであることの証である)は廃船に逐いやられる。「おお愛の海よ、それを知るのは溺れるものだけで、その海上を船でゆく者ではない!」 *3 ――『特性のない男』のアガーテが兄ウルリヒの日記に見つけたこの格言は、「一切の我欲を捨ててしまう」 *4 こと、「知識も意欲も心の外に遠ざけ」 *5 ることという千年王国(別の状態)への入国条件から必然的に導かれたものである。

 

ジョルダーノ・ブルーノの信ずるところでは、彼の用語では「無限の宇宙」と言い換えられる世界(一なる無限の宇宙とその中に存在する有限の諸世界は別物であるゆえ)との合一には「意欲的すぎる意志」こそが必要不可欠である。英雄的狂気。ブルーノが意欲的すぎる意志に冠したその呼称を表題に採った著作の中では、ムージル千年王国ではタブー視されている「活溌に獲物をめがけて飛びかかる」 *6 狩猟のメタファー(「獣の足跡を追う猟師のように、一つの観察を追跡し、これを考究するというふつうの意味では考えなかった」 *7 )が一度ならず呼び出される。「自らの糧をある種の狩猟を通じて求める熱意」 *8 /「アクタイオンは、神的な知恵の狩猟と神的な美の把握を目指す知性を意味しています。 *9 (……)そして、この狩猟は、意志の働きによってなされます。彼が対象へと変身するのも、意志の活動によってなのです *10 」。同じ本の別の箇所では人間の意志がまさに船の形をとって現れている場面を見つけることもできる。「この将軍とは、人間の意志のことです。それは、魂の船首に座り、理性の小さな梶を手に、自然の猛々しい波に対して、内なる能力の情念を支配するのです」。 *11

 

阿波研造とジョルダーノ・ブルーノ。彼らが最終的に行き着こうとしている先はどちらも同じである。主客の別が消失し世界(または無限の宇宙)との合一が成就している、「われわれの存在が事物の、そして他の人びとの存在と溶け合う」 *12 ひとつの海のような状態。だがこの両陣営は、その同じ海にまったく正反対の向きからアプローチを図ろうとする――惑星上の北回りルートと南回りルートのように。そして片方の半球の洋上にだけ、船の航跡が刻み込まれる。

 

アクタイオンの神話をモデルとしてブルーノは、無限者との合一へと到る道筋を、神性=無限性を追い求める狩人が、逆に獲物に転じて仕留められる過程として描き出している。狩る者が狩られる者になるとはつまり、「いままで探していたものに自分が変身する」ということである。「彼は、すでに神性を自己の内へと縮限したので、自己の外に神性を探す必要はなくなった」。 *13 無限をどこかに追い求めていた自分自身が、当の無限の一要素であることを悟ったということ。この考え方自体は、「射る者と射られる者とがもともとは同一であることを想起すること(アナムネーシス)としての、自己自身を狙うこと」 *14 という弓術の思想に酷似している。違っているのはそのための具体的な方途だ。弓術の師匠はお前の意志が妨げになると言う。心からあらゆる雑念を振り払い、「知識も意欲も心の外に遠ざけ」からっぽの器のようになって、全き忘我のうちに世界の只中へと融け込んでいくこと、それが弓術における対象との一体化の術である。「狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。(……)私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。(……)的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。(……)それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます」。 *15 ブルーノは逆に、「対象へと変身」するためにはお前の意志が必須だと説く。無限そのものを仕留めようという、エイハブ率いるピークォド号にも似た狂おしい野望に燃える船が、進みゆく道のその果てで進みゆく道なき無限の大海に呑み込まれる最後の瞬間まで、意志の船影がブルーノの視界から消えることは決してない。

 

ムージルの『特性のない男』では船に乗る人と乗らない人をそれぞれアクティヴィスト(あるいは外的、食欲的、動物的、西洋的、ファウスト的)とニヒリスト(あるいは内的、非食欲的、観想的、植物的、東洋的)の名で呼んでいる。1925年のエッセイ『新しい美学への端緒』でこの二者を特徴づける感情の状態が「通常の状態」と「別の状態」の名のもとに比較対照されていたとき、両者の関係は非対称性の印象のほうが勝っていた。要するにかたや平凡かたや非凡という図式である。実際このエッセイの中でムージルは通常の状態を「中間的な」 *16 の語で修飾している。『特性のない男』で変化したのは、別の状態の対抗軸(旧称・通常の状態)が、北極に対する温帯のような中庸なものではなく、南極のようなもうひとつの極へと格上げされた点である。それがもっとも明瞭に示されるのが、絶筆となった「夏の日の息吹」の章である。千年王国の現前とも目される花びら舞い散る庭の詩的描写で名高いこの章の後ろ半分以上を占めているのは、人間がもつ「二つの情熱のありかた」をめぐって交わされる兄妹の対話である。「奇妙なことに」、この対話のなかでウルリヒの関心は、静的な情熱としての「別の状態」ではなく、人間感情の能動的で貪欲な面にもっぱら振り向けられ、食欲的、動物的、ファウスト的などとここで形容される動的な情熱の再評価とも受け取れる議論を経たのち、最終的に、アクティヴィストとニヒリストという動と静の両極の中庸にレアリストという第三の属性をおいた対称的な構図の呈示にいたる。

 

アクティヴィスト←レアリスト→ニヒリスト

 

アクティヴィストとニヒリストは、やり方こそまったく異なれど、「一種の神を夢みる」者であるという点においては一致をみており、「現実世界をしかと見さだめ、堅実に努力を重ねるレアリストとは似ても似つかぬ存在」である。「夏の日の息吹」の結尾でしめされるこの展望を大川勇は、妹アガーテとの再会からこのかた、千年王国(別の状態)を他ならぬ至上の理想郷としてひたすら追求していく過程でしだいに失われていったウルリヒの可能性感覚の復活を告げる言葉として捉えている。 *17

 

Nono meets Melville

ノーノの全作品をムージルのあの大長編小説に重ね合わせるなら、カッチャーリとの共同制作でPrometeoへと連なる作品群を生み出していた70年代後半から80年代半ばにかけての一時期(Verso Prometeoと呼ばれている)は、ウルリヒとアガーテの千年王国探求のエピソードを中心に据えた『特性のない男』第三部「千年王国のなかへ」(Verso il regno millenarioと訳されている)とちょうど対応関係にある。Prometeoのためにカッチャーリが編纂したリブレットの一角を成す、大半はヴァルター・ベンヤミンの言葉で構成されている詩Il maestro del giocoの第X連は、ウルリヒが千年王国を海のイメージでアガーテに語った「この海は動きもなく、永久に続く結晶のように純粋な出来事だけで満ちている閑寂境なのだ」 *18 に由来するfar del silenzio CRISTALLO / colmo di eventiの二行を忍ばせている。同じくだりをさらに圧縮した「純粋な結晶」のキーワードは、Prometeoの制作期間中に刊行されたカッチャーリのDallo Steinhof(邦題『死後に生きる者たち』)を貫流するライトモチーフの一つである。先に引いたヘリゲルの弓術の師匠の「意欲的すぎる意志が、あなたの邪魔になっている」という反ブルーノ的な教えは、その『死後に生きる者たち』の「弓術」の章から拾ってきたものであった。

 

Prometeoの完成をもって約10年にわたるカッチャーリとの創作ユニットを解消し「ソロ活動」に復帰したノーノが取り組んだ最初の大きな作品がRisonanze errantiである。昨秋édition luigi nonoの第一弾として仏shiiinレーベルからリリースされたRisonanze errantiのマルチチャンネルSACDの精緻を極めた解説(Marinella Ramazzotti執筆)によると、本作はPrometeo世界初演直後の1984年10月から翌年3月頃にかけて芽生えたLiederzyklusの構想に端を発している。それがRisonanze errantiとして実を結ぶまでの間にLiederzyklusの草案は三たびの変遷を経てきた。前身の3つのLiederzyklusを構成するそれぞれ4曲の表題がノーノのスケッチや書簡から判明している。 *19

 

第1の連作歌曲

  • ATMENDES
  • DA SEIN
  • L’INFRANTO
  • INQUIETUM

*

第2の連作歌曲

  • χαῖρε
  • UNRUHE
  • MATTINO
  • ARSO DI SETE

*

第3の連作歌曲

  • INS FREIE
  • χαῖρε
  • VOLL DA SEIN
  • UN VOLTO

 

一瞥して明らかなように、ノーノが選んだ歌詞はPrometeoやその関連作のためにカッチャーリが編纂したテキストの転用である。特に目立つのはDas atmende Klarseinで用いられたリルケの詩(ATMENDE / DA SEIN / INS FREIE / VOLL DA SEIN)とオルペウス教の金板に刻まれた言葉(χαῖρε / ARSO DI SETE)との重複である。テキストの選択からみるかぎり、ノーノはカッチャーリとのコンビを解消した後もなお二人の「千年王国」の領土内に留まっているかのようだ。

 

第4の連作歌曲すなわちRisonanze errantiでは、マショー、ジョスカンオケゲムの歌の素材を音楽とテキストの両面で使用するプランが最初期から変わらず引き継がれているいっぽうで、主軸となるテキストが一新された。ハーマン・メルヴィルとインゲボルク・バッハマンの詩である。一齢~三齢幼虫から成虫への完全変態を彷彿とさせるこのいっけん唐突な変身を橋渡しする人物は『白鯨』のイタリア語訳者でもあるチェーザレパヴェーゼだとRamazzottiは指摘する。1958年のLa terra e la compagna以来パヴェーゼの詩をたびたび音楽化してきたノーノが80年代になっても手放していなかったパヴェーゼの「希望の朝」のイメージは、Il maestro del giocoの最終XII連に現れるMATTINOとUN VOLTOの二語(ともにパヴェ―ゼの詩「朝Mattino」からの引用)の破片となってPrometeoのリブレットの片隅で微光を放っている。 *20 第二次の連作歌曲の表題に現れるMATTINOと第三次のUN VOLTOが第四次に到ってメルヴィルへと羽化を遂げる成虫原基なのだとすれば、三次までの青虫と四次の蝶はテキスト構成に関してもひとつづきの系譜でつながることになる。

 

ノーノの意識のなかでパヴェーゼからメルヴィルへの連想の糸がはたらいていたことはたぶん事実ではないかと思う、が、ノーノとメルヴィルのコンビはノーノ本人の意図を超えたところでこのうえなく魅力的で意義深い。パヴェーゼの丘に上って回り道をせずとも、二人は「海」という共通の要素で直結している。数少ない本物の海の音楽家と数少ない本物の海の文学者の夢のような邂逅。海は広大だが、メルヴィルとノーノが創作の船を繰り出す漁場はごく近い。彼らは「白鯨スタイル」とでも言うべき共通の航海術を駆使して海を渉っていくからである。そう、二人は共にジョルダーノ・ブルーノと同じく「船に乗る人」である。

*1:オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』、稲富栄次郎・上田武訳、福村出版、59頁

*2:桑原徹「枠の中の再生」、『要素(書肆山田)』所収

*3:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「アガーテはウルリヒの日記を見つける」

*4:ムージル『特性のない男 4(新潮社版)』より「遺言状」

*5:ムージル『特性のない男 5(新潮社版)』より「夏の日の息吹き(断章)」

*6:同上

*7:ムージル『特性のない男 1(新潮社版)』より「少佐の妻との忘れられた、ことのほか重要な物語」

*8:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、235頁

*9:同上、90頁

*10:同上、92頁

*11:同上、39頁

*12:ムージル「新しい美学への端緒」、早坂七緒訳、『ムージル・エッセンス』、中央大学出版部、59~60頁

*13:『英雄的狂気』、92頁

*14:マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』、上村忠男訳、みすず書房、253頁

*15:オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術(岩波文庫)』、柴田治三郎訳、42~43頁

*16:「新しい美学への端緒」、69頁

*17:大川勇『千年王国を越えて:ムージルの『特性のない男』における〈別の状態〉の行方』 [link]

*18:ムージル『特性のない男 4(新潮社版)』より「遺言状」

*19:Marinella Ramazzotti (2017). Risonanze erranti o la Winterreise della memoria. shiiin – eln 1.

*20:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos, p. 119.