アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 7/14

ヴェネツィア的シンメトリー

楽譜をひらいた者の眼にはシンメトリーへの並々ならぬこだわりだと映るものに関して、ノーノ自身が具体的に言及した機会は少ない。作品全体が前後半で鏡面対称をなすIncontri (1955) について、このいかにも図式的な様式を用いたのは、フランドルの音楽だけでなく絵画にも広く認められる遡行的なretrograda構成に大きな関心があったからだと語った  *1 ことがあるくらいである。この発言だけを拠り所にノーノのシンメトリーはフランドルの相続品だと決めつけるのは性急にすぎるだろう。ノーノが作る音楽のルーツをノーノが生まれ育ったヴェネツィアに求める試みは夙に行われてきた。ではノーノの譜面の至る処に出没するシンメトリーもヴェネツィアにまつわるなにがしかの要素で説明がつけられるだろうか。

 

ヴェネツィア人が海に生きる民であることの証だと自他ともに認めるかの名高い「海との結婚」の祭礼について、カール・シュミットが『陸と海と』で聞き捨てならない異論を唱えている。

かれら(ヴァイキングや本当の「海の泡の子」たち)は海との婚約とか結婚とかいった儀式を思いつきはしなかった。それはまさしくかれらが本当の海の子であったからである。かれらは自分たちが海のエレメントと一体であると感じていた。これに反してあの象徴的な婚約とか結婚とかは、捧げる者と捧げられる神とが異なった存在、それどころか相反する存在であるということを前提としている。このような供儀によってかれらは自分のものでないこの海のエレメントを静めようとする。ヴェネチアの場合その儀式は、象徴的なこの行為の意味がエレメントとしての海の存在から獲得されたのではないことを明瞭に示しているのだ。 *2

ヴェネツィアっ子のプライドをいたく刺激しそうなこの論は、しかし一理ある言い分だと思う。シュミットが本物の海の子と認めた鯨捕りの目からみれば、「商船は橋の延長だし、軍艦は浮いた城塞にすぎず、海賊船や掠奪船が路の追いはぎみたいに海を荒らしまわるといっても、つまりは他の船、自分たちと同じ陸の断片を襲うだけのことで、底知らぬ海洋そのものの中から生活の糧を求めるのではない」 *3 、そしてヴェネツィア人といえども、せいぜい陸の人間の変わり種の域を出ないのではないだろうか。かの結婚の儀式に象徴されるヴェネツィア人と海の関係性は一体化ではなく、近づきはしてもゼロになることはない距離を介した、わたしとあなたの対面関係なのである。その解消し得ない彼我の隔たりのうちに、十字に交差する二重の左右対称形が宿る。見つめ合う花嫁と花婿の対面の構図が織りなす左右対称と、花婿たるIl mareに眼差しを向ける花嫁の正面向きの肖像がかたちづくる左右対称と。

 

Prometeoの公演に指揮者として加わったこともある杉山洋一は、カナル・グランデをゆく船から水際に立ち並ぶ家々を眺めて、まるでPrometeoの楽譜みたいだと感じたという。

 ヴェニスに立ち寄り「大運河」を水上バスで下った。

 川岸に犇めき合う建築物を眺めていると、目の前に拡がる風景が恰もプロメテオの楽譜に瓜二つである事に気がつく。

 各建築物は殆どが対称型を成し、青、赤、緑と色鮮やかに塗り分けられるのを、自分は河の流れに沿って眺めてゆく。ノーノの楽譜で言えば、張り付けられた色鮮やかな断片の前にたゆたう時間の流れに喩えたい。

 「大運河」から派生する無数の運河に沿って、奥深くやはり無数の対称型の建築物がぎっしりと詰まっているのも垣間見られ、ゆらゆらと汽船が舫っている。

 単純な構造が犇めき合って作者を凌駕する流れに翻弄されつつ、気がつくと、まるで覚えの無き風景に自分が置かれているのである。*4

ノーノの譜面に現れる対称形と瓜二つである、運河(水)の側からみたヴェネツィア建築の対称形は、ひとことで言えば「向きの問題」である。世界でも極めて稀なことに、ヴェネツィアの家々は水の側にファサード(正面)を向けて立っている。

世界にはブリュージュアムステルダムレニングラード、そして中国の蘇州、江戸・東京の下町など「水の都」と呼ばれる都市が各地にある。しかし、ほとんどの場合、建物の背後が水に面し、そこにも入口をとるという形を示している。あるいは比較的新しいアムステルダムのように、運河沿いに岸辺の道をとって、それに沿ってファサードを並べるのである。水の中から建物の正面がそのまま立ち上がり、メインの玄関を運河の側に設けるという都市はヴェネツィアをおいて他にない。 *5

 

ヴェネツィアの家は船の形をしている。ヴェネツィア独特の、住宅内部の三列構成。水側と陸側を結ぶ通り広間sara passanteが家の中央に竜骨のように延び、その中央軸の左右両側に肋材のように居室が連なる。この内部構造がしばしば外観にもそのまま反映され、通り広間に対応する中央部が連続アーチの広々とした開口部で強調される一方、居室に対応する両側では壁面を多くとり、弱―強―弱のリズムを具えた明快な左右対称のファサードを水側に向けた家のつくりになる。 *6

 

ヴェネツィア建築の著しい特色である竜骨=中央の軸線はいかなる経緯で生じたのだろうか。古い時代に建てられたヴェネツィアの家には軸線をもたないものがある。13世紀前半建造のトルコ人商館の場合、「各部屋は運河に面して一列に並び、奥へ伸びる中央軸をもっていない」。トルコ人商館における中央軸の欠如は、「都市化のあまり進んでいない区域に登場したため、もっぱら<水>と結びついたこのような構成が可能だった」 *7 ためだと陣内秀信は説いている。裏返せばくだんの軸の存在は、その家に住むヴェネツィア人が「もっぱら水と結びついた」とは言えないような生を営んでいること、シュミットが看破したとおり、純粋な海の人間にはなりきっていないことのしるしなのだ。陸の道路網が未発達で移動手段をほぼ船に頼っていた初期の頃には、日常生活を営むうえでも、はるばる海を渉って運んできた貿易の品々を直接搬入するためにも、家の水側に正面玄関を据えるのが好都合で、「<水>の側こそ地区にとっての正面であるという意識が強く働いていた」。 *8 その一方で、

ラグーナの島の上に分散的な居住核(教区に対応)を築いていた古くからの中心部では、それを母体として、各<島>がそれぞれ<求心的な構造>をもつことになった。中心に、教会堂のある<カンポ>と呼ばれる広場があり、そこから周辺へ水際まで伸びる<道路網>によって島のすみずみまで組織された。住民の生活も、このカンポを中心に地区としての積極的なまとまりをもち始めた。各地区の形成において、従来の、とくに上層市民に見られたような水に向けて館を構えようとする<向水性>に加え、島の内側のコミュニティの核を中心にまとまろうとする<求心性>の原理が働くようになったのである。こうして集合性の強い住環境がそれぞれの島に形成された。そしてこの過程で、<水辺>の空間(運河)に対する<陸>の都市空間(広場、道)の重要性が次第に大きくなっていったと考えられる。 *9

水に引き寄せられる性向と陸に引き寄せられる性向を併せ持つヴェネツィア人のこうした両義的な生きざまが住み家に投影されたのが、家の水側―陸側をつなぐ軸線であった。

<水>と<陸>の両方に顔を向けるための建築的解決が、この町の住宅に課せられた最大の課題だった。この<二極性>から生まれ出たのが、運河に垂直な中央軸をもつヴェネツィア特有の<三列構成>の住宅なのである。 *10

 

中央軸を強調する建築様式は、ヴェネツィアの貿易相手であったイスラムの建築をひとつのモデルとしたのではないかと推察されている。 *11 イスラム建築においてこの様式は特に宗教建築に顕著に表れた。軸によって聖地メッカの方角を指すという大切な役割を担うためである。軸線がなにかを指向する矢印として機能するためには、軸を挟んで左側と右側の構造が対称に構成されていることが肝要だ。背骨のある魚や人であれ、竜骨のある船であれ、軸の左右が歪んでいると、軸線が指す方向にまっすぐ進むことは覚束なくなる。逆に左右対称の形を作りさえすれば、その中央から前後方向に伸びる動線が、たとえ可視化されていなくとも自ずと意識されるようになる。左右対称は進みゆくものの形である。そして進むという身振りは、対象とのあいだに距離があるからこそ可能になる身振りである。もしも人と海を隔てる距離が解消され一体化を遂げたら――距離に住まう者たちはみな消えてなくなる、軸線も左右対称の形も、その両方を具えたCaminantesも。

 

一つの軸線に付け得る矢印の向き、つまり進むべき方向は二通りある。運河に垂直な中央軸に沿って陸から水へと近づくにせよ、水から陸へと離れるにせよ、共通して言えるのは、水を基準として生きる姿勢が定位されているということである。イスラムの宗教建築はメッカに正面を向けるが、古いヨーロッパの教会は東西に軸線を取り、恐らくは聖地エルサレムの方向を意識して東側に後陣を、西側に正面入口を向けることが多かった。ヴェネツィアの教会ももともとはこの定石に則って建てられていた。したがって、ノーノの生家と仕事場兼住居のあいだを流れるジュデッカ運河のように東西に流れる運河では、教会は水に対し揃って横を向いていた。水に対して向きが揃っているといっても、それはあくまで運河がたまたま東西に流れていたという偶然によるものである。要するに、教会ははじめ水と無関係に向きが定められていたのだった。そのジュデッカ運河でも、16世紀以降はイル・レデントーレ教会に代表されるような水に正面を向けた教会が続々と建てられるようになった。 *12 時代が下るにつれて、教会までもがヴェネツィア固有の水の引力を受けるようになっていったのである。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 30.

*2:カール・シュミット『陸と海と』、生松敬三・前野光弘訳、福村出版

*3:メルヴィル『白鯨』14章 ナンタケット、阿部知二

*4:杉山洋一「海外ニュース イタリア」、季刊『エクスムジカ』第5号、ミュージックスケイプ、191頁

*5:陣内秀信ヴェネツィア:都市のコンテクストを読む』、鹿島出版会、32頁

*6:陣内秀信ヴェネツィア:都市のコンテクストを読む』、鹿島出版会・『水都ヴェネツィア その持続的発展の歴史』、法政大学出版局

*7:ヴェネツィア:都市のコンテクストを読む』、100~101頁

*8:同上、41頁

*9:同上、51~52頁

*10:同上、98頁

*11:同上、132~137頁

*12:『水都ヴェネツィア その持続的発展の歴史』、147~168頁