アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 4/14

船の配偶子

エルンスト・ユンガーの『母音頌』に則ってRisonanze errantiの言語を二種類に分類していたが、

 

  • メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片:子音と母音の結合状態:語詞 Wortsprache
  • シャンソンのこだま:遊離状態の母音:音韻 Lautsprache

 

本当のところ、Risonanze errantiにはもう一つ別の言語がある。語詞が「子音と母音との合成」 *1 であり、こだまが遊離状態の母音であるのならば、音韻の世界には片割れの子音も同じく遊離状態で存在しているはずである。Risonanze errantiの作品世界でそれに相当するものが打楽器群である。Risonanze errantiは寡黙な音楽だが、半面でひどく饒舌な印象も受ける。何事かを告げ知らせるかのような打楽器の夥しいざわめきが第三の言語となって全篇にわたり鏤められているからである。

 

  • メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片:子音と母音の結合状態:語詞 Wortsprache
  • シャンソンのこだま:遊離状態の母音:音韻 Lautsprache
  • 打楽器群:遊離状態の子音:音韻 Lautsprache

 

『母音頌』のユンガーが繰り出す言葉と生物のアナロジーから母音に対する原形質や肉質、子音に対する甲皮の喩を取り上げて、個々の単語を子音で母音を包み込んだ細胞のようなものだと想像するだけでは不十分である。ただ皮膜で中身を包んだだけでは生きものにも言葉にもなりきれないから。

 

定まった形と体積を持つものとは固体全般についての定義である。固体ににんべんが付いて個体になるためには、さらなる条件が必要とされる。個体を構成する諸要素は正しい場所に正しい向きで配列されていなければならない。パーツが同じでも配置のされ方が狂ってしまうと福笑いで、遊びの世界では笑い事で済むが、現実の世界に実在していたら化け物である。単に上下が全体として逆さまになっただけでも個体の顔はいっぺんに「読みづらく」なる。これは人だけでなく魚(メダカ)でも同様だという。 *2 徹頭徹尾方向づけられていること、極性こそが生命線であること。まさにその点において、人間の言語は生きものに、そしてその生きもの全ての根源的な共通語であるDNAの言語によく似ている。一文字単位にまで分解し尽くさないかぎり、語の極性はあたかも磁石のように執拗に残り続ける。『母音頌』に出てくるいくつかの比喩のなかでは、「甲皮」より「骨格」の語が子音にふさわしかろう。語において子音とは、単独では水のように不安定に移ろい続けて止まない母音に一定の順序関係を与える方向づけ因子である。

 

メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片、それは定まった形/極性を持つ言葉(狭義の言葉)、船(と鯨)の歌。シャンソンのこだま、それはもはや定まった形/極性を失った言葉。海の歌。打楽器群、それはいまや定まった形/極性を得つつある言葉、小さな舟の歌。

 

ともに音韻に属しながらもこだまと打楽器は位相がずれている。こだま(母音)は過ぎ去ったものの残響であり余韻であるが、打楽器(子音)は来るべきものの予兆だ。こだまは個別の出来事の輪郭を失い、原始的な情動言語へと溶解した液状の記憶である。いっぽう打楽器は、こだまの到来に先駆けてざわめき始める *3 とともに、メルヴィルがMisgivingsでThe hemlock shakes in the rafter, the oak in the driving keel. (簗では栂が、疾駆する竜骨では樫が、きしみ揺れている:山田省吾訳)と書いたような、やがて始まる戦争の微かな予兆的シグナルでもある。この差は母音と子音が具える性質の非対称性に起因している。「母音は子音によって捕らえられる」 *4 ことによって語詞になるとユンガーは言っているのであって、その逆ではない。子音は母音への走性を示すが、母音は子音への走性を欠いている。子音は音韻の世界から語詞の世界を志向する小さなベクトル(舟)である。Risonanze errantiの打楽器はしばしば、歌手が発するメルヴィルの歌詞をなぞるような挙動をみせる。語への憧れ。個体を作りたいという飢えは子音の側にのみ宿る。音韻の海に休らう水である母音に個体化への志向は発生しない。「ともに鳴り響きたい」という欲望は、その名のとおり子音=consonantから母音へと向けられた一方通行の片思いなのである。

 

母音と子音の非対称性は卵と精子の配偶子の非対称性である。

 

地球の重力下を方向性をもって進んでいこうとするものが必然的に具える体制が左右相称であるから、そんなわれら左右相称動物Bilateriaに「Caminantes=進みゆくものたち」の名はぴったりの愛称だ。カミナンテスは2種類の配偶子をつくる。卵は細胞質をふんだんに湛えた母音的な水の天体である。精子は細胞質を極力そぎ落として運動機能に特化した子音的な骨皮筋右衛門である。『母音頌』で母音を細胞質(原形質)になぞらえたユンガーは、『ヘリオーポリス』で原形質を海に喩えた。 *5 前後の極性がその存在のほぼすべてであるかのような精子を記号化すれば、一本の矢印になる。卵が海ならば、精子はその海を目指して進んでゆく小さな舟である。

 

卵は誘引物質を分泌して精子を誘惑はするものの、自ら精子に向かって進んでいくことはしない(できない)。卵における極性、とりわけ前後軸の喪失は卵の自発的で方向づけられた運動機能の喪失、つまりは進みゆくものとしてのアイデンティティ喪失の危機を示している。左右相称動物においては雄が――配偶子になってもなお明瞭な前後軸を維持し、前進することを止めようとしない忙し気な雄が、カミナンテスの魂の継承者である。精子は微睡む卵に発破をかける、Caminantes no hay caminos hay que caminar 卵よお前は進みゆくものだ、たとえ道はなくても進まなくてはならない、と。グレゴリー・ベイトソンがよく書いているカエル、あるいは線虫C. elegansなどの動物では、たしかに精子が卵の極性復活の引き金になっている。「受精前のカエルの卵は放射対称体であり、動物極と植物極への分化は見られても、中心と赤道を結ぶ半径相互の間にはいかなる差異も存在しない。では、この卵が左右対称の胚へと生長するとき、対称の軸面を決定する一本の経線はどのようにして選ばれるのだろうか――。答えは知られている。カエルの卵はその情報を外部から受信するのだ。精子の突入点が(実は細い繊維の先で一点を突ついただけでいいのだが)、一つの経線を他の経線と差異づけ、その経線に囲われた面が、生起する左右対称の軸面になるのである」。 *6 左右相称動物の発生は、卵という小さな球体の海に前後軸、背腹軸、左右軸を導入して、個体という一艘の船へと作り変えていく過程である。

 

Risonanze errantiには、メルヴィルの船という「左右相称動物」がdeath死に到るまでの一生の軌跡が描かれている。そこに母音的なこだまと子音的な打楽器が加わる。ところで、打楽器=子音の妥当性は一度吟味してみる価値がある。打楽器は子音的だって?本当に?鐘をひとつきする。するとまず聞こえてくる立ち上がりの音はたしかに子音的なkだ。しかしその一瞬のkの後に続くのは、彗星のように長く尾を曳いて沈黙の海へと曖昧に溶け込んでいく、ひたすら母音的なaaa...のこだまである。

 

kaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa

 

お分かりいただけただろうか、打楽器の音は大半が母音でできているのである云々と言いたいのではない。逆にこうして吟味することによって、打楽器がたしかに子音の性質をもつことが明らかになるのだ。打楽器の音響には子音の本質的特徴が見事に顕れている――明瞭な前後の極性。彗星のような、あるいは精子のような。打楽器に関して改めるべきは、その音を点的だとか点描的といった常套句で形容しようとする悪しき慣習である。打楽器が発する音は全然点ではない、矢印だ(時間に放出された精子)。打楽器とこだまの対比は極性が有るか否か、方向づけられているか否かの対比でもある。死に向かって前進していくメルヴィルの詩句は一艘の大きな船のCaminantes、打楽器は無数の小さな舟のCaminantes、卵に似て前後の極性が甚だ不明瞭なこだまは海洋的なno hay caminosである。

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3年前に描いたRisonanze errantiの作品世界のスケッチ。四分音符=30の大海原をゆくメルヴィルの船という構図の難点は、Risonanze errantiの海であるところのシャンソンのこだまが、テンポこそほぼ四分音符=30で統一されているものの、見たところ潮だまりのようにちっぽけな十数個の断片でしかないという点である。こだまの断片性を連続性へと変換するために提案したのが島型に替わる穴型の断片であった。こだまの断片性は群島性ならぬ群穴性であって、照葉樹の密な葉叢の向こうにチラチラと覗き見える海の青のように、すべてのこだまは見えない(聞こえない)背後でひとつに繋がり合っていると解したのである。それから3年の月日が流れ去り、別の見方も可能だとこの頃では思うようになった。こだま=穴説に替わるこだま=卵説。メルヴィルの船は個体としては作品の終盤で死を迎えるが、その生涯をとおして配偶子を活発に生産していたのではないか。打楽器は船の精子、小さな舟。こだまは船の卵、小さな海。どうやら雌雄同体らしいメルヴィルの船が産んだ卵の数はたかだか十数個だが、精子の数は無数と言えるほどに厖大である。Risonanze errantiの打楽器に適用されているライヴ・エレクトロニクスは、生の演奏音をディレイとフィードバックによって大量に複製する電子的な精巣である。

 

Risonanze errantiはこだまと打楽器の受精により生を享けたメルヴィルの船の、Tempestの堅い産声で始まる。メルヴィルの船の最期を告げる言葉はmorteでもTodでも死でもなく、deathでなければならなかった。船の終焉のもようがdeathという語それ自体によって表現されているからである。deathはpastと同じく閉音節言語の典型的特徴を具えた語で、母音eaが子音d-thの皮膜ですっぽり包み込まれている。しかしdeathにはpastのような鉄壁の堅牢さの印象はない。thの無声歯摩擦音θのところで皮膜に破れが生じて、内容物が漏れ出しているからだ。船体崩壊による沈没の徴候。だからこれは船火事ではなく難破による言葉の死なのだ。船が死んだ時、中から水が漏れ出してくるのはどうしてだろうか?船は受精時にまで遡ればもともと小さな海だったからである。

*1:エルンスト・ユンガー「母音頌」、『言葉の秘密』、菅谷規矩雄訳、法政大学出版局、14頁

*2:Mu-Yun Wang and Hideaki Takeuchi (2017). Individual recognition and the ‘face inversion effect” in medaka fish (Orzias latipes). eLife 2017; 6:e24728. [link]

*3:Marinella Ramazzotti (2017). Risonanze erranti o la Winterreise della memoria. shiiin – eln 1, p. 40-42.

*4:ユンガー『パリ日記』、山本尤訳、月曜社、258頁

*5:ユンガー『ヘリオーポリス・上』、田尻三千夫訳、国書刊行会、114頁

*6:ベイトソン『精神の生態学(改訂第2版)』、佐藤良明訳、新思索社、508頁