アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 1/14

メルヴィル、船の歌

帆柱を立てる

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Prometeoの序章Prologoは、シューマン『マンフレッド序曲』冒頭の激烈な三連打の引用で締めくくられる。スコア上に4群のオーケストラの52段に跨る総奏が突如屹立する光景はまさしく音の柱だ。しかしここで見逃してはいけないのは楽譜の最下部である。

 

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垂直に立つマンフレッドの「足元」から、独奏陣の一員であるチューバの持続音が水平に延びている。つまりノーノはマンフレッド初登場のこの場面で、「↑→」という漂泊者のアイコンを譜面に描いているのだ。帆柱↑と航跡→、あるいは直立↑歩行→。5つの島を経巡るプロメテオの航海は、原初の混沌から創成した世界の片隅に「進みゆくもの」の姿が出現するこの地点から始まる。

 

人間が直立歩行するということは、直立が歩行の準備姿勢になるということである。立つ姿勢が体現する垂直性は人間の場合、上昇でも停止でもなく前進の含意になる。つまり人は帆柱のように立つのである。船の帆柱が垂直に屹立するのは帆に風を受け水平方向の推進力を産み出すがためである。「人間の視線は本来、この地球の水平線をはうことになっておるのじゃ。さもなくて神がその蒼天を仰げというのならば、視線は頭のてっぺんから開いておるはずじゃ」――「おずおずと天をのぞく」四分儀を甲板に叩き落す直前にエイハブが言い放ったその言葉 *1 のとおり、直立した人間の視線は帆を立てた船が洋上に引く航跡のように水平に伸びる。まなざしが指し示す水平方向とはこの地上に生きる人間の通常の進行方向である。

 

壁に古代ギリシャの遺跡や彫像の写真の白黒コピーを何枚も貼り付けた仕事場でノーノはPrometeoの作曲を進めていた。 *2 ノーノはこれらの画像にどういうわけだか直交する矢印↑→を矢鱈と書き込んでいる。 *3

 

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Fondazione Archivio Luigi NonoのWebサイトのトップページにも掲げられているこのもっとも見慣れた一枚は、古代ギリシャの植民地マグナ・グラエキアに属していたシチリア島はセリヌンテの遺跡(Tempio C)である。その画面の右上に赤色で書かれた↑→。 *4

 

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別の例。見上げる円柱の横腹から水平に矢印が伸びてその先にWANDERERと書かれている。 *5

 

古代ギリシャの遺跡の写真の一枚にノーノはrotto(破壊された)と書き添えている。 *6 「ノーノは廃墟に魅せられていました(André Richard談)」。 *7  二千年を超える歳月を経て孤立した幾本かの柱へと崩壊を遂げたかつての壮麗な神殿の成れの果てに、ノーノは「断片」という存在様式のひとつの典型をみていたのかもしれない。Prometeoの作曲当時ノーノが仕事場の壁に始終眺めていた廃墟の円柱のきわめて直接的な具現化が、Isola Primaで音楽の流れを幾たびも寸断して突発的に立ち上がるオーケストラの咆哮である、Lydia Jeschkeはそう指摘している。 *8 1985年のミラノ版で新たに付け加えられた『マンフレッド序曲』の引用も、まさしくそんなSäulen-Komposition(Column-composition)の好例である。Prologo末尾の、オーケストラの総奏によるマンフレッドの柱状の断片と、その足元から水平に伸びていく独奏チューバの持続音の組み合わせが示しているのは、Prometeoの音の柱はその場に突っ立っているだけの単なる柱ではない、ということである。それは柱が指す天地の方向に直交する水平方向へどこまでも進むことのできる柱、進まねばならない柱、すなわち、柱は柱でも帆柱である。

 

Fragmente = Caminantes

ノーノがPrometeoの作曲に取り掛かった1970年代の後半には既にニーチェのDer Wandererを主なモデルとして胚胎していた漂泊者のテーマは、Prometeo初演後の1985年(86年説もあり)に訪れたスペインへの旅以降、Caminantes(進みゆくもの)と名を変えてノーノの中でいっそう大きな存在へと育っていく。トレドの修道院の壁にノーノが見つけた例の落書きの文句(Caminantes no hay caminos hay que caminar)を、ジョルダーノ・ブルーノの『英雄的狂気』の流儀にならって紋章に図像化してみよう。

 

Caminantes
進みゆくものと聞いて脳裏に浮かぶ人間の姿は蹲っている人ではないだろうし、ましてや横たわっている人間ではあり得ない。直立二足歩行をする人間にとっては停止でも上昇でもなく前進の含意である垂直の立ち姿がCaminantesの喚起する基本イメージである。したがって、
Caminantes ↑垂直=直立

*

no hay caminos
進むべき経路を規定する決まった「道がない」という事態を指す言葉。そのような意味での道がない空間とは要するに海である。トレドの落書きの実質的な原典に当たるアントニオ・マチャードの詩「諺と歌」はこう詠っている、「旅びとよ それはただ海の上の航跡だけで 道ではない(大島博光訳)」。1987年のEnzo Restagnoのインタビューでこの言葉の意味を問われたノーノが語っていたのも航海のイメージである、「ニーチェの漂泊者、その不断の探究。カッチャーリのプロメテウス。それは、その上で航路がつくり出され、探し出されていく海です」。 *9 それが海だという基本認識が日本語圏の人々に浸透していないように見受けられるのは、原文にはない「進むべき」という言葉を勝手に付け足している訳のせいで、イメージの中にひろがるべき海が干拓されてしまっているからである。したがって、
no hay caminos 海

*

hay que caminar
進みゆくものの進み方はいろいろだが、大方の人は崖をよじ登るだとか海に潜ってゆくだとかいった特殊例ではなく、直立した人間が前進すなわち水平方向に進んでいくさまを真っ先に思い浮かべるだろう。したがって、
hay que caminar →水平=歩行

 

ただし現実に人は海の上を歩くことはできないので、直立↑歩行→のイメージは帆柱↑と航跡→の船のイメージで代理表象される。ノーノの生涯最後の5年間の座右の銘であったCaminantes no hay caminos hay que caminarから聞こえてくるのは二種類の歌である。no hay caminosの海の歌とCaminantes↑ hay que caminar→ の船の歌。

 

トレドの金言を三つに区切って表題に組み込んだノーノのカミナンテス三部作は、上記のイメージのかなり忠実な再現である。

 

Caminantesの垂直(帆柱)

Caminantes...Ayacuchoの開始から約3分の2までの範囲には、PrometeoのIsola Primaの突発的なオーケストラの炸裂や、Prologoの末尾からStasimo Primoにかけての前半部に10回現れる『マンフレッド序曲』冒頭の引用を彷彿とさせる強音の(帆)柱が何本も立っている。

*

no hay caminosの海

Caminantes, no hay caminos... Andreij Tarkowskijの全篇は連綿と連なるG音の海原である。

*

Hay que caminarの水平(航跡)

“Hay que caminar” soñandoを特徴づけるのは、微かに揺れ動きながら何小節にもわたって延びていく弦の持続音の航跡である。

 

Fragmente=Caminantes ――後期ノーノの二大キーワードを等号で結ぶ。船はfragments of the land陸の断片だと、メルヴィルは『白鯨』の第14章で書いている。断片だという点に関しては島も船も同じである。しかし島は進みゆくものではない、船は進みゆくものである。Fragmente=Caminantesである断片は島ではなく船である。進みゆくものであるか否かという船と島の差異は両者の形態の差異に反映されているので、たとえ動いていなくても船と島は一目で識別することができる。島には東西南北の向きがあるが前後左右はない。船には前後左右はあるが東西南北はない。向きが外的に規定されるか、それとも内的(主体的)に規定されるかの違いである。船とは異なり、島にはそれ自体の向きがないと言うこともできる。島の東西南北が一意に定まるのは、地質学的な時間の尺度で考えないかぎり島が地球上で不動の位置を保っているからである。船の前後の軸は、進みゆくものである船の通常の進行方向を表す。島=断片を最小限の要素に切り詰めていくと、一個の点(・)になる。船=断片を最小限の要素に切り詰めていくと、点ではなく矢印(→)になる。

 

島のない可能性。ノーノの音の断片を慣習的に島に喩えてきたのは思い違いだったのだろうか。弦楽四重奏曲Fragmente – Stille, An Diotimaの音の断片は、後期ノーノが掲げるsuono mobileのモットーのとおり、「島」と呼ぶにしては不似合いなほど動的に、小刻みに揺れ動いている。あれらの断片は間断なく波の打ち寄せる島の渚のざわめく音景なのだと私はこれまで解してきたが、本当は船着場で舫につながれて進みはしないが絶え間なく波に揺られている船だったのではないか。島ではなく船だとすることで、後期ノーノのはじまりと終わりを縁取る弦楽四重奏曲Fragmenteから弦楽二重奏曲“Hay que caminar” soñandoへの推移を自然に解釈できるようになる。Fragmenteの頃は舫につながれていた船が10年後のHay que caminarではともづなをほどかれて、沈黙の海に持続音の航跡を引いているのだ。だとすれば、Fragmenteの断片性とHay que caminarの連続性は同一のものの二通りの様態を示していることになる。

*1:ハーマン・メルヴィル『白鯨』118章「四分儀」、阿部知二

*2:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag: 201-202.

*3:Luigi Nono (2005). Studi per Prometeo. In: Stefano Cecchetto and Giorgio Mastinu (eds.). Nono Vedova. Diario di bordo. Torino: Umberto Allemandi & C.: 73-91.

*4:Ibid., p. 77.

*5:Ibid., p. 73.

*6:Jeschke (1997), p. 201.

*7:Entretien avec André Richard. [pdf]

*8:Jeschke (1997), p. 202.

*9:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 72.