アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ブルーノーノ 第一部 7/8

N3 ノーノのaltro

ノーノのsuono mobileに息づいているブルーノ的精神を確かめるためには、suono mobileの最終形態から話をはじめるのが一番分かりやすいだろう。

 

前にも言ったとおり、ノーノがsuono mobileという概念にはじめて言及したのは、1983年のGuai ai gelidi mostriの制作過程でのことであった。それから約6年後に書きあげられたノーノ最後の作品、ヴァイオリン・デュオのための"Hay que caminar" soñandoの譜面上には、suono non statico(言い換えればsuono mobile)と表記された持続音が多数出現する。持続音――そう、suono mobileは最終的に、微かに揺れ動きながら連続的に移ろっていく持続音へと進化を遂げていったのである。

 

a) Hay que caminarの場合

最大で6小節に跨る一定のピッチの持続音。したがって音符だけ見ているとmobileな要素はまったく感じられないのだが、その演奏法について、別途に以下のような但し書きが付いている。

SUONO NON STATICO

I suoni tenuti mai statici ma modulati meno di 1/16

(Sounds never held static but modulated less than 1/16 of a tone)

つまりこの持続音は、音符では明示的に表されないレベルで微細に揺れ動くsuono mobileであり、細部を具体的にどう演奏するかは各々の奏者の判断に委ねられているわけである。

 

b) La lontananzaの場合

"Hay que caminar" soñandoの姉妹作にあたるヴァイオリン・ソロとテープのためのLa lontananza nostalgica utopica futura (1988/89)――Hay que caminarはLa lontananzaのヴァイオリン独奏パートを1~9小節の断片に分解したうえで、それらの断片を二つのヴァイオリン・パートに振り分けながら再結合させて作られている――では、同じ音がsuono sempre mobile(sempre=たえず)と表記されており、Hay que caminarよりもう少し詳しい説明文が付されている。

The sound is variable for microintervals of less than 1/16 (of a tone):

searching for itself

or searching for the sound

varying it every time

ここから読み取れるのは、この微かに揺れ動く持続音が、たえず別の音を探して彷徨を続ける道のりの表現であり、Hay que caminarとLa lontananzaの双方に通底するカミナンテスの主題に直接関わるものだということである。

 

c) チェ・ゲバラ

La lontananzaの説明書きを読んで私がただちに思い出すのは、1987年の来日時の講演の中でノーノがチェ・ゲバラの声を評して言ったこんな発言である。

チェ・ゲバラの声には、昔から今日にいたるまで常に存在しつづけた大いなる『砂漠』、大いなる夢、ユートピアがあります。私はかつてヘルダーリンやロルカ、ウンガレッティ、また古代ギリシャの詩人をマッシモ・カッチャーリとともに研究しましたが、それと同様にチェ・ゲバラの声についても、彼自身の書いたテキストとの関係のみでなく、その抑揚を分析しました。私はあまりうまく真似できませんが、全く平坦なしゃべり方で、ことばのメリハリがことさら強調されるようなことはありません。まるで別の空間と別の時間を探して流れつづける歌、夢、ユートピアという感じです。 *1

ノーノの特に後期に書かれた文章や発言録を読んでいてなんとも興味を惹かれるのは、上のチェ・ゲバラの話の「別の空間と別の時間を」というくだりにもあるように、altro(別の)という単語が、ときには不自然に感じられるくらい頻繁に使用されている点だ。後期ノーノの譜面に溢れかえっているあの大量のフェルマータを彷彿とさせる独特の常套句altroを、かつて私は、ムージル『特性のない男』の「別の状態」に由来するものではないかと考えたこともあった。だがいろいろと文例を見ていくと、どうやらその推論は的を射たものとはいえないようである。ノーノがaltroをしばしば複数形(altri/altre)で用いていることからも分かるように、それは通常の状態/別の状態といった両極的な図式に収まるものではない。じつはこのaltroこそは、ノーノのsuono mobileの思想を、それと同時にノーノのなかのブルーノ的なものを集約するキーワードなのである。

 

altroという単語をノーノは

Poiché l'errore è ciò che viene a rompere la regole.

La trasgressione.

Ciò che va contro l'istituzione stabilizzata.

Ciò che spinge verso altri spazi, altri cieli, altri sentimenti umani, ... *2

*

なぜなら錯誤はルールを打ち破ることになるものだから。

境界を越えること。

安定した制度に抗するもの。

別の空間へ、別の空へ、別の人間感情へと導くもの……

――たとえばこんな風に口にするわけだが、上の台詞ではひとことで言い切られているaltri spaziやaltri cieliはいわば無限級数みたいなもので、本当はいくらでも展開することができる。altri cieli (other skies) だったら、

 

altri cieli=altro cielo...altro cielo...altro cielo...altro cielo...altro cielo...

 

といった具合に、無数の別の空へと際限なく連なっていくのである。こうではない別の可能性を飽くことなく経巡りつづけるこのaltro...altro...altro...のリズムこそが、suono mobileを駆動する力の正体である。人生の中心はその中にあってほしいとD・H・ロレンスが希っていた「終わりのない空間の震え」を呼び覚ます言葉、それがaltroだ。ムージルが現実という陸地に対して波に喩えた可能性。その無限の可能性の海原へと漕ぎ出す航海のリズム。ノーノのカミナンテスの旅の律動。

*

娘さんと行った1986年(1985年説もあり)のスペイン旅行の折にノーノがトレドの修道院の壁にみた

Caminantes no hay caminos hay que caminar

という言葉については、いくつかの複合的な誤解がつきまとっている。

 

a) アルゼンチンの作曲家Juan María Solareがノーノの奥さんのヌリア・シェーンベルク=ノーノに直接聞いた話として伝えるところによると、 *3 それは壁に刻まれた「碑文」ではなく、誰によって書かれたのかも分からない「落書き」である。

 

b1) 修道院自体は13世紀に建てられたものであっても、落書きが書かれたのは20世紀になってからのことだと考えられる。というのも件の文句は、スペイン人なら誰知らぬ者のないアントニオ・マチャードの詩『Proverbios y cantares 諺と歌』の一節をパラフレーズしたものとみられるからである。Proverbios y cantaresはもともと学校の授業でしばしば暗記させられるくらいの有名な詩だったが、歌手のJoan Manuel Serratがこの詩を歌詞に組み込んだCantaresという1970年頃の曲がヒットソングになったことで、いっそう国民的に知れ渡るようになった。

Caminante, son tus huellas

el camino, y nada más;

caminante, no hay camino,

se hace camino al andar.

Al andar se hace camino,

y al volver la vista atrás

se ve la senda que nunca

se ha de volver a pisar.

Caminante, no hay camino,

sino estelas en la mar.

*    

旅びとよ 道は

きみが歩いた足跡だ

それだけのことだ 旅びとよ

そこに道はない

道は歩きながらつくられる

道は歩きながらつくられる

振り返って見れば 二度と

足を踏み入れてはならない小道がある

旅びとよ それはただ海の上の航跡だけで

道ではない (大島博光訳)

 

あの言葉が落書きであるとして、他の可能性も考えることはできよう。

  • マチャードの詩との文面の類似はあくまで偶然であった可能性
  • ことによるとマチャードがトレドの落書きを参考に詩を作った可能性

だがもっとも自然なのは、そう遠くない過去に誰かがマチャードの詩を元ネタとして壁に落書きを書いたという解釈である。日本に置き換えるなら、どこかの古寺の壁に「上を向いて歩こう」だとか「三歩進んで二歩下がる」だとかいったようなお馴染みの文句が落書きされていたようなものだと考えれば、十分にありうることだとイメージできるだろうと思う。

 

b2) あの言葉はタルコフスキーによるものだとしている資料も散見されるが、これは、ノーノが「アルス・コンビナトリア」によって生み出した『カミナンテス三部作』の表題を誤読したことによるもの。

Caminantes no hay caminos hay que caminar

  1. Caminantes...Ayacucho
  2. No hay caminos, hay que caminar...Andrej Tarkowskij
  3. "Hay que caminar" soñando

 

c) さらに日本では、「進み行くものよ、進むべき道はない、だが進まなくてはならない」という異様なまでにいかめしい訳のおかげで、言葉の意味自体がかなり偏った受け取り方をされる傾向にある。

 

Caminantes...Ayacuchoに寄せて書かれたノーノの自註 *4 を読むと、どうやらノーノ本人も、少なくともはじめのうちはこの言葉を、何世紀も前に書かれた非常に古いものであると思っていたらしいふしがうかがわれる。だが1987年3月のEnzo Restagnoによる長いインタビューのなかで、その時点での最新作Caminantes...Ayacuchoについて訊かれたノーノが語っているのは、トレドの落書きの出典にあたるマチャードの詩の内容に相応しい、航海者としてのカミナンテスのイメージである。

É il Wanderer di Nietzsche, della continua ricerca, del Prometeo di Cacciari. É il mare sul quale si va inventando, scoprendo la rotta. *5

そのうえで航路が不断につくりだされていく、探し出されていく海。ノーノの生まれ育ったヴェネツィアのラグーナの中であれば、海に打ち込まれた無数のダーマやブリコラが、旅人の道標の役割を果たしてくれる。しかしひとたび遥かな沖合いに漕ぎ出せば、そこは流れに抗して屹立するものなどなにひとつ見当たらない全面の流動体だ。広大無辺の海原に「進むべき道はない」。ノーノがつねづね嫌っているような、あらかじめ与えられた道/決まった道/固定された道がないからである。

音楽でも文学でも絵画でも、何か一つの決まった道というのはないんだと思います。”ノ・アイ・カミノス、アイ・ケ・カミナール”、すなわち”進むべき道はない、ただ進まねばならない”。たとえば映画監督のタルコフスキーがそうですが、彼も創造的な仕事をするなかで、いろいろな試行錯誤を繰り返していました。私も、決まった道はない、常に探し出さねばならないものだと思うのです。 *6

高橋悠治との対談から引かれたノーノの上記発言のうちで私が特に注目したいのは、「常に」という言葉である。この「常に」が、先に掲げたインタビューの発言のcontinua ricercaのcontinuaとともに、ノーノのカミナンテスの基底に横たわる連続性の意識を教えてくれる。

 

カミナンテスのcontinua ricercaを航海の比喩で語ったノーノは、そのすぐ後で、Caminantes...Ayacuchoのためのテキストに選んだブルーノの詩について次のような寸評を加えている。私はこの短いコメントに、ふだんは多中心性という観点からブルーノについて語ることが多いノーノの、真のブルーノ主義者としてのエッセンスが詰まっているのではないかと思う。

È veramente la sconfinatezza del continuo, la continuità degli infiniti universi di Giordano Bruno, camminante che amo molto. *7

「私がとても愛する漂泊者」ブルーノの無限宇宙に関してノーノが強調しているのは、その際限のない(sconfinatezza)連続性である。広大な宇宙空間は端のない、連綿たる連なりだ、それゆえに、continua ricerca、連続的に渉猟される。無限の空間のなかではとりうる経路もまた無限であり、ノーノが別のところで語っているように―― Il lavoro di ricerca è infinito *8 ――その渉猟の過程には限りがない。

 

じつはブルーノは『英雄的狂気』のなかで、ノーノとほとんど同じことを言っている。「無限なものが把握されたり、有限なものになることができたりするのは、不自然で不適切なことです。というのも、その場合、それはもはや無限ではないのですから。むしろ、無限なものは、無限であるために、無限に追求されるのが、より適切で自然なのです」。 *9 無限を一瞬のうちに望見できるお手軽な方法などあろうはずがない。わたしたち限られたものが無限なるものに対峙する方法は一つしかないとブルーノは言っているようにみえる。この世界に満ち溢れている、おのおのはささやかなものであるかもしれないがじつに多種多様な細部。その縷縷たるつらなりに、無限と測りあえるほどの「無限の熱意や努力や情念や欲望」 *10 をもって、あたうかぎり寄り添っていくこと。

 

ブルーノのアンピトリテは、Prometeoのリブレットにさりげなく登場するムージル千年王国の「愛の海」といっけんよく似た大海原だけれども、この二つの海は航海術がまったく異なるのである。千年王国の海が、なんであれなにかを志向したり意欲したりする自我をからっぽにすることでそこに融けこんでいくような海だとすれば(だからその海は五時代説話の黄金時代の海と同じで、本当はその上に航跡で疵をつけたりしてはいけないのだろう)、アンピトリテは、限りない情熱と意志をもってあくまで能動的に渉猟されるべき海である。アンピトリテの航海者に必要な資質は賢者の冷静さではなく「英雄的狂気」だとブルーノは言う。

 

選択や固定を拒否するノーノの徹底した姿勢は、ブルーノの掲げる無限につづく探究に必須の心得でもある。ブルーノにとって可能性のなかからの選択は、無限を有限に貶めることと同義である。「自然は閉ざされた有限世界ではなく、開かれた無限宇宙なのだから、そこからの選択はたんに可能性の縮減、力能の制限としか見なされえない」。 *11 別の空間と別の時間を探して流れつづける

altro...altro...altro...altro...altro...altro...altro...

のあくなき渉猟の過程を完結/停止に導くことがあってはならない。hay que caminar(進まなくてはならない)は、その意味で解されるべきだろう。すなわち、カミナンテスを定まった目的への邁進ではなく帰港地のない航海へと駆り立てる言葉として。

*1:ノーノ「現代音楽の詩と思想」、村松真理子訳、『現代音楽のポリティックス』、水声社

*2:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*3:Juan María Solare (2004). Nono: Soñando caminos. Acerca de la trilogía "Caminantes" del compositor Luigi Nono y sus fuentes de inspiración en España y América Latina. Humboldt 141: 24-26.

*4:http://www.luiginono.it/it/luigi-nono/opere/1-caminantesayacucho →scritti di nono

*5:Luigi Nono (1987). Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno, p. 72

*6:1987年の高橋悠治との対談より。『高橋悠治 対談選』(ちくま学芸文庫)に収録

*7:Luigi Nono (1987). Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno, p. 73

*8:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.

*9:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、98頁

*10:同上、155頁

*11:岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、月曜社、135頁