アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ブルーノーノ 第一部 6/8

B2 ブルーノの流動化する世界

多様な差異と見られるものは、ただ一つの無限な実体の多様で異なった相貌であるにすぎないという思想に支えられたブルーノの多様性のモデルは、海のような無限の広がりのなかに、島のような固定的なものの存在を認めない「外洋モデル」である。諸事物の多様性は実体ではなく、実体の状態、状況、様態、活動やはたらきのレベルで生じる。そうである以上、「固定された不変のものではありえず、むしろ不断の変化のなかにあると見なされる」。 *1 万物は本性として動的であるほかなく、変遷流転の理にあるということ。だがブルーノには、この宿命的な流転を空しいものだとして嘆いたり、カッチャーリのようにその流れを打破しようとしたりといった様子は微塵も感じられない。まったく逆で、ブルーノは流転を善きものとして力強く肯定するのである。

 

ブルーノとカッチャーリの考え方の違いがよく表れている一節を引用しよう。

死は我々にとって存在するけれども、実体にとってはなんら存在するものではありません。万物は、実体としては、少しも減りません。しかも、無限の空間を走り廻りながら、その顔を変えつづけているのです。そして万物は至高最善の力の支配下にあるのですから、万物は善から出ているのだということ以外のことを、信じ考え希む必要はありません。かくて、万物は善であり、善によってあり、善においてある。善から出て、善を通り、善に到るのです。それが反対に見えるのは、現在(の瞬間)だけをしか考えぬからです。あたかも建物の小部分だけを見ている者の目に、全体の建物の美しさは映らぬごときものです。彼に見えるのは、石であり、塗られたセメントであり、半端な壁であるにすぎません。しかし、全体を眺めることのできる者、部分と部分を比較照合する能力をもった者には、最高に美しいのです。この世に集っていたものが、彷徨える精霊の暴力あるいは雷鳴を轟かすユーピテル神の怒りによって、天蓋に包まれたこの墓場の外へ吹き飛ばされ、この星をちりばめたマントの外へ塵となって霧散し去ったとて、我々は怖れることはないのです。事物の本性は実体としては消滅しない。ただ我々の目にはそう映るのです。水泡の球に包まれていた空気が砕けて飛び散っただけのことなのです。なぜならば、ご存知のようにこの世においては、事物はつねに事物へとつづき、創造主の御手によってそこで二度と帰れぬ無のなかに投げこまれるような最後の深淵は存在しないのだからです。 *2

「全体を眺めることのできる者」というと、なにかまるで私たちがその気になれば、無限なるものの全体を一望のもとに見渡せる高みに立つことができるかのような口ぶりに聞こえるけれども、ブルーノの言わんとしているのは、ゾウの体表に張り付いているシラミに空を飛べと要求するかのごとき、そんなご無体な話ではない。無限の宇宙/自然にあってわたしが感覚的に見ることができるものは、実際いつだって、「石であり、塗られたセメントであり、半端な壁であるにすぎ」ない。だがそれでもわたしは、わたしの感覚によって捉えられる、ひとつひとつを取ってみればささやかな細部が事物から事物へと、空間的には無限に、そして時間的には永遠に連続しているのだということを理性をとおして推論することはできる。それがブルーノのいう、全体を眺める=無限を知るということの意味である。宇宙に属する無数の有限な諸事物は、泥のような一つの連続体をなすとブルーノが説いたこともある(ブルーノによれば、泥と宇宙の相異とはただ単に、前者においては諸部分が小さすぎて知覚できないのに対し、後者においては知覚可能であるという、粒度の違いでしかない)。*3 世界の複数性へとわたしたちの眼をひらいてくれるのも、やはりこの連続性の認識である。「私たちは、あたかも星々が、この広漠と拡がったエーテルの胸のなかで星から星へとつづいているように、世界は世界へとつづいていると考えています」。 *4

 

「万物は広大無辺の空間の中にあると知れ」――ここで忘れてはならないのは、ブルーノのこの教えがただ空間だけに当てはまるものではないということである。「ジョルダーノ・ブルーノの『無限の開かれた宇宙』というと、つい空間的な広がりのこと(だけ)を思い浮かべてしまいがちになるが、これは時間にも適用される」、岡本源太はそう指摘している。 *5 「現在(の瞬間)だけをしか考えぬ」人にとっては自らを死へと逐いやるものでしかないとみえた流転によって、万物がさまざまに位置を変え姿を変えながらも実体としては滅びることなく永遠に存在しつづけるのだと知るためには、時をいまこの瞬間としてではなく、連綿たる流れとして意識しなくてはならない。かくしてブルーノは、時間の継続から切り取られた一瞬のうちに「単独的なものの永遠性」を見いだすカッチャーリとは対照的に、移ろいゆく時の流れそれ自体の永続に、「変化を通した永遠」 *6 をみてとる。

この地球が永遠であり永劫であるとすれば、それは同じ諸部分が不変であり、同じ諸個体が恒常であるがためではありません。あるものは拡散し、あるものがその場所にとって代る、その変遷の故に地球は永遠なのです。 *7

 

永遠は流転の裡にこそ宿っているのだとする、ブルーノの逆説的ともみえる発想は、かれの思い描く無限空間の特異な構造に淵源している。

永遠を永続する時間と捉えなおし、神の永遠性と被造物の時間性との伝統的な区別を破棄するブルーノにとって、神のごとき永遠なる不動性とは、無限に運動し流転することと同義である。不生不滅とは生成消滅が無限につづくという意味であり、一つの全体であるとは無限に多様であることの謂いにほかならず、不変不動は無限の流転運動に等しい。 *8

カッチャーリが「奔流と岩石のあいだの一筋の沃土」というリルケの詩句を引くとき、神の永遠性と被造物の時間性は、なにか海と陸のごとき二つの別の世界としてイメージされている。そのうえでカッチャーリは、海と陸のどちらでもない境界線上の一筋の豊饒な渚に、此岸を流れる時間の連続性とも彼岸の無時間性とも異なる、瞬間の多数性/多様性という時間の様相を見いだそうとしているのだが、ブルーノの無限宇宙には、そもそもそのような渚自体が存在しえない。

 

永遠なる不動性=無限の流転

 

それが渚の不在を告げる等式である。要するに左辺と右辺は同じものなのだから、境目など考えられようはずがないというわけである。ブルーノにとって宇宙とは、万物をつくり形を与える「世界霊魂」と呼ばれる普遍的な魂が、無限にひろがる質料に、すみずみにまで遍く浸透して一体化した、それ自体が丸ごと一つの神のごとき巨大な「生き物」 *9 *10 である。不動であるか流れているか、一であるか多であるかは、この一なる存在者を実体としてみるか、それとも実体の偶有性に目を向けるかという視点の違いでしかない。ブルーノの言葉を引けば、「無限者は、動くものでも可変のものでもなく、無限者のなかに、動的で可変的な無数のものが存在している」。 *11 アンピトリテとブルーノが呼んだ岸辺のない無限の大海は、決して尽きることのない多種多様な流れに充たされた、不断にして永遠の流動体である。それと同時に、アンピトリテの洋上で日々どれだけの波が産み出され、またどれだけの波が崩れ去ろうとも、海そのものは増えも減りも消えもせず、つねに同一のものであり続ける、その意味においては永遠の静止状態にあるとも言えるのである。

*1:岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、月曜社、38頁

*2:ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、34頁

*3:同上、105頁

*4:同上、171頁

*5:http://d.hatena.ne.jp/passing/20100813/p1

*6:『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、160頁

*7:『無限、宇宙および諸世界について』、100頁

*8:『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』、174頁

*9:『無限、宇宙および諸世界について』、122頁

*10:ブルーノ『原因・原理・一者について』、加藤守通訳、東信堂、9頁

*11:『無限、宇宙および諸世界について』、115頁