アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ブルーノーノ 第一部 2/8

B1 ブルーノのアンピトリテ

世界の複数性に関して、ブルーノがカッチャーリの群島といっけんよく似た絵を宇宙空間に描いているとしても、ひとたびブルーノの思想内容を吟味してみれば、それは鳥の翼と昆虫の翅が似ているがごときものであることがわかる。カッチャーリの群島とブルーノの「群島」は、生物進化でいうところの相同ではなく相似の関係であって、たとえ見た目が似ていようとも、根本的に異なる原理に由来するものなのである。

 

カッチャーリの群島が、「さまざまな現象をいかに救出するか、つまり全ての現象を還元し一つにするのでなく、それらをそのまま組み立てる(com-porre:一緒に捉える)ことが重要なのです」 *1 という思想から導き出されたモデルだとすれば、ブルーノの群島が拠りどころとしているのは、

それ(我々の哲学)はすべてを、一つの原理に還元し、一つの目的に関係づけるものです。 *2

*

結局(無数の個が存在することは認めるとしても)あらゆるものは一なのです。そして、この一性を知ることが、すべての哲学と自然観照の目標にして終着点なのです。 *3

という、敢えて言うなれば徹底した「還元主義」である。地球であれ太陽であれ、特定の一点を全宇宙の不動の中心に据えようという考え方全般をブルーノがしりぞけるのは、中心も縁もない、あるいは視点次第でいたるところが中心だともみなしうる唯一にして無限の宇宙(自然)がものみなを包み込んでいるがゆえにである。ブルーノにとって、「中心というのは決してひとつではない」という認識は、無限なる宇宙という一者の存在を認識することと不可分である。こんな風に要約することもできるだろう、カッチャーリの群島は還元不可能なしかたで多様である、それに対しブルーノの群島は、還元可能なしかたで多様であると。

 

ブルーノは、無限なもののなかではいっさいの計量的尺度が消失しているとみている。尺度の不在という事態のもたらす帰結は広汎におよんでいて、特定の固定的中心が存在しえないということもその一つのあらわれだと言えるが、なかでもとりわけ興味深いのは次のような事柄である。宇宙が一であり無限であるそのいっぽうで、宇宙のなかにはたくさんの相異なる有限物が存在している、しかしブルーノは、これらの事物のあいだにいかなる階層性をも認めていない。「蟻であるよりも人間であり、人間であるよりも星であるからといって、無限なものとの比例関係、類比、そして合一により近づくわけではありません。なぜならば、人間や蟻であるよりも太陽や月であるからといって、この(無限の)存在により接近するわけではなく、無限なもののなかではこれらのものどもは無差別なのですから」。 *4 限りないものについてのブルーノのこの途方もない説明は、尺度がないということをすべてが同一の水準(水位)にあることだと理解しようとする限りある者の性癖にしたがって、なにか大海原のように起伏のない一つの広大な面の上にいるような気分をわたしたちのうちに喚び起こすだろう。この宇宙に属する森羅万象は、ありんこであろうとヒトであろうと太陽や月であろうと、いっさいがこの同一の面上に犇きあっており、「船が常に海面上を――その外側でも内側でもなく――移動するしかほかに途がないように」 *5 、ここから深みに潜ることも、高みに飛び立つこともない――そしてこの果てしない海原に、われらの地球が属する太陽系と同じような諸世界が「各自の場所」 *6 を保ちつつ数知れず点在しており、無限に尺度はないのだから、この世界とあの世界とのあいだに序列などつけられようはずもない、ということに思い至ったとき、無数の諸世界の織りなす多島海としての宇宙像が描き出されることになる。

 

だが、この絵にはちょっとばかりごまかしがあるように思う。宇宙という無限の地に含まれるさまざまな図のあいだに序列はない、それとまったく同じ理由で、そもそも図と地のあいだにも序列などないはずだからである。視点しだいでこの宇宙の任意の一点を中心とみなしうるというブルーノの考えは、星と星とのあいだのエーテルの領域の任意の一点であっても、宇宙の中心たる資格において、太陽や地球になんら劣るものではないということを意味している。またブルーノはこういうことも言っている。「知るべきことは、一つの無限な容積をもつ拡がりないし空間が存在し、それが万物を包み、万物に浸透しているということです」。 *7 宇宙を海に、万物を島に喩えるとしたら、海はたんに島を取り巻いているだけではなく、島に浸み込んでもいる、どうやらブルーノはそうみているようだが、そんな奇妙な島を果たして島と呼んでいいのだろうか。そのとおり、それは島ではない。ブルーノが言わんとしているのは、多数の有限物が属する無限の宇宙は実体としてはあくまで一であって、「多様な差異と見られるものは、同一の実体の多様で異なった相貌」、 *8 言い換えると、「不動で持続的で永遠な存在の、移ろいやすい、流動的な、消滅可能な相貌」 *9 であるにすぎないということなのである。要するにブルーノは、宇宙のなかの万物を、海から截然と区別される陸地、地に対する図ではなく、海それ自体のとりうるさまざまな形姿、たとえば渦や潮目、波の紋様、泡屑や海面の燦きのようなものだと、つまりは一枚の地の上に浮きあがる多種多様な細部だとみなしているのである。

 

この島影ひとつ見当たらない唯一にして無限の大海を、ブルーノ自身は古代ギリシャ神話に登場する海の女神アンピトリテ(アンフィトリテ)の名で呼んでいる。

……その結果、彼はすべてを一なるものとして見つめ、もはや区別や数を通して見ることはないのです。区別や数というものは、いわば多様な隙間とも言える感覚の多様性に即して、混乱したしかたで見たり把握したりすることを、可能にするのです。彼が見るのは、アンフィトリテです。アンフィトリテは、すべての数とすべての形質とすべての理の泉であり、モナド(単一性)であり、すべての存在の真の本質なのです。 *10

 

「アンピトリテを見る、だって?ほう、そんな壮大な海がこの世に存在するとは知らなかった。どこです?どこに行ったら見れるんですか、その海は?」そう訊かれたら、こう答えなくてはならない。「なにを言ってるんです、あなたのすぐ目の前にあるじゃないですか。目の前にあるどころか、あなたも、私も、いつだってこのアンピトリテ、つまり(展開された)無限の中心に位置しているじゃないですか」。そう言われてあたりを見回してみても、目に入るものといえば種々雑多な事物ばかりで一向にピンと来ないのも無理はない。そもそも「無限を見るのは感覚ではない」 *11 からである。「異なった認識原理」 *12 が必要だとブルーノはいう。無限は「感覚的な目」 *13 ではなく「理性の目」 *14 で見られる。ブルーノはよく、「無限の宇宙から見ると」だとか「無限の視点から見ると」といった言い回しを口にしている。「宇宙に存在する運動には、無限の宇宙から見るならば、上も、下も、あちらも、こちらも、区別ないのです。こういう区別は、そのなかにある有限の諸世界から見られたものであって……」。 *15 ブルーノにとって「無限を見る」とは、こことは違うどこか遠くを見はるかしたりすることではなく、目の前にあるものを別様に見るということを意味するのだ。喩えて言うならそれは、あるものの色を目で見て、同じものの声を耳で聞くことに似ている。 *16

 

さて、そういう次第であるから、ブルーノの群島には、みる角度に応じて別の絵柄が浮かびあがるレンチキュラーレンズのように、別の眺望が潜んでいるとみるべきだろう。角度を変えて、それを無限の視点から見ようと試みるならば、島であるとみえた領域のそこかしこで新たな波頭が目覚めて島々は蒼く染め上げられていき、多中心的な多島海の眺めは、汎中心=非中心的とでも呼ぶのがふさわしい外洋的空間へと変貌していく。感覚の目とは別の目で見られる広大無辺の海原アンピトリテ。この尺度なき無限の大洋の上にあっては四分儀もコンパスも役にたたない。アンピトリテの海表面は、メルヴィルが『白鯨』で書いたような、序列も脈絡も体系も欠いた厖大な細部の、連綿たる連なりである。わたしは大海に浮かぶ一艘の船のように、この寄る辺なき洋上の、無にも等しいいま・ここの一点に繋ぎとめられている。地球が宇宙に存在する無数の星のひとつでしかないように、わたしがいまこの場所で知りうるのは、アンピトリテの表面に浮かぶ、取るに足らない一細部、カッチャーリ風にいえば、「どれか一つの個別的なもの=a detail」でしかない。だが、ここが重要なところなのだが、カッチャーリが『シュタインホーフから』のなかで書いていた、「本質、『もっとも深いもの』を探求する者、彼岸を志向する者の病んだ眼には、現実存在するものは、どれかひとつの個別的なものにすぎない」 *17 という批評は、宇宙がブルーノのいうような意味で無限であるかぎりは通用しないだろう。「彼岸を志向する者」とカッチャーリは言う、しかし唯一にして無限の宇宙には、そもそも彼岸と呼び得るような超越的な外部は存在しえない(「無限な存在には外部やそれを越えた場所はないのです」)。 *18 「もっとも深いもの」とカッチャーリは言う、しかし、アンピトリテには見かけから隠された深みもなければ、見晴らしのよい高みもない。なぜなら無限の宇宙の任意の一点は中心だとみなしうるのだから(「宇宙は全部中心である。あるいは宇宙の中心はいたるところにある」)。 *19 わたしの眼の前で刻々とうつりゆくさまざまな形象は、おのおのがそのまま均しく、無限なるものの真っ只中でみられる一光景に、「永遠の顔のうえを掠めてゆく、束の間の、しかしけっして尽きることのない表情の動き」 *20 に、ほかならないのである。わたしの感覚によって捉えられるかぎりの世界の多様な細部は理性によって、事物から事物へと空間的にも時間的にも果てしなく連なるものだと、すなわち無限だと、推論される。 *21 結局ブルーノの哲学は、任意の細部=a detailが普遍性に直結する無限空間特有の回路を介することで、カッチャーリの思索とはまた別の経路を辿って、いま・ここに在ることの肯定へと導かれるのだ。そのことは、ブルーノ自身が次のようなたいへん力強い口調で説いているとおりである。

我々はこういうことも知るでしょう。ここから天へ昇るのも、天からここへ昇るのも、そこから天へ飛ぶのも、天からそこへ飛ぶのも、またある点から周辺へ降るのも、同じことなのだと。我々が彼らに囲まれているのでもなければ、彼らが我々に囲まれているのでもありません。彼らが我々の中心なのでもなければ、我々が彼らの中心なのでもありません。我々が星に住み天に包まれている、と同じく彼らもまた(星に住み天に包まれているのです)。かくして我々は羨望の外に立ちます。空しい不安や愚かしい懸念から解放され、もはや、わが身の近くにある、いや自分がもっている宝を、遠くに探し求めたりはしません。 *22

上の引用の一番最後でブルーノが述べていることについては、今ここで少しふれておいた方がいいだろう。つまり「宝」はわが身の近くにあるのみならず、自分がもっているのだという点について。じつはブルーノの言う「アンピトリテを見る」とは、最終的にはそのことを――わたしは単にアンピトリテを目の前にしているだけではなく、わたし自身がアンピトリテの一滴であることを知る、ということを意味する。抽象的な言い方をすれば、アンピトリテを見るとは、アンピトリテの波のざわめきをわたしが感受し、共鳴を続けて遂には一体化に到るということである。ではそのために具体的にどうすればよいのかという点に関するブルーノの所論のなかにも、ノーノとブルーノをつなぐ紐帯を見つけることができるのだが、それについてのくわしい議論はまだ先(第二部)の話である。

*1:「マッシモ・カッチャーリに聞くアナロジーの論理学」、八十田博人訳、『批評空間』第III期4号

*2:ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、239頁

*3:ジョルダーノ・ブルーノ『原因・原理・一者について』、加藤守通訳、東信堂、158頁

*4:同上、172頁

*5:岩成達也「モゥビ・ディクの短い見取図」、『マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験』所収

*6:『無限、宇宙および諸世界について』、176頁

*7:同上、160頁

*8:『原因・原理・一者について』、19頁

*9:同上、179頁

*10:ジョルダーノ・ブルーノ『英雄的狂気』、東信堂、加藤守通訳、238頁

*11:『無限、宇宙および諸世界について』、44頁

*12:『原因・原理・一者について』、110頁

*13:同上

*14:同上

*15:『無限、宇宙および諸世界について』、93頁

*16:『原因・原理・一者について』、113頁

*17:カッチャーリ「弓道」、廣石正和訳、『批評空間』第II期25号

*18:『原因・原理・一者について』、175頁

*19:同上、173頁

*20:ローゼンツヴァイク『救済の星』、村岡晋一・細見和之・小須田健訳、みすず書房、249頁

*21:『無限、宇宙および諸世界について』、125頁

*22:同上、32頁