アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

第三の脊索 3/3

水浸しの闇

さてここでちょっとスズメのことを思い浮かべてみましょう。スズメという鳥は、少なくとも東アジアに住んでいる人であれば、おそらく誰の記憶のなかにも住みついている鳥である。

「スズメって鳥を知ってますか?」

「当たり前だよ」

「そうですか、じゃあ記憶をたよりにスズメの絵を描いてみてください」

ところがそう言われて正確に描ける人はほとんどいないだろう。「記憶は過去が詰まったたくさんの引き出しがある戸棚ではありません」とカッチャーリは語っている。「過去は生きています。過去はわれわれが好きなときに引き出しからカタログのように選び出すのではなく、むしろカタログの方が勝手に出てくるのです」。 *1 それは本当のことだろうと思う。明らかに、わたしのなかのスズメは、記憶のどこかにある引き出しにしまいこまれて、いつでも自在に手にとってみることのできるようなかたちでは存在していない。それはたしかに生きていて、わたしのなかの空間を気ままに動き回っているのである。だがしかし、記憶のなかのスズメの滲んだ輪郭を見つめていると、それがわたしの吸っているその同じ空気のなかを飛んでいるものだとはとうてい考えることができないのだ。結局いちばんもっともらしいのは、スズメが記憶のなかではいつもなにか水のようなものに包まれていて、わたしたちは仄暗い水の層ごしに、その揺れ動く姿を垣間見ることしかかなわないという解釈である。「私の記憶の暗がりにあらわれる糸車は、おそらくはかなりの期間、水あるいはそれにごく近いものに浸っていたにちがいないのだ」 *2 と岩成達也は書いている、またこうも言っている、「多分 記憶の中で輝くものは 本当はひとしなみに昏いのだ」。 *3 記憶のなかのなべてのものが、昏い水のようなものに浸かっているという話は、それもまた本当のことだと思われる。記憶がしばしば海に喩えられるのもそのせいではないだろうか。

 

記憶するということは、固定することでも定着させることでも刻み込むことでもなく、記憶の海という底知れぬ器に、ただなにかを放り込んでやることである。記憶とはだから、海から魚を釣り上げるのとちょうど逆の行為だ。よく言われるように、人体の半分以上は水でできている。わたしのなかの空間は水浸しの空間で、醤油せんべいだろうと冬の乾いた空気だろうと、体にとりこめば、否応なしに湿気を纏うようになる。記憶されるものについても事情は同じである。なにしろ神経系だって、まるごと液体のなかにどっぷりと浸かっているのだから。どれだけ固く乾いたものであっても、記憶の海を漂っていればじきに魚の肌のような滑りを帯びてくることは避けられないはずだ。

 

Omaggio a György Kurtágのライヴ・エレクトロニクスにみられる記憶のしくみを思い出してみよう。そこでは記銘とは、アルトの声もフルートの音も、クラリネットの、チューバの音も、とりあえずいっしょくたにして電子回路網に放り込んでやることであった。記憶の保持とは、フィードバック・ループの渦巻きで音を攪拌しながら滞留させることであった。記憶は固定された標本としてではなく流れとして、動きのなかで保持されるのである。また想起とは、記憶のたんなる機械的な取り出しではなく、想起する行為それ自体が記憶そのものの変質を招いてしまうような、ひとつの「出会い」、接触であった。これら一連の過程を経て発現される音響は、水の原理に深く侵され、それ自体が水のような性質を湛えた半流動体に大きく変容している。Con Luigi Dallapiccolaのライヴ・エレクトロニクスはOmaggio a György Kurtágに比べればずっと原始的なものであるが、それでも、ごく単純であるとはいえ神経系にも似た回路に音をくぐらせることによって、いくばくかの水分が音に付与されることになるのである。

 

擦過傷

Con Luigi Dallapiccolaはノーノのライヴ・エレクトロニクスの起源にあたる作品である。だがここで行われた試みの端緒は、さらに20年以上前の合唱曲Cori di Didone (1958) にまで遡るのかもしれないとノーノは回想している。

Cori di Didoneでは、シンバルの震動が声、特に子音の震えと入り混じっていきます。ウンガレッティの声 *4 は私にとって大きな音楽のおしえでした。私は既に電子音楽の研究に接してはいました。シェフェールがパリでやっていたミュジック・コンクレート、シュトックハウゼンのケルンでの活動、そしてもちろんミラノでの試み。ただ私はまだ、それらの手法に差し迫った必要性を感じてはいませんでした。Cori di Didoneは既に別の可能性を予見しているように思われます。異なる音調のシンバルの震動が実質的に周波数発生器として振る舞い、声と合わさって、ときおりリングモジュレーターにより変調されるように、フィルターをかけられ、加算され、減算されるようにみえるのです。 *5

Cori di Didoneにはもちろん、エレクトロニクスは影もかたちもない。それに換わって利用されるのは、子音のささくれだった音の膚――たとえばRisonanze errantiの終盤で4度繰り返されるdeathのth音のような――と、それに類似した肌理をもつシンバルのロールの組み合わせである。この両者を擦り合わせることによって、のちのライヴ・エレクトロニクスにおける完膚なき音の解体にははるか及ばないものの、音の表皮に多少の擦り傷がつくられる、するとそこから、微かな汐の香が立ちのぼってくるのだ。それはやがて、80年代のライヴ・エレクトロニクス作品のなかにひらけてくるocean of sound (and memory) の、遠い予兆である。

 

蛇足

ノーノの譜面を曲名を伏せて見せられたとき、フェルマータの多さとその形態的多様性だけを手掛かりに後期作品か否かを判断してもまず間違いはないだろうというくらい、ノーノのフェルマータは後期を特徴づける代表的な識別形質である。Con Luigi Dallapiccolaにもフェルマータの数はそこそこ多い(全115小節中27個)。そのほとんどは休符もしくは小節の区切り線の上に置かれたものである。CDで聴いていても、ところどころに打楽器の残響だけが長く尾を曳く中間休止が差し挟まれているのが感じられる。「なるほど、いかにも後期ノーノらしい時間のリズムが息づいている音楽だ」――そう考えても別に間違いというわけではない。ただしここで、なんでもかんでもアップロードされることで有名なYouTubeに投稿されているCon Luigi Dallapiccolaの演奏風景の動画をひらいてみれば、ただ音を聞いているだけでは分からない、この作品に数多くのフェルマータが必要とされるもう一つの現実的な理由を知ることができるだろう。

 

Con Luigi Dallapiccolaは、15種類の打楽器を6人の奏者が、担当する楽器を目まぐるしくスイッチしながらこなしていくという演奏形態の音楽である。必然的に個々の奏者は、舞台上いっぱいに並べられた楽器間を、あたかも花から花へと蜜を求めて飛び渡るマルハナバチのように、たびたび移動する必要に迫られることになる。スコアにも、「急ぐことなくなるべく静かに、軽い運動靴をつかってください」と、わざわざ歩き方に関しての但し書きがつけられているくらいだ。Con Luigi Dallapiccolaのフェルマータの多くはこの、奏者の移動のための時間として利用されている。音楽のちょうど中ほどで、3小節の範囲に5つのフェルマータが集中している箇所があるが、これもYouTubeの動画をみれば、フェルマータのたびごとに一人の奏者が、離れた位置に置かれたクロタルとティンパニのあいだを行ったり来たりしているのが分かる。Con Luigi Dallapiccolaの録音を聴いていて、音楽の流れがいったん静止する時間が訪れたら、そのときはたいてい舞台上を奏者が歩いているのだとイメージすれば、それが、演奏会場で聴衆の一人としてこの作品に接したときに目にするだろう光景の再現になる。

 

歩く奏者。歩く奏者?あれ?なんだかどっかで聞き覚えのある言葉だな。そのとおり、これは1987年10月初演のDécouvrir la subversion以降のノーノ最後期の作品群にほぼ一貫して現れる特徴的形質である。Découvrir la subversionについては詳細は定かでないが、フルート奏者に演奏中のなんらかの場所移動があったようだ。Leggio 1-6の6つのセクションからなる、ヴァイオリン独奏とテープのためのLa lontananza nostalgica utopica futura (88年9月初演)では、Leggio(譜面台)の名が示すとおり、1つのセクションが終わるたびに、奏者が舞台上あるいは客席側のさまざまな位置に不規則に置かれた譜面台のうち、まだ使われていないどれか一つのもとに移動し、新しい場所で演奏をはじめるというスタイルが採られている。これはノーノの最後の作品であるヴァイオリン・デュオ曲"Hay que caminar" soñando (1989) にも引き継がれている。La lontananza初演の翌日に、試作品のようなかたちでかりそめの初演が行われたPost-prae-ludium n.3 BAAB-ARRは、4つのマイクロフォン(おのおののマイクが異なる音響処理機構に接続されている)が分散配置された演奏会場をピッコロ奏者が即興演奏をしつつ歩きまわり、4つのマイクのいずれかに接近すると、そのつど、そのマイクに固有の音響処理の効果が発現されるというコンセプトの作品である。

 

Con Luigi Dallapiccolaで観察される演奏中の奏者の移動は、ノーノの最晩年に出現するこれらの歩く奏者たちを先取りしていると、ある意味では、そうみることもできよう。だがたとえ「奏者が歩く」という表現型が共通していたとしても、この両者の歩く理由は明らかに別の動機に基づくものである。Découvrir la subversion以降の「歩く」は、ノーノがトレドの修道院Monasterio de San Juan de los Reyesの壁にみた、Caminantes, no hay caminos, hay que caminarの「碑文」――であるかのようにノーノは語っているが本当は匿名の落書き――の精神の、だいぶぎこちないやり方であるとはいえ実践の試みであり、no hay caminosすなわち進むべき特定の道をもたない漂泊者が試行錯誤で歩きながら道をつくりだしていく過程を模したものである。La lontananzaの移動も機能的には別の譜面台に向っての目的をもった移動であるが、セクションの数が6つなのに対し、ダミーのスタンドを含む8~10個の譜面台が立てられ、一応形のうえでは、奏者に複数の可能な選択肢がつねに与えられる設定になっている。いっぽうCon Luigi Dallapiccolaの移動はじつに単純明快な、あらかじめ決まった点から点への機械的な移動である。進むべき道は一意に定められている、だから奏者は逡巡したり寄り道したりすることなく、速やかに所定の位置への移動を済ませなくてはならない。

 

要約すると、「多数のフェルマータ」と「演奏中の奏者の空間移動」という後期ノーノ独特の派生形質が、Con Luigi Dallapiccolaの段階で既に発現されてはいるのだが、その機能が異なっているということである。これは進化生物学で前適応もしくは外適応とよばれる現象によく似ている。前適応の具体例として、音楽についての話のなかで取りあげるのにちょうどふさわしいと思われるのが、鐙骨、砧骨、槌骨の三つの骨からなる哺乳類の耳小骨の起源である。比較解剖学的にみると、耳小骨のうち鐙骨は、かつて魚類の顎を支えていた舌顎骨に、砧骨と槌骨は、爬虫類のやはり顎の関節の蝶番をつくる方形骨と関節骨に由来するものと考えられている。砕けた言い方をすると、わたしたちは、昔はものを食べるための道具として利用されていた既存の構造をマイクロフォンのパーツに転用することによって、いまこうして空気中を伝播してくるさまざまな音を聞いているというお話である。

*1:マッシモ・カッチャーリ「アナロジーの論理学」、八十田博人訳、『批評空間』第III期第4号

*2:岩成達也「第一の断片」、『燃焼に関する三つの断片』所収、書肆山田

*3:岩成達也「エピローグ そのii――hic et nunc」、『(いま/ここ)で』所収、書肆山田

*4:ウンガレッティの声とは、かれ独特の子音を非常に強調したイタリア語の話し方を指す。

*5:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 33