アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

第三の脊索 2/3

破壊的作曲法

作品全体がfa-mi-do#の三音で構成されているとはいっても、Con Luigi Dallapiccolaは打楽器アンサンブルのための音楽なので、使用されている楽器のうち、五線譜上に書き表せるような定まった音高をもつものは限られている。ピッチの正確さという点からみると、Con Luigi Dallapiccolaの楽器は次の4群に分けられる。第一に、音高が全く不明瞭であるもの(大太鼓、ライオンズローア、シンバル、チャイニーズ・シンバル、Bambu、スレイベル)。第二に、不定ながらも相対的に異なる音高をもつもの。トライアングルの場合は、7とおりのサイズを用意することで、7段階からなる原始的なスケールがつくられ、トムトムでは高、中、低の3タイプがつかわれる。大太鼓、ウッドブロック、テンプルブロックについても、打つ位置の違いに応じて3通りに書き分けられている箇所がある。三番目に、出す音がfa-mi-do#の三音に限定されているもの。おのおのがfa、mi、do#の三音に調律された3つのメタルプレート、チューブラーベル、そしてティンパニがこれにあたる。そして最後に、fa、mi、do#以外のピッチも鳴らすことのできる楽器としてクロタルとマリンバが挙げられる。クロタル・マリンバの場合は、fa-mi-do#のおのおのに対しトライトーンの関係にあるsi-si♭-solもつかわれており、さらにクロタルについては装飾音としてdo、fa#も現れる。したがって、fa-mi-do#以外の音がまったく使われていないというわけではないのであるが、それでも... sofferte onde serene ...と比べると、ピッチの種類は格段にきびしく制限されている。

 

Con Luigi Dallapiccolaでは6人の奏者の担当する楽器が目まぐるしく移り変わっていき、一人あたり最低でも11種類の楽器を演奏することになるので、楽譜上では、打楽器特有の一線譜や三本譜線のところどころに短い五線譜が埋め込まれるかたちになる。... sofferte onde serene ...の場合であれば、『インターナショナル』の三音がより複雑な楽音の組織のなかに組み込まれていく――Jürg StenzlやWerner Lindenの仮説どおりであれば――のに対し、Con Luigi Dallapiccolaでは、打楽器の不定形な噪音のざわめきのなかに、ピッチの定まった音が、融け残った氷のように点在するといった様相を呈するわけである。

 

氷が融けて水になることに喩えられるような因果関係が、演奏音とライヴ・エレクトロニクスの電子音響とのあいだにはたしかに存在する。80年代のノーノの作品では、ライヴ・エレクトロニクスのつくりだす不定形にして連続的な響きの海をしばしば聞くことができるが、言うまでもなくこの海は、作品世界のなかでは陸地に相当するところの演奏音が、ある能動的な働きかけを受けることで侵蝕されて生じた内部起源の海である。... sofferte onde serene ...のようなテープを用いた音楽に、こうした因果関係は認められない。テープの再生音は、演奏音に対してどこか別の世界から持ち込まれた外部起源のものだからである。にもかかわらず... sofferte onde serene ...では、演奏音とテープ音とのあいだ擬似的な関係性を演出するためのひとつの仕掛けがほどこされている。会場にテープ音響を再生するためのスピーカーを二種類用意せよとの指示がそれである。まず大型のスピーカーを、ピアノの両端、ステージの左右に設置する。これは、生のピアノとテープの音響の、分離を前提とした対話のためのものである。それとは別に、小型のスピーカー2台をピアノの下部もしくはピアノのすぐ後ろに設置せよとの指示があり、その用途は、生ピアノとテープの音響をcon-fondere=con-fuseさせることにある、とスコア冒頭の解説に書かれている。じつはこの指示はあまり実演で守られてはいないようであるが、指示どおりに小型スピーカーを設置してやると、たしかにテープとピアノが分離せず渾然一体となった音響が得られるとの由。ヴェネツィアのラグーナのうえを渉っていく鐘の音が、島の鐘楼から流れ出したものであるように、いかにもピアノの生演奏の音からテープの音響が派生したかのような効果がここで意識されているといえるだろう。

 

それと同様の演出が、Con Luigi Dallapiccolaの場合は定まったピッチをもつ打楽器とピッチの不定な打楽器とのあいだで図られている。

 

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上の譜例では、互いに音質の似かよったクロタルとトライアングルを同時的に鳴らすことによって、後者が前者の分解産物であるというコノテーションが生まれる。この箇所を聴いているとあたかも、乱打されるクロタルの音の粒子が砕け散って、ピッチを失ったトライアングルの飛沫を四囲に散乱させているかのごとくに感じられるのである。同じように木質打楽器であるマリンバの強打には、ウッドブロックもしくはテンプルブロックの、ピッチの不明瞭な木の響きが重ねあわされる。3つの原子からなる化合物fa-mi-do#を裸の原子fa、mi、do#にバラしてやることが第一段階の分解だとすれば、Con Luigi Dallapiccolaではさらに進んで原子そのものの崩壊が生じているとみられる。その一つの証拠がこれである。

 

出すことのできる音がfa、mi、do#の三音に制限されているティンパニチューブラーベル、およびメタルプレートの場合は、それぞれの楽器の響き自体に破壊の徴候があらわれている。五線譜の上では至極明快に、三通りに書き分けられるティンパニのfa、mi、do#は、現実には非整数次倍音の雑多なざわめきに侵され、噪音の草叢に半ば埋没した、廃墟の相貌も露なfa、mi、do#である。チューブラーベルのfa、mi、do#も、ティンパニほどではないものの、かなり不安定で危なっかしい。そしてメタルプレート。このメタルプレートが、Con Luigi Dallapiccolaにおけるライヴ・エレクトロニクスの座である。メタルプレートのfa、mi、do#は、ライヴ・エレクトロニクスの作用を受けて、比喩ではなく文字どおりに、リアルタイムで解体されていく。ステージの中央、指揮者の目の前の位置に、吊るし切りのアンコウ風にぶら下がっている3枚のメタルプレートが、ちょうど『白鯨』において船上でバラバラにされ、語り手イシュメイルに片々たる細部のネタを提供する仕止め鯨の役割を担っているのだ。

 

流れる記憶

Con Luigi Dallapiccolaで用いられるライヴ・エレクトロニクスの手法は二種類。そのうちの一つは任意で、マリンバ、ライオンズローア、クロタルとトライアングルの音響を増幅して、それぞれ会場の両側面、舞台の左右、会場後方の両端のスピーカーから出力するというごくシンプルなもの。そしてもう一つの必須にしてメインの操作が、メタルプレートに対して施される音響加工である。それはCon Luigi Dallapiccolaの全115小節中47小節で稼動し、この音楽の心臓部を担っている。

 

Das atmende Klarsein以降に導入されたEXPERIMENTALSTUDIOのライヴ・エレクトロニクスと比べると、しくみはずいぶんと簡単なものだ。おのおののメタルプレートにピックアップ(コンタクトマイク)が取り付けられ、メタルプレートの震動が空気を介さずして直接電気信号に変換される。それがリングモジュレーターによって周波数発生器の生成するサイン波と掛けあわされ、二つのシグナルの周波数の和と差の波に分解されて、舞台の端に据えられたスピーカーから出力される。発生する音響は、のちにEXPERIMENTALSTUDIOの技術による高度な音の分解によって産み出され、80年代のノーノ作品のそこかしこの空隙を充たしている電子音響の海原の、より原始的な姿である。fa、mi、do#とよばれる「3つの音」の表皮を引き裂き、安定した形状を奪い、体液を滲出させ、刻々と色彩を移ろわせていく水のような流動体へと変質させること――そのための、この時点ではせいいっぱいの試みが、Con Luigi Dallapiccolaのライヴ・エレクトロニクスなのだ。ノーノ自身は次のようにコメントしている。

Il prigionieroのFratelloの三音を発するメタルプレートに適用されることによって、この音響処理は、空間に活性化された波のうねりをつくりだします。原音の単純なスペクトラムが、リングモジュレーターをとおして複雑な音響になるのが感じられます、思うに、それはたんなる音響の増幅ではなく、増幅しつつ空間を伝播していく、なにか記憶のシグナルのごときものなのです。 *1

ノーノがいう記憶のシグナルun segnalle della memoriaとはどういう意味だろう?ポイントは、それがche si propaga nello spazio amplificandosiとして、つまり空間内の動きとして解されている点である。これはMarinella Ramazzottiがノーノについての本のなかで指摘している、l'associazione che Nono stabiliva tra i percorsi spaziali e i processi della memoria *2 ――「空間的な行程(route, journey, drift)と記憶の過程とのあいだにノーノがうちたてていた結びつき」の、ひとつの表現なのである。たとえばノーノはライヴ・エレクトロニクスにおいてリバーブを特に好む。リバーブというのは、発せられた音がサン・マルコ寺院の壁やラグーナの水面あるいは石畳になんども反射して、音源で音が鳴り止んだのちもしばらくの間、空中に音が保持されることである。したがってそれは一種の記憶である。ここで重要なのは、その記憶というのが、音が空間を動くことによって成り立つものだという点である。記憶とは、写真や録音のような過去のたんなる固定標本では断じてないという考えがノーノのうちにはある。Risonanze erranti (1986/87) のなかで共鳴risonanzeしているものは、さまざまな時代、さまざまな場所の、またさまざまな人物による、戦争の、別離の、愛の、絶望の、友情の記憶であるが、その記憶もまたerranti、流動する性質のものである。それは別にただの比喩ではなくて、この作品のところどころにひろがる古いシャンソンの谺は、リバーブがかけられると同時にハラフォンによって、本当に空間を遊動していくのだ。

 

Con Luigi Dallapiccolaでは、メタルプレートの、そのままではよく聞こえないかすかな、内的な震動がコンタクトマイクで増幅され、会場全体にひろがっていくわけだが、この作品がつくられた頃にはハラフォンなどというものにノーノはまだ接していないので、その音響がダイナミックに空間を回遊したりするわけではない。リング変調はそもそもリバーブですらないだろう。ただ少なくとも言えることは、もともとかなり噪音的であるメタルプレートの音が、ライヴ・エレクトロニクスで変調されることでいっそう噪音に近づき、形状がいよいよ不明瞭化して不規則に蠕動する波のようなものに変質していく、そのことをとおして、弱いながらも流動性の徴候が芽生えてくるということである。そしてノーノにとってはこの流動性ということこそが、記憶に必須の性質なのである。

*1:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 59

*2:Marinella Ramazzotti (2007). Luigi Nono. Palermo: L'Epos. p. 208.