アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Un unico suono 4/5

2° No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij

1987年11月28日に東京はサントリーホールにて初演されたNo hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskijは、御存知のとおり全篇がG音というun unico suonoでつくられた音楽である(un unico suonoとは、「No hay caminos, hay que caminar後の新たな試み」であるPost-prae-ludium n. 3 BAAB-ARRについてのプログラムノートのなかでノーノが用いた表現)。正確に言うと楽譜上では、G音の3/4音下から3/4音上までの範囲に四分音の間隔で並ぶ7種類の微分的な音高が書き分けられている。

 

とここでいきなり余談であるが、じつはこの作品には一箇所だけ、上記の枠からはずれた別の音が出てくる。58~60小節でcori 7 (ホールに分散配置された7つの楽器群のおのおのを、ノーノはヴェネツィア楽派の流儀にしたがってcoriと呼ぶ)のトロンボーンが発するFナチュラルである。この興味深い例外事象に関しては、Jimmie LeBlancが書いたNo hay caminos, hay que caminarについての本 *1 にくわしい考察がある。そんなピンポイントな本があるのかと思われるかもしれないが、私が知るかぎりでもNo hay caminos, hay que caminarをテーマとした本は、昨年までに3冊が出版されており、つい最近も、Ioannis Papachristopoulosによる新刊が出たばかりである。人によっては「同じ音がエンエンと続くだけのつまらん曲」で片付けられてしまう演奏時間20分そこそこの管弦楽曲のために、本3冊分の言葉が費やされ、それでもまだ書き足りないことがあるというのだから、まさにノーノの言うinfiniti possibiliを地で行くような話で、こんなにゆかいなことはない。たった一つの音だけで、一時間どころか、その気になれば五年でも十年でも、いくらでもやることがあるのだ。

 

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ノーノが残したスケッチのなかに、F音に関する言及がまったくみられないことから、問題のFナチュラルが作曲家もしくは写譜屋(No hay caminosの出版譜はオリジナルの手稿のコピーではなく清書されたもの)の書き間違いである可能性は否めない。しかしそうだとしたら、F音につけられているアクセント記号(>)をどう考えればいいのか、とLeBlancは述べている。該当の箇所では、cori 7のトロンボーンのFナチュラルと同時に、cori 2のトロンボーンがGの3/4音下の音を出している。ただこの音が、楽譜上ではFの1/4音上というかたちで、Fの音符に臨時記号をつけて書かれている。1/4音上を表す記号は、♯の記号が半分になった、二重短剣符のやや傾いだような感じの図になる。ひょっとしたらその位置と形がずれて書かれたために、>のようにみえたのかもしれない。仮にそうだとしても、L'errore come necessitàの精神で、それはそれでたいへんおもしろい、けっこうなことだ。ただしLeBlancは、Fナチュラルがエラーによるものではないという見方を支持する別の根拠として、この曲に出現する音が、Gナチュラルよりも低い音のほうに偏る傾向があるという事実を指摘している。G音の海原は、じっさい水のように、より下方へと引き寄せられる徴候を示すのだ――「多分、水が闇と一番異なるのは、それがいつでも下方へと引き寄せられるかにみえるということでしょう(岩成達也)」。 *2 もっとも単純な検証方法として、出てくる音の頻度分布をとってやっても、Gナチュラルをピークに、低い音のほうの側に歪んだ山の形ができあがる。したがって、このスケールからはみ出す音が現れるとしたら、それがA音ではなくFになるのは理に適っているというのだ。真相は、サン・ミケーレ島に眠るノーノ本人だけが知っていることである。

 

閑話休題。Gナチュラルを中心とした7つの微分音は、いわばこの音楽にとってのド―レ―ミ―ファ―ソ―ラ―シであるが、その使われ方は主として、7群に分けられたオーケストラの声部間の微妙な音のズレをつくりだす、要するに、マクロな変異をつくりだすためのものである。個々の声部についての経時的な音高の変化が、この7音を駆使して細々と指定されるというようなことは、基本的にないのである。それではこの音楽で聞かれる、suono mobileの名にふさわしい、あの漣のように繊細かつ多彩な細部の揺動は、どこを発生源としているのだろうか。既にみたPrometeoとQuando stanno morendoの事例に同じく、楽譜の随所に書き込まれた、奏法に関するさまざまな書き込みである。楽譜から抜き出して列挙してみよう。

弦楽器:

tasto crini, alla punta, rapidissime flautato, lentissimi arcata, crini-legno, sul ponte, sul ponte - al tastom ruotare l'arco,tasto - sul pontem flautato sul pontem flautato al tasto, arco battuto, legno battuto, arco battuto su corde vuote, alla punta, tasto, tutti un sola arcata, tasto - ponte, sul ponte arco lentissimo, tasto arco lentissimo crini sulla corda, dietro il ponte, armonici sul ponte arcata lentissima!, dietro al ponte, cambiando corda a volontà dà altezza ad altezza anche sulla stessa, arco battuto (legno-crini), arco al tasto, pizzicato, rapidiss. alla punta, tallone durissimo, al ponte, tasto-ponte, dietro il ponte, con bacchete di legno, ponte (arco), balzato tasto, balzato ponte, battuti crini-legno, arco sul ponte, ponte crini, tasto legno-crini, al tasto, legatissimo crini, armonici sul ponte, tallone al ponte, tasto - ponte, dietro il ponte arco rapido in su, come voci umane tremolanti, alla punta rapidiss.

管楽器:

1/2 aria e 1/2 suono, sordina, frullato

打楽器:

bacchete di metallo del triangolo, rimshot

これらに加え、ppppppp から fffff までのダイナミクス。そして5種類32個のフェルマータ

 

いっぽうテンポのほうはかなりシンプルである。四分音符=30(140小節)、60(9小節)、120(12小節)の3通り。ほかに休止やaccel. が計28小節(この種の基本的データに関しては、Erik Esterbauerの本 *3 を参照している)。四分音符=30、60、120というテンポ設定はPrometeoのTre voci bと同じである。私は「四分音符」=60というテンポは「四分音符」=30のいわば「1オクターブ上」と考えればよいと思う。No hay caminos, hay que caminarは、作品全体が、G音のオクターブ相同性からなる一つの連続平面上にあるが、それはテンポでいうと、「四分音符」=30を基準面とする「オクターブ相同性」の連続平面でもあるのだ。後期ノーノにおける「四分音符」=30というテンポの重要性は、後期作品の楽譜をいくつか見ていけば、すぐに気がつくことである。もしもNo hay caminosが一つの平らかな海原だとすれば、そこに流れる時間が「四分音符」=30のテンポを刻んでいることは、後期ノーノの世界ではほとんど必然的なことだと言ってよい。この件についてはのちの稿(「断ち切られない歌 中編の下」)で詳しく取りあげることになる。

 

さて、上の説明書きのリストを一瞥しただけで明らかなのは、大半の記述が弦についてのものだという点である。これはPrometeoのスコアにも認められる特徴であって、要するに後期ノーノの世界において、弦と管は若干性格が異なっているのだ。Prometeoを聴いていてたいへん印象的な管の特殊奏法は、先に挙げたコントラバスクラリネットの例もそうであるが、基本的にソロイストのレベルで現れる。オーケストラの編成に組み込まれた管楽器に関しては、せいぜい弱音器(sordina)の指示がところどころにみられるくらいで、おおむね「ふつうの」書法で書かれている。管が湛える細部は、あくまで名前のある一人の人間に帰属するものだ、ということである。いっぽう弦の場合は、ソロではなく合奏の段階ですでに、奏法についての細かな記述が譜面に溢れている。管に対して弦は、海のざわめきのようにより匿名的な音響の揺れ動きを担っているのである。No hay caminosは、遠い極東の地で、いつものような「ノーノ組」の管楽器ソロイストの帯同もなく、得体のしれないジャポネーゼのオケによって初演されることになっていたわけだから、こうしたもともとの傾向が顕著にあらわれるのは当然のことだろう。

*1:Jimmie LeBlanc (2010). Luigi Nono et les chemins de l'écoute: entre espace qui sonne et espace du son: Une analyse de No hay caminos Hay que caminar...Tarkovskij, per 7 cori (1987). Paris: Harmattan, p. 50-52.

*2:岩成達也「水辺」、『(いま/ここ)で』所収、書肆山田

*3:Erik Esterbaurer (2011). Eine zone des Klangs und der Stille: Luigi Nonos Orchesterstück 2° No hay caminos, hay que caminar...Andrej Tarkowskij. Würzburg: Königshausen & Neumann.