アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

Un unico suono 1/5

Con un suono, si può lavorare forse un’ora.

―― 「ひとつの音でおそらく一時間は作業ができます」 *1

 

Luigi NonoとMary Jane West-Eberhardの収斂進化

Omaggio a György Kurtágのハラフォンは、一つの音を、3種類の異なる空間的運動へと分化させる。... sofferte onde serene ...の項でも引用した自伝的インタビューのなかには、ノーノがそのハラフォンを例に挙げながらライヴ・エレクトロニクスの思想、もっといえば、後期ノーノの音楽思想の核心に触れている箇所がある。

(ハラフォンによって)同じ音が、4とおりの別の動きで空間のなかを遊動することができるようになります、たとえば異なる動態で、異なるテンポで速く、そして遅く、あるいは跳躍的に。単一の要素、単一の音響シグナルによって、さまざまな空間内の運動性を、もちろん、利用することのできる空間に応じてつくりだすことができるのです。聴取はたいへん複雑なものになります、しかし、もっとも目ざましいことは、ここで必要とされているのが4つのシグナルではなく、ただ一つのシグナルだけであるということです。これは、一つのテーマがさまざまな方法で吟味されるという、タルムードの考え方でもあります。 *2

<<la cosa più straordinaria>> としてノーノがここで最大のアクセントを置いているポイント、それは、un unico=「単一の」ものからひきだされる多様性への眼差しである。後期の通例として、ノーノはそれをタルムード、すなわちユダヤの考えに関連づけているが、私がノーノのこの発言を読んで自然に思い浮かべるのは、ユダヤ人の思想とはまた別のものである。

 

伊東乾との個人的な会話のなかでノーノは、「ちょうどDNAの発見が重なって、音列のブームを後押ししたんだよ」 *3 ということを話していたそうである。

あんな戦争を引き起こしてしまった人間という存在のすべてが、たった四種類の分子を組み合わせ、配列=セリーだけで決められている。それが人間の遺伝子の正体だとDNAの論文は主張していた。ここに芸術の未来がある、とみんなが殺到した。でも程なく、単純な理論の限界もあきらかになってブームは去ったのだけれど。

あたかも遺伝子型が定まれば自動的に表現型も決まってしまうかのような、環境の影響などというものはせいぜいが平均値のまわりのランダムなノイズに過ぎないかのような考え方――たしかにそれは一昔前の生物学界に暗黙のうちに蔓延していた臆見であったと言えるかもしれない――と、徹底した総音列主義とのあいだにノーノは平行性をみてとっているようだ。ここで音楽の遺伝子型に相当するものは書かれた楽譜、表現型は実際に演奏される音楽だとイメージすればよいだろう。

 

単一であるはずの音が多様な姿態へと分岐していくというライヴ・エレクトロニクスの発想は、しかしそれとはまったく異なる考え方に基づくものだ。それは、1989年に

Phenotypic plasticity and the origins of diversity *4

という総説を発表し、その後2003年に

Developmental Plasticity and Evolution (Oxford University Press)

という、電話帳のように分厚い総決算的大冊を著したMary Jane West-Eberhardのような進化生物学者がとくに重視している表現型可塑性(phenotypic plasticity)の概念ときわめて高い親和性を示す考え方である。

 

表現型可塑性について、West-Eberhardの総説の冒頭では、次の簡潔な定義が与えられている。

the ability of a single genotype to produce more than one alternative form of morphology, physhiological state, and/or behavior

*

単一の遺伝子型が複数の代替的な形態、生理的状態、および/または行動をつくりだすことのできる能力

※ただしこの定義は、あたかも一つの遺伝子型が、ある表現型を一から単独で作りあげるものであるかのごとき誤解を産むきらいがあるため、2003年の本では修正されている。

 

West-Eberhardの掲げる定義の文面と、先に引いたノーノの語り口がたいへんよく似ていることは一目瞭然である。表現型可塑性とは、ノーノが言うライヴ・エレクトロニクスと同様に、「単一=a single」であるはずのものから多様性をひきだす力の謂なのだ。

 

表現型可塑性のもっとも卑近にして普遍的な実例としては、多細胞生物の体を構成する細胞の表現型の驚くべき多様性――あまりにも身近な事柄でありすぎるため新鮮な驚きを感じにくくなってしまっているが――を真っ先に挙げることができる。たとえば一人の人間の体をかたちづくっているさまざまな細胞――上皮細胞、神経細胞、筋細胞、骨細胞、血球細胞、生殖細胞などは、大きさも形も機能もまるでかけ離れているけれども、もちろん遺伝的にはまったく同一の基盤を共有しているわけである。あるいはオタマジャクシとカエル、イモムシとチョウも、同一のゲノムのとりうる二つの劇的に異なる表現型の例である。同様のことが個体間変異のレベルでも当然おこりうる。同種に属する個体のあいだで表現型が大きく相違したものを見つけたとき、わたしたちはなんとはなしに、これらの個体は遺伝的レベルで違っているのだろうな、と考えてしまいがちであるが、必ずしもそうではないかもしれない。遺伝情報をもとにして表現型が発現される発生過程で生じたエピジェネティックな変異を主因としているかもしれないのだ。初歩的な遺伝学の教科書の模式図に出てくるように、遺伝子型と表現型があたかもつねに1対1で対応しているものであるかのような思い込みは捨て去らなくてはならない。表現型とはあくまで、遺伝子と環境の相互作用の産物であるということ。それが表現型可塑性の基盤にあるものの見方である。

 

ところで後期のノーノは、「空間」というおなじみのキーワードを用いてよくこんなことを語っている。

クラシック音楽のコンサートホールはぞっとするような空間だ。なぜならそれはいくつかの可能性ではなく、ひとつの可能性だけしか提供しないものであるから。おのおののホールごとに、なすべき特有の作業がある、かつて人が、この場所やあの場所、この環境やあの環境のために音楽を書いていたように。私が探究している音楽は、空間とともに書かれるものである。それは決してどの空間でも一様なものではなく、空間とともにはたらくものである。 *5

ここでノーノのいう空間という言葉を「環境」に置き換えてみる。するとこれは、演奏される音楽という表現型は、楽譜というゲノムが決まれば一意に定まってしまうものではなく、あくまで環境との動的な相互作用において形成されていくものであるという、表現型可塑性のアイディアそのものとしてすんなり解釈できるようになる。「私が探究している表現型とは、環境とともに形成されるものである。それは決してどの環境でも一様なものではなく、環境とともにはたらくものである」、こんな一文をWest-Eberhardの論文の片隅にこっそり紛れ込ませておいたとしても、まったく違和感は生じないであろう。

 

*

 

「(後期)ノーノは現代音楽界のWest-Eberhardである」――この喩えは、一般的には非常に伝わりにくいだろうと思われるが、私にとってはまさにおおいなる啓示であった。膝を打つ、というやつだ。 10年ばかし前に、ちょっくら現代音楽でも聴いてみるれすかね~と思い立ったとき、主だった作曲家のなかでノーノが特に魅力的に映ったのは、なんといってもその名前であった。

 

NONO、おお、NONO!名前がNONOだなんて、これは素敵にもほどがある。PrometeoのEMI盤のCDの箱の背には、太い目立つ字でNONOと書かれていた。これはいい、じつにいい、即買いだ。おそらくノーノの名前がNONOでなかったら、CDを買い漁るようなこともしなかったのではないかと思う。

 

そんないいかげんな動機のわりにはやけにのめり込んでしまったので、これはいったいどういうカラクリになっているのかと我ながら不思議に思っていたのだが、

 

そうか、そういう事か。後期ノーノの考え方は表現型可塑性なのか。それじゃあ好きになって当然だ、ならないほうがおかしい。そして今なら確信をもって言える、たとえばリゲティの名前がNONOであったとしても、ここまでハマることはなかったに違いないと。

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表現型可塑性についての二大Magnum opus

*1:Luigi Nono and Philippe Albèra (1987). Conversazione con Luigi Nono. [pdf]

*2:Un'autobiografia dell'autore raccontata da Enzo Restagno (1987), p. 13

*3:伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか?』、NHK出版、2013年、65~68頁

*4:West-Eberhard, M.J. (1989). Phenotypic plasticity and the origins of diversity. Annual Review of Ecology and Systematics 20:249-278. [pdf]

*5:Luigi Nono (1983). L'errore come necessità.