アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

ジュデッカ運河 1/2

まず基本的な事柄から。Omaggio a György Kurtágは、1979年にOmaggio a Luigi Nonoというアカペラ合唱曲を書いた作曲家György Kurtágへの返歌として、1983年6月10日にフィレンツェで初演された、アルト独唱、フルート、クラリネット、チューバのための音楽で、それからPrometeoの初演をあいだに挟んだ3年後の1986年6月6日に全面改訂版がトリノで初演されている。

 

1983年の初演版は、ノーノが信頼する4人の演奏家

  • アルトのSusanne Otto
  • フルートのRoberto Fabbriciani
  • クラリネットのCiro Scarponi
  • チューバのGiancarlo Schiaffini

の裁量に細部を委ねた、かなり即興性の強いものであった。Jürg Stenzlの表現によると、それは

by and large, an improvisation based on a number of agreements reached between the composer and his performers

だったとのことである。 *1 83年の初演でライヴ・エレクトロニクスを担当したHans Peter Hallerは、当時をふりかえってこう述懐している――初演の出来栄えは、聴衆の多くをがっかりさせるようなものであった、果たしてあれを本当に初演と呼べるのだろうか? *2 とにかくまったくアカンかった、失敗であったと、そう言っているのである。4人の奏者だけならまだしも、そこにライヴ・エレクトロニクスも加わってくるという複雑な条件のもとで、初期型のOmaggio a György Kurtágは、どうやらあまりにも約束事が少なく自由すぎた、ということであるらしい。結局ノーノは、ライヴ・エレクトロニクスのタイミングも含めた細部を楽譜に書き込んで不確定要素を排した改訂版を、3年後に改めて世に問うことになる。現在演奏されているOmaggio a György Kurtágはこちらの版である。

 

解体ショー

この作品でアルト独唱が歌うテキストは、オマージュを捧げられた当の作曲家の名前、György Kurtágである。<<György Kurtág>>という文字列は、それを一息で言い切ったときには、子音のゴツゴツした手触りで全身をおおわれた、なにかイセエビのごとくいかつい身体性を連想させる音韻の言葉だが、ノーノの常として、<<György Kurtág>>がintactな状態でそのまま唱えられるようなことは無論ない。このイセエビは、ノーノの手によって情け容赦なくバラバラにされる。アルトが作中で実際に歌っている「歌詞」を順に書き出すと、次のようになる。

 

Y U Y Y Y Ö RGY KU U A U

U U TA G

GY Ö RGY U RTA Y Ö A

A U U Ö A GY Ö RGY

TA AG Y Ö UA

A A A A Ö U Ö RTA Y

Ö RGY U RTA G

A U GY Y Ö R RGY Y Ö

U A KU A Ö U Ö RTA G

U Ö

GY Y

Ö GY Ö Ö U

 

さすがにここまで完膚なきまでに分解されると、たとえばもとのコトバの組織体のなかでは子音のかたい甲殻に閉じ込められていたa音を長く引き伸ばし、そこにリバーブをかけてやることで、Risonanze errantiで聞かれるような母音のやわらかな響きの海をひろげてみせるといった具合にして、抑圧されていた多彩な音の表情がひき出されてくるようになる。このあとCon Luigi Dallapiccolaの項でくわしくふれる、ノーノ生来の解体癖がよく表れた作品の一つだといえよう。

 

ネオ・ヴェネツィア

Omaggio a György Kurtágはシグナルのような音楽であるべきだと、Hans Peter Haller宛の手紙の中でノーノは書いている。 *3

Die Musik soll wie Signale, Wörter, Fragmente in der Luft, im Raum zu György Kurtág sein.

*

The music should be like signals, words, fragments in the air, in space to György Kurtág.

ノーノらしい、断片的で容易には意味の掴みかねる言葉だが、個人的にはこう解釈している――「ノーノ島」と「クルターグ島」、この二つの島を隔てる海の上の、なかぞらを行き交うシグナルのような音楽、それがOmaggio a György Kurtágであると。

 

RICORDIから出ているOmaggio a György Kurtágの楽譜は14の頁からなっており、どの頁にもおおむね似たような風景がひろがっている。そのうちの一頁を実際に見てみよう。

 

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この音楽はまず楽譜からして、ヴェネツィアの地図をみるかのようだ。上に掲げた頁には二つの大きな音の島(Isola)がある。音の島、といっても、これらの島はみてのとおり、音が密に充填されているわけではなく、現実のヴェネツィアがそうであるように、島の内部には八分休符や四分休符、二分休符のRIO(小運河:ヴェネツィアの運河のうちCANALEと称されるのはジュデッカ運河、カナル・グランデ、カンナレージョ運河の3つのみであり、そのほかの小規模な運河はRIOと呼ばれる由)が、あるいは時として、カナル・グランデ級の全休符の空隙が縦横に走り、島をさらに小さないくつもの島に分割している。個々の小さな島は、こうして遠目にみるかぎり単純なつくりをしているようにみえるが、微視的レベルではそれぞれが個性的な輪郭、すなわち渚を具えた、音響の多様性の宝庫である。

 

渚の多様性に寄与する因子は、具体的に挙げると、

  1. ブレスノイズのみのまったくの噪音と、ピッチの明確な「楽音」を両極とする、ブレス音とピッチ成分の比率の変異
  2. ppppppp から f までのダイナミクスの変異
  3. 微分
  4. トレモロ(ときには不規則に、ときには急速に)やトリルによる揺動
  5. 特殊奏法1:suono ombra + eolien (フルート)
  6. 特殊奏法2:+ Tibet(チューバ)
  7. 特殊奏法3:楽器の音と同時に声で別の音を出す(チューバ)

である。

 

 ノーノはeolienという言葉を、一般的にはwhistle toneと呼ばれるものの意味で用いている。高次倍音の口笛のようにか細い響き。ノーノのsuono eolienは、特定の倍音ではなくさまざまな次数の倍音が不規則に出現する奏法で、日本人の耳には遠くの祭囃子のようにも聞こえる。またこのとき、上音と交替で基音が間歇的に、「影のように」現れたり消えたりを繰り返す。それがsuono ombraである。

 

 + Tibetとは名前のとおり、チベットの歌唱法にみられるのと同様の手法で、口腔の形を、たとえば「あえいうえおあおうあいえ」とさまざまな母音を発音しているかのごとく連続的に変化させながらチューバを演奏する。これによって、「うにょんうにょん」と揺れている感じの響きが得られる。

 

いっぽう、二つの大きな島を隔てているのは――カッチャーリ風にいうと、分かちながら結んでいるのは――、島の内部の小規模な運河と比べて格段に幅広いジュデッカ運河(Canale della Giudecca)――この頁では、総休止のほぼ5小節にわたる連続――である。Omaggio a György Kurtágのヴェネツィア風音響空間が、アドリア海に浮かぶ現実世界のヴェネツィアと異なるのは、かの地のジュデッカ運河が一箇所にしかないのに対し、Omaggio a György Kurtágにはジュデッカ運河がいくつも存在する点である。演奏時間16分30秒から18分のOmaggio a György Kurtágに、一小節以上の総休止は、4、5、8、11、2、3、6、10、1、3、4(数字はおよその小節数)の計11回現れる。せいぜい17分ほどの時間のなかで、11ものジュデッカ運河を渉っていたとはまったく驚くべきことだ。なにが驚くべきといって、Omaggio a György Kurtágの録音(MONTAIGNE盤とNEOS盤の二種類が出ている)を聞いてみても、総休止の数小節に及ぶ連続に対応するような沈黙は、ほとんどどこにも見つけることができないのである。

 

だがこれこそまさしく、ジュデッカ運河の沈黙がazzurro silenzio、蒼い沈黙であることの所以である。島と島のあいだを水が充たしているように、Omaggio a György Kurtágのジュデッカ運河はたんなる無音の持続ではない。たしかにそこには音符に書かれた音はいっさい存在しないが、それとは別の、音符には書き表されない音――ライヴ・エレクトロニクスの生成する音響が、潮騒のようにざわめいているのだ。上に掲げた楽譜の頁の場合だと、楽譜の上の段の、網掛けされたフルート、クラリネット、チューバの音がマイクロフォンで捕捉され、下の段の約5小節の総休止においてスピーカーから出力されるしくみになっている。

 

もちろん、マイクロフォンの拾った音がただそのままのかたちで出力されているのではおもしろくもなんともない。上の例だと、網掛け部分のエレクトロニクスへの入力の長さはだいたい四分音符6つ分で、この間のテンポが「四分音符」=約30であるから入力時間はおよそ12秒。だがそれが出力されるまでには四分音符12個分、時間にして約24秒の遅延がある。出力された音響は、少なくとも四小節、ということは30秒以上にわたって持続する。エレクトロニクスが絶対的に必要としているのは、入力された音をなんらかのかたちで記憶するしくみである。

*1:NEOS 11122のライナーノーツより

*2:http://www.hp-haller.homepage.t-online.de/venice.html

*3:Ibid.