アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 前篇 8/8

ノーノとユンガー

Risonanze errantiの声にみられる母音と子音の取り扱いには、ユンガーの『母音頌』と共鳴する要素が少なからず認められる。ひょっとしたらノーノは『母音頌』を読んだことがあるのではないだろうか、とかねがね私は思っていた。Fondazione Archivio Luigi Nonoのウェブサイトの資料検索システムが整備された今では、こうした些細な疑問の答えもこの場ですぐに調べることができるようになっている。私が知るかぎり、公表されたノーノの文章や講演、談話のなかにユンガーの名が現れることは一度もないのであるが、ノーノの蔵書リストを件のシステムで検索してみると、ユンガーの著作が『接近』、『冒険心』、『大理石の断崖の上で』、『二度目のハレー彗星』など計11冊も含まれていて、なかなかの充実ぶりである。『死後に生きる者たち』でも一章をユンガー論に割いているカッチャーリの影響が、あるいは一端にあるのかもしれない。さて問題の『母音頌』は、1937年発行の文集『葉と石』に収められたのを初出とし、日本語版でもせいぜい60頁ほどの、ふつうそれだけで一冊の本とするにはやや短すぎるエッセイであるが、特筆すべきことにノーノはこの『母音頌』のみをシングルカットしたArche Verlag刊の薄い本を所有しており(なおこの本は初版が1954年だが、ノーノが持っているのは1979年の第二版)、しかも本には書き込みが残されているとのことであるから、ノーノが関心をもって『母音頌』を読んでいたことは確かなようである。 *1

 

ユンガーと二つの言葉の世界

『母音頌』はまず、母音を原形質や肉質に、子音を骨格やかたい甲皮にたとえるいかにもユンガーらしい生物学的イメージの提示からはじまる。ユンガーにとって、昆虫をはじめとする動植物の観察は、大戦の最中に将校として最前線に赴いていたときでさえも中断されることのなかった生涯のライフワークであり(軍務の傍ら、塹壕に飛び込んできた甲虫を収集記録して『ドウシイ昆虫誌』なる私家版モノグラフを作ったりもしていた由)、従軍経験に勝るとも劣らない、ユンガーの思考のベースをなしている。長篇小説『ヘリオーポリス』には、顕微鏡下にみるウニの初期発生を、生物学的とも文学的ともつかぬ独特の表現で綴っていく、ユンガーの真骨頂と言うべきくだりがあって、そのなかでユンガーは、『母音頌』では母音の寓意であった原形質を海になぞらえている。

我々は精子にも卵子にも核、放射物質を見つける。これに対して原形質は、卵子においては静止した、養分を与える物質として過剰なほどに形成されているが、精子においては鞭毛、すなわち空間的運動及び攻撃行動の道具として形づくられている。我々は原形質のうちに地上の要素(エレメント)を――それもとりわけ我々に与えられている海の世界からの持参金を――推測してよいだろう。原形質は海の写し絵をあらわす。すなわち、卵子においては透明な球体のうちに休らう世界の素材として、精液においては波をその徴とする世界の力として。

これに対し核には星辰の持参金が眠っている。それゆえ、新しい生命が生まれるとなると、核は光と放射の法則によって作用するのが見られるのだ。どの生殖においても万有が反映している。 *2

 

母音―原形質―海。この連想の糸を念頭におきつつ『母音頌』を読みすすめていくと、ユンガーが母音の特性だとしている

  • 形に対して色彩
  • リズムに対して和音
  • 移ろいやすさ
  • そのいっぽうで安らいだ統一感
  • 個別性に対して普遍性
  • 浸透性

といったもろもろの性質は、おしなべて海の属性だということがよく分かる。ユンガーが言葉の始源にみているのは、無辺際な母音の大洋の、形なき水の世界である。『母音頌』の論旨をユンガーにふさわしく生き物のたとえでパラフレーズすると、ユンガーは語(Wort)というものを、この海の雫を子音の膜/皮で囲い込むことで生命を得た、多様な形姿と色彩の魚のごときものとして思い描いているのである。

「語というものは子音と母音との合成である」 *3

「(母音には)色彩が憩い、そして子音によっては描線が与えられる」 *4

「母音は子音によって捕らえられる」 *5

「(色彩は)母音が子音によって取り囲まれるように、形によって取り囲まれ……」 *6

 

ノーノのRisonanze errantiとの関わりにおいて最も注目すべき『母音頌』の論点はここにある。つまりユンガーは、広義の言葉に二つの異なる様態を認めているのだ。海のように不定形な流動体をなしている原初的な言葉と、その海の中で魚の輪郭を保っている、語としての言葉。前者についてユンガーはこう言っている、それは「人間のつくる秩序をはるかに超出して」 *7 いる、「自由とは無縁の、始源の領国」 *8 だと。文字どおり水のようにつかみどころのない母音の海原にあって、わたしたちはクラゲよりも無力な漂流者でしかない。だがそんな人間でも、ちょうど陸における鷹匠のごとく、海に棲む魚たちを操るすべならばそこそこ心得ている――それが、語をつかって話したり書いたり読んだりするといった人間的営為である。母音は言うなれば子音の腕に抱かれて、人間の土地へと迎え入れられるわけだ。

 

わたしたちが魚の扱いに習熟するにつれ、海はしだいに後景へと退いていく。遂には果たして魚が海を泳いでいるのか、それともまな板の上にのっかっているのかの見分けもつかなくなるほどに汐の香が遠くなって、わたしたちはもうすっかり海の存在を忘れ去ってしまう。人間が言葉の支配者としての自由を思うがままに謳歌している引き潮の時間。だが結局のところそれはかりそめの安寧にすぎない。ふだんであればジンベエザメに付き随うアジの群れのようにわたしたちを取り巻いている、あのよく人馴れした言葉の魚たちがいずこかヘ泳ぎ去り、かわって海が嵩を増し、せりあがり、前景化してくる、そしてわたしたちは母音の、音声のもつ原初的な力にただ圧倒される、そんな仮借ない満ち潮の局面が生の行程には幾度となく訪れるものだ、たとえば戦場がそうだった、とユンガーは言う。

 いちじるしい苦痛は、それがどの領域で感受されるのであれ、すでに語詞によらず、音声をとおして表出される。誕生の、また死の場面は、そのようなひびきに満ちている。たぶん私たちは、そのひびきの十全のつよさを、いまさらながら戦争で耳にすることになった――夜の、負傷兵のよび声に満ちみちた戦場で、大野戦病院で、しかも聞きちがえようもない、はげしい死のさけびに身をこわばらせた。心臓はこのひびきを、語詞とはべつのものに感じとるのである。いわば熱やつめたさに直接ふれるのだ。人びとはここではごく似かよったものとなる。ひどい苦痛によって、感じとるものの個性は破壊される。同様に声の特徴も粉砕される。子音は焼きつくされる――極度の苦痛の声は、純然たる母音の性質をもつ。

 しかし、苦痛だけがその音韻の言葉を有するのではなく、激情は全般にそうなのだ。愛、憎悪、怒り、おどろき、生殖、勝利の凱歌、没落のなげき、大いなる昂揚――どれにもそれぞれの声のひびきがあり、それを知り活用することは、自然にあるいは超自然的に、私たちに生まれついている。 *9

 

さて、この印象的なくだりに関しては、その中に登場する語詞と音韻という対概念について先にふれておくべきだろう。『母音頌』のなかでユンガーは言葉を母音と子音に区分するとともに、それとはニュアンスがやや異なるものの密接な関連性をもった、語詞Wortspracheと音韻Lautspracheの二面に分けてもいる(なお、菅谷規矩雄の訳では原文のWortspracheに対し、「語詞」のほかに「語義」の訳語を当てていることもある)。おおまかに言うと、母音と子音が言葉の構成要素についての二分法であるのに対し、語詞と音韻は、『母音頌』の用法ではむしろ、言葉の様態に深く関わる二分法である。両者の空間的な関係をユンガーはこう説明する。

人間の言語は語詞からなるとともに、純然たる音韻からなる言葉があるのであって、後者は前者をつつみこんでおり、また、そのなかに滲みわたっている。 *10

ユンガー自身はこの構図を、音韻の大地とそこに根をはる植物としての言語というイメージになぞらえているけれども、音韻に与えられた浸透性という水のような性質を顧慮するならば、音韻の海とそこに点在する(透水性の土壌をもつ)語詞の島という見立てのほうが、より実態にそくしているだろう。この多島海の眺望は、先に提示した、言葉の魚の遊弋する母音の海の図の一変奏である。魚が島に変わっても要点に変わりはない――すなわち、言葉の世界には二つの相が存在するということ。一つは語詞が卓越している島の領域。もう一つは音韻が卓越している海の領域である。生物学的な比喩にかわってここでは化学的な比喩を用いるならば、前者は母音と子音が結びついて化合物をなし、音声が本来もっている活性が制御され秩序づけられることによって、語義が凝結し形をなすに到った言語の陸的な領域を、後者は母音と子音がそうした安定的な化合物を形成することなく活発な流動状態にある、言語の海洋的にして始源的な領域を指している。

 

「音韻の海に点在する語詞の島」と、「母音の海を遊弋する語の魚」という二枚のよく似た絵を並べてみたときの、音韻の海と母音の海の照応をどう捉えるべきだろうか。当然のことながら子音の音韻というものもあり、ユンガーはたとえば<<p>>という子音の響きについて、「否定するような、悪い方向に向かうような子音」、あるいは「純然たる軽蔑の音」といった解釈を『パリ日記』に書き留めてもいる。 *11 ただし、こと音韻の領域では、「そこで母音のはたす役割にはおどろくばかりだ」 *12 ということなのである。音韻の世界にももちろん子音は存在するけれども、それらは母音の大海原のところどころで打ち砕ける白波や、水の面に散乱する陽光の燦きのように、副次的なアクセントを景観に添える存在に留まっている。いっぽう語詞の領する陸地では、形なき母音を包み込み、固有の描線を与える子音のはたらきが欠かせない(「すべての特殊事情、素材や運動の独自性などは、子音によって意義を与えられる」)。 *13 それぞれの領域で主役が異なるのだ。

 

音韻と語詞の対が、音声と意味の単純な区別を表しているのではないということは、ユンガーが「語の意味Wortbedeutung」に対して「音韻の意味Lautbedeutung」という表現を用いていることからも明らかである。ノーノがIl canto sospesoやCori di Didoneで試みたように、語をシラブルに、音素に分解してしまえば、それできれいさっぱり意味が消えてなくなるわけではない。こうした分解操作は、語詞の意味の影に隠れていた、「語詞ではしめせないような」 *14 音韻の意味を解き放つ契機とさえなりうるだろう。では音韻の担う意味とはなにか。その答えは、ユンガーが先の引用のなかで補足の必要もないほど明快に説明しているとおりである。音韻の海は、「パッションの語句なき言葉」 *15 が綾なす、情動的色彩に染めあげられた海の謂である。ノーノが音を言い表すときによくつかう言葉で言えば、「シグナル」だ。シグナル――情動を触発するもの。この点において、すなわち情動を表出しまた喚起するという点において、音韻は語詞をむしろ凌駕する。

 

では逆に、音韻が引き受けることのできない意味内容とはなんだろうか。記憶の分類において宣言的記憶に含まれるような類の事柄。特定の場所や時間と結びついた出来事に関する具体的な言述。あるいは一般的な知識や概念。たとえば「技術用語は母音にとぼしい」。 *16 母音からもっとも遠く隔てられた、もっとも陸的で「乾いた」言葉はおそらく律法の言葉である。 *17 音韻に欠けているのは、子音の強固な骨格によって支持されなければならない脈絡全般である。子音はこの海のような圏域で、個別的なものの輪郭を保持するだけの活性を発揮しえない。したがって、音声は不可避的に匿名化の方へと向かう――「人びとはここではごく似かよったものとなる」、「個性は破壊される」、「声の特徴も粉砕される」……。

 

流れと形

以上の見取図を踏まえてRisonanze errantiの歌詞を吟味したとき、ただちに明らかとなるのは、

  • メルヴィルおよびバッハマンの詩句断片:子音優勢:語詞 Wortsprache
  • シャンソンのこだま:母音優勢:音韻 Lautsprache

という対比である。

 

以前述べたようにノーノはメルヴィルの詩を、Poesie di guerra e di mareというイタリア語訳のアンソロジーで読んでいたのだが、実際に歌詞として採用されたのは英語の原詩のほうであった。イタリア語から英語への変換とはつまり、典型的な開音節言語が典型的な閉音節言語に置き換わること――passatoがpastに、ascoltaがharkに、morteがdeathになり、「子音のかたい甲皮」を全身にまとう、よりエッジの立った乾いた言葉へと変化するということである。これらの硬い手触りの英語は、同様に子音の卓越するバッハマンのドイツ語とともに、Risonanze errantiの歌詞における固体の相をかたちづくることになる。子音によって定まった輪郭を与えられた、言葉の島、船、あるいは言葉の魚、鯨。

 

いっぽうのシャンソンのこだまは、母音優位、情動優位の典型的な音韻Lautspracheの性質を具えた水の言葉、海の言葉、言葉の海である。この海をいっそう海らしくするため例によって活用されるのがライヴ・エレクトロニクスだ。水は「定まった体積をもつが定まった形はもたない」ものであるから、音に水の性質を帯びさせるためにはまず何を措いても固定的な輪郭を奪うことが不可欠である。そこでもっとも基本的な音響操作として、こだまの多くにリバーブがかけられる。水のもう一つの特性である流動性は、音の空間操舵装置ハラフォンの使用により実現される。Risonanze errantiにおいてハラフォンは、シャンソンのこだまに限定して用いられており、メルヴィル・バッハマンの詩(固体)とこだま(液体)の相のちがいが、両者の空間的な流動性の有無というかたちでひきたてられていく。

*

さて、これでようやくノーノの音楽のなかにひろがる海へと漕ぎ出す準備が整った。

*1:http://www.luiginono.it/en/node/7452

*2:エルンスト・ユンガー『ヘリオーポリス・上』、田尻三千夫訳、国書刊行会、114頁

*3:ユンガー「母音頌」、『言葉の秘密』、菅谷規矩雄訳、法政大学出版局、14頁

*4:同上、3頁

*5:ユンガー『パリ日記』、山本尤訳、月曜社、258頁

*6:『ヘリオーポリス・上』、123頁

*7:「母音頌」、21頁

*8:同上、16頁

*9:同上、19頁

*10:同上、15頁

*11:『パリ日記』、169頁

*12:「母音頌」、21頁

*13:同上、4頁

*14:同上、16頁

*15:同上、21頁

*16:同上、7頁

*17:同上、3頁