アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 13/16

陸から海へ:subversionによる穴ルート

この世には2種類の断片が存在する。島と穴だ。たとえば、トウシマコケギンポが低潮線直下の水の流れが乱流をなしているような荒磯に、イワアナコケギンポが同じく水の流れが層流をなしているやや波の穏やかな磯に住み分けているように、 *1 島と穴はそれぞれ性質の異なる別種の空間を主生息地としている。

 

島が主役の座を占める島型空間を穴の優先する穴型空間へと変換するのにたいした手間はかからない。手始めに、島型空間の典型というべき群島を上空から見下ろした模式図を描いてみる。

 

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次いでこの図を要素に分解するとしたらどうなるだろうか?

 

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いくつもの点在する陸地=島と、島の形にいくつもの穴ボコの空いた水域=海。だとしたらこれは、人間の物の見方としては相当特殊な部類である。人というよりはむしろ、はとぽっぽ的な世界認識。

 

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中村哲之『動物の錯視(京都大学学術出版会)』 27頁より

 

ハトは彼らなりのなんらかの事情により、少なくとも視覚においてアモーダル補完を基本的に行わない主義らしい。どういうことかというと、上の図 (a) のようなものを見せられたとき、ハトはそこに、実際目に見えているとおりの (c) のような図形を認識していることを示唆する実験結果がぞくぞくと得られているのである。 *2

 

おおハトよ、われわれヒトには同じ図(a)が、前面の白い四角形の背後に、白によって一部を隠された灰色の四角形が置かれている (b) のような状態にみえる。白の図に対して灰は地になり、直接見えない灰の欠落部分が補完されるのだ。逆にいうと、かの平和主義者たちは白と灰を同一平面上に見ているため、図地関係に基づく補完が生じないということなのだろう。

 

ヒトが群島の俯瞰図を見るときは、島と海の図と地の布置に、「島々はそれが浮島でないかぎり、海底でひとつにつながり合っている」という地学の知識による補正がはいるわけであるが、人間本来の自然な視覚認識からすれば、群島の風景の構成要素はこうなるはずである。

 

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いくつもの陸地=島が点在する「図」と、広大無辺の水域=海が占める「地」の二層構造。

 

明らかに、Aの補完なきハトの島とBの補完のあるヒトの島とでは、海へのアクセス方法が大きく変わってくる。前者の場合、陸と海とは島の辺においてのみ接しているので、とにかく渚に降りないことには話がはじまらない。翻って後者の場合、渚の重要度は格段に低下する。そこが内陸部であろうと岸辺だろうと、海は島の下方のどこにでも存在するのであるから、海を見ようと思ったらただ単に、地の層へとつうじる穴をその場で穿ってやりさえすればよいのである。その際、穴は別に小さくてもかまわない。それが穴であるかぎりは知覚の仕組みにしたがって脳内で自動的に補完がはたらき、見かけよりはるかに広大な空間の一角として認識されるだろうからである。

*

ノーノの群島を構成する島のなかでも最大の規模を誇る(なにしろ踏破するのに20分以上かかるのだ)、PrometeoのIsola Prima=第1島にいま近づきつつあるところ。果たしてこの島はハトの島か、それともヒトの島だろうか。Isola Primaは基本的にどこも同じような眺めなので、サンプルとして島のまんなからへんに焦点を合わせてみよう。

 

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陸と海が見える。

 

上側、13段×4=52段(上の譜面はその一部)の、三重の意味で山あり谷ありの起伏に富んだ――

三重の意味とは、

  • 音高(高低まちまち)
  • 強弱( ppppp の微弱音から fffff の耳を劈く大音量まで)
  • テンポ(MM = 30~120の範囲で変動し、平均して約2.8小節ごとに切り替わる)

のことである

――4群のオーケストラの陸地と、

下側3段の、三重の意味で水面のように平らかな――

三重の意味とは、

  • 音高(持続音主体で、そこにarco mobileの奏法によるかすかなさざなみが立つ)
  • 強弱( ppppp から f までの弱音主体)
  • テンポ(MM = 30で常に一定)

のことである

――弦楽三重奏の海原。

 

オペラ的な言い方をすれば、Isola Primaは「コーカサスの岩山の場」ということになるが、Isola Primaの陸と海の位置関係は、「コーカサスの山岳地帯の東に黒海、その先に地中海、南にペルシャ湾、その東に紅海…」などといった地球上の地理とは一見して全く異質なものである。いま目にしているのは、文字どおり陸続と連なるオーケストラの大地と、一面の弦の海原が二段重ねになって並走している構図である。

 

54頁にわたるIsola Primaの譜面を順に見ていくと、弦楽三重奏のドローンは、途中の6箇所に挿入される合唱のうち4箇所でいったん鳴り止むのを除いて、常に各頁の最下層を蒼く染め上げていることが分かる(最長でも1小節に満たない短い休止は所々に入るものの、弦の音はライヴ・エレクトロニクスによってフィードバック再生されるため、それらの休止の効果は限定的だろう)。要するに海は、アモーダル補完のあるヒト型群島モデルが示す世界像そのままに、第1島の陸地の下方全域にわたって連綿と連なっているのであるが、楽譜を見れば一目瞭然のその海の広大な連続性が、聴き手の耳に直接伝わることはない。弦の潮騒はオーケストラに比べて相対的に小さな音であるため容易にかき消されてしまい、オーケストラの陸の喧噪がふと減弱する谷間においてのみ、きれぎれに聞こえてくるからである。

 

聴き手が知覚しているこの断片性は、島ではなく穴である。

  • 穴、照葉樹の密な葉叢の隙間から点々と覗く海の青。
  • 穴、無響室から一歩外に出た途端に消えてしまう沈黙の大洋のかすかなざわめき。

音が途切れるその度に、いちいち音が鳴り止んでいるわけではない。単にいっとき聞こえなくなっただけで、音はなおultrasuoni――聞こえないけれども存在している音――として閾下を底流し続けている。だからこそ、あの呼びかけが意味を持ち得るのだ。アスコルタ、耳を澄ましてよく聞いてごらん……。

 

Prometeoのちょうど中間点には、Isola Primaのオーケストラの陸地が消えて(弦の)海だけが残ったかのような、全篇MM = 30のテンポで統一された短く静謐な章が置かれている。その章、Interludio Primoのことをノーノはまさしく穴だと、そこから「新しいプロメテウス」を垣間見ることのできる針の穴crunaだと形容しているのである。 *3 敷衍すればPrometeoという一個の音楽自体が、あるひとつの大いなる海に向かってひらかれた、直径2時間強の巨大な――とはいえ海の広大さに比すればまことにちっぽけな――覗き穴なのだとも言える。Stasimo Secondoの第104小節、恐らくはTristan und Isoldeへのオマージュを兼ねたB - F# の五度の歌声――テンポはMM = 30である――をもって音楽が鳴り止んだとしても、それはただ穴の縁に達しただけのことだ。Isola Primaで、Interludio Primoで、チラチラと背景に見え隠れしていた海は、Prometeoという一個の穴を縁取る五線譜の最後の複縦線を越えて、その先の空間と時間へとなおもひろがっていくだろう。そしてそのなによりの証左が、Prometeo後の作品群に幾度となく回帰してくるMM = 30の海の時間である。

*1:Ryuzo Fukao and Toshio Okazaki (1987). A study on the divergence of Japanese fishes of the genus Neoclinus. Japanese Journal of Ichthyology 34 (3): 309-323.

*2:中村哲之『動物の錯視 トリの眼から考える認知の進化』、京都大学学術出版会

*3:EMI/RICORDI盤PrometeoのCDのブックレット(Jürg Stenzl 解説)より。Jürg Stenzl (1998). Luigi Nono. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt, p. 111. に同じ内容の記述。