アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 中篇の下 3/16

遠足からの帰宅後

改めて新旧の海のレシピを見比べてみよう。

 

A 1950年代
前提:あらゆる言葉には水分(=母音)が潜在している。単語(a word)の解体による水(母音)の抽出。取り出した水を、五線譜上で音符をつかって平らに引き伸ばし、海の似姿をつくる。海のひろがりは音符が規定する音のひろがりに等しくなる。紙の上にじかに描き表される、やや書割めいた海。

B 1980年代
前提:あらゆる音には水分が潜在している。個々の音(a sound)の解体による水の抽出(新型調理器具ライヴ・エレクトロニクスを使用)。

ライヴ・エレクトロニクス(LE)の効能:音そのものに直接働きかけて、水の流出を促すことのできる装置。水の力で電気をおこすのが水力発電なら、LEはあべこべに、電気の力で水を発生させる。この電力発水のメカニズムが稼動しているところでは、楽譜上に並んだ大量の音符がすべて水源として立ち上がってくる。個々の音の内ふところに死蔵されていた水が、LEの導入によって一挙に利用可能となったのである。海は五線譜上の音符の周囲に滲み拡がる格好で形成されていき、オタマジャクシを取り巻く水がオタマジャクシで紙面に明示されることはない。

*

初期作品の音の海を一瞥/一聴して感じられる原始性は、 水の調達先がこの時点では歌詞に含まれる母音に限定されており、さらには水をとりだすための方法も、単語の音素への分解という素朴な手口に頼ったものであるという技術的制約に多く起因している。

 

それから30年ほどのあいだにもたらされた水理学の目覚しい発展――

  • 第一に、水の供給源の劇的な拡大
  • 第二に、水の抽出法の精緻化
  • 第三に、suono mobileと総称される、音に水のような流動性を与える手法の進化

――のおかげをもって、80年代のノーノ作品のなかにひろがる音の海は、初期の頃とは段違いのリアルな海らしさを獲得することになるわけであるが、それはたとえるなら、セルアニメがCGアニメに置き換わったような種類の変化だと言えよう。要するに技術面での進歩であって、根底にある基本原理は終始変わっていない。

 

50年代から夙に知られるノーノの破壊的作曲法――イタリア風に言うとscomposizioneによるcomposizione――を、「断片」というお馴染みの一語だけで説明しようとするのは片手落ちである。解体によって産まれるものは断片だけではないからだ。ノーノのscomposizioneにおいては、常に以下の式が成り立つものと心得ておこう。

1個の○○ → scomposizione(解体) → n個の断片 + 水

「1個の」と呼ぶことのできるような確たる形のあるものを解体すると、n個の断片ができる、と同時に、もはや何個であるとも言い難い、なにか形のはっきりしない水のようなものが生じる。「1個の○○」の○○に単語を代入すれば50年代のノーノ、音を代入すれば80年代のノーノである。水とは本性として連続的なものであるから、断片性と連続性の同時発生ということでもある。水は本性として切り分けられないものであるから、分節という営為は常に余りの出る割り算だとも読める。奇抜な発想と言うべきだろうか。いや全然。「1個の○○」を解体することによって得られるものがn個の断片だけだという発想こそ、含水率ゼロ%の純然たる記号の世界にしか当てはまらない、非現実的な綺麗ごとと言うべきである。

*

三日間にわたる海の見学ツアーの参加者から、帰ったあとで苦情の声があがることはおおいにあり得るだろう。

ずいぶんと盛りやがったなあ、おい。Risonanze errantiの音の海?海だって?あれが?あの十数個かそこらの水たまりみたいなやつが?ひょっとして富士山麓の湧き水のことを忍野八海と呼ぶような趣向ですか?

だが間違いなく、そんな文句を言っている人の頭のなかでも、水たまりのようないくつものささやかな断片性を海のようなひとつの広大な連続性に変換する作業は日常茶飯事のごとく行われている。地球開闢以来20世紀も半ばになるまで、自分がそれをやっていることに誰一人気がつかなかったDNAの半保存的複製のように、人間がふだんまったく意識することなく実践している事柄はいろいろあるわけだ。

*

ノーノがとある作曲家の音楽を評した小論の前半部で話している情景は、まさしく「音の海」と呼ぶにふさわしいものである。

旋律はつなぎ合わされています、 La mélodie s'articule
始まりから終わりまで、 du début à la fin,
それどころか、始まりも終わりもなく、 sans début ni fin d'ailleurs,
ただし絶えざる変容を伴いながら。 mais avec une transformation continue *1

この時点で既に、一曲の音楽の輪郭を縁取るささやかな護岸を越えて溢れ出しつつあった海は、同じ小論の終わりの段になると、その作曲家のすべての作品を取り巻くと同時に浸しているひとつづきの大洋にまで成長を遂げている。

…大事なことはもっぱらひとつの広大な連続性であって、モーツァルトの場合のような番号付きの作品ではなかったのです。 *2

さて、ノーノは誰の音楽の話をしているのだろうか?ラ・モンテ・ヤングのドローン音楽か?それともシェルシか?

 

正解は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニである。これはひとつの良い目安である。ベッリーニのたとえばNormaやIl pirataのなかに、なかだけではなくそのまわりに大海原を感じることが出来ないうちは、Risonanze errantiの海がただの水たまりにしか思えなかったとしても無理はない。

 

一曲の音楽が鳴りはじめた時は既に存在していて、一曲の音楽が鳴り止んでもなお断ち切られることのない大きな海が、あたかもジョルダーノ・ブルーノの無限の宇宙が星から星へとつづくがごとくに、作品から作品へとつらなっている壮大な光景が、ベッリーニだけのものではないことを他ならぬノーノ自身の作品世界で確認するために、1948年から89年までの40年の時空におよそ七十点在するノーノの星々のなかでもとびきり巨大なPrometeoの縁に降り立ってみよう。

 

プロメテオのさいはて

inizio

Prometeoについての本を単独で書いた今のところ唯一の人物であるLydia Jeschkeは、Prometeo冒頭(すなわちPrologo冒頭)のソプラノとアルトが歌う「ガイア」(1~2小節)につづく静謐な弦のパッセージ(3~7小節)が、マーラーの『交響曲第1番』冒頭のあの名高い「キーン」という弦のハーモニクスを参照したものだろうと指摘している。 *3

 

比べてみよう。

Mahler

Nono

  • オクターブにもまたがる弦のA音とD音(およびそこから1/4音、半音、3/4音ピッチのずれた音)
  • 部分的にハーモニクス奏法で演奏される5小節の範囲にだんだん弱まっていく3つの音が並ぶ。ppppppppp → ppppppp

 

両者の相似はかなりゆるやかなものである。たいして似とらんではないか、こじつけじゃないかと思われるかもしれない。が、Lydia Jeschkeの言うことはたぶん本当である。

 

fine

ここから約2時間強先に進むと、Prometeoのもう一方の縁に辿りつく。最終章Stasimo Secondoをしめくくるのは、シェーンベルクの『モーゼとアロン』第三幕幕切れのモーゼの台詞 È NEL DESERTO INVINCIBILE――砂漠の只中で彼は無敵である。最後のINVINCIBILEのさらに末尾のci- bi- leの三音が、アカペラにより5度で唄される。 その音が B - F# である点に注目しよう。

 

こんどの比較対象はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』である。Tristan第三幕の最終3小節は、オーケストラが奏でるロ長調の主和音、すなわちB - D# - F#で、全体としてはそれがおおむねター、ター、ターという三回の繰り返しになって聞こえてくる。ごくごく大雑把に言うと、Tristanから D# 音を抜いて器楽を歌声に変えれば、ほぼPrometeoの音になる。この類似もおそらく偶然の産物ではない。

*

どうしてそう言えるかというと、ノーノにとってマーラーワーグナーの二作品が、それぞれ音楽の始まりなき始まりと、音楽の終わりなき終わりのモデルケースだからである。

 

senza inizio

Prometeo初演に際して出版されたVerso Prometeoという小冊子の中で、ノーノは二度マーラーの『一番』開始の弦に言及している。

 

ひとつは1984年春のカッチャーリとの対談(進行役Michele Bertaggia)のなかでの発言

交響曲のもっとも演奏しにくい出だしといったらマーラーの一番でしょう。A音の何オクターブにも及ぶ弦のハーモニクスで、楽譜にはNaturlaut(自然の音)と指示が書かれています。(…)それは始まりに気づいてはいけないような出だしなのです。気がつくと自分がその中にいるというのでなくてはいけない。始まりを知ることなく、既にそこにあるものに驚かされるのです。散歩をしていて不意に、といった感じで。 *4

Frammenti di Diariと題された断章風の覚書のなかでもほぼ同様のことを短く述べている。

(…)そこに始まりはない。無限の谷あいのおおいなる息吹の只中にあるのを不意に見いだすのだ。 *5

 

そのマーラーを、ノーノは少なくとも三通りのやり方でPrometeoに引用しているとみられる。ひとつは既に述べた、Lydia Jeschkeが指摘している冒頭3~7小節の弦。Prometeoのなかほどには、より直接的にマーラーを彷彿とさせる音が聞こえてくる箇所もある。Tre Voci aの4小節から110小節まで10分以上鳴り続けるヴァイオリンの平坦なハーモニクスは、まず間違いなく『一番』の弦を意識したものだろう。「始まりに気づいてはいけないような出だし」は、奏者の数を調節することによって演出される。この音は4群のオーケストラのそれぞれに4人ずつ含まれるヴァイオリン奏者が出している。譜面上で指定されているダイナミクスppppで常に一定だが、演奏に参加する奏者の数が変化する。横軸を小節数、縦軸を奏者の数としてグラフを描くと、満潮時刻前後の潮位変化のような山型の図になる。出だしの4小節から7小節までの奏者は最小のたった一人。だから音の入りはもっとも聞き取りにくい。

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マーラーの第三の引用は、Prometeoの楽譜をいくら眺めても、CDの録音をいくら聴いても見つからない。Prometeoの電子音響と言うと、今ではもっぱらライヴ・エレクトロニクス(すなわち演奏音をリアルタイムで加工する技術)に関する諸事ばかりが取り沙汰されるようになっているが、もともと初演当初は、ライヴ・エレクトロニクス担当のフライブルク組と、パドヴァ組の二枚看板でまかなわれていた。後者が行っていたのは、パドヴァ大学のCentro di Sonologia Computazionaleで当時開発されたばかりの 4i というDSPを搭載したシンセサイザーをつかって、リアルタイムで新規に音を合成する作業である。ノーノがPrometeoのために 4i のシステムで取り組んでいたテーマのひとつが、マーラー『一番』冒頭の弦の音響構造の、電子音による詳細な再現であった。1984年ヴェネツィアでの世界初演の際は、その成果がこんなかたちで生かされていたという。 *6 *7 116.5 Hz のB♭の持続音が、聴衆と奏者を乗せたレンゾ・ピアノ設計の「船」の下部に置かれたスピーカーから再生される。はじめのうちは船が共振して地鳴りのように震えだすほどだったその低いモノトーンが、だんだんと7オクターブに拡大するとともに、いつしかマーラーの澄んだ響きへと変容していく。私がみた二つの資料には、これがPrometeoのどの部分で使用されていたかがはっきりと述べられていないのだが、パドヴァ組の「組長」だったAlvise Vidolinの次の記述を読んだ印象では、Prologo冒頭のマーラー的な弦に並行して使われていたということを言っているようにも聞こえる。

In the 1984 Venice version of Prometeo, Nono began by conjuring up the chord that opens the First Symphony of Mahler and the 4i system was chosen to intone the 116.5 Hz B-flat, projected by the loudspeakers set under the base of the structure, then expanding it gradually over seven octaves and transforming it, finally, into the dimmed sound of a distant chorus. *8

*1:Luigi Nono (1987). Bellini: Un sicilien au carrefour des cultures méditerranéennes.

*2:Ibid.

*3:Lydia Jeschke (1997). Prometeo: Geschichtskonzeptionen in Luigi Nonos Hörtragödie. Stuttgart: Franz Steiner Verlag, p. 15

*4:Conversazione tra Luigi Nono e Massimo Cacciari raccolta da Michele Bertaggia (1984).

*5:Luigi Nono (1984). Verso Prometeo. Frammenti di diari.

*6:Alvise Vidolin (1997). Musical interpretation and signal processing. In: Roads, C., Pope, S.T, Piccialli, A. & De Poli, G. (eds.) Musical signal processing. Lisse: Swets & Zeitlinger: 439-459.

*7:Intervista ad Alvise Vidolin, a cura di Carlo De Pirro. [pdf]

*8:Vidolin (1997), p. 154