アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 4/9

メドゥーサの族

「音の海」とか「音の島」とか言ってるけれど、音というものはそもそも固体か液体かそれとも気体なんですかと問われれば、音は狭義には空気中を、広義には気体だったり液体だったり固体だったりするさまざまな媒体を伝播していく弾性波であるから、それ自体は別に固体でも液体でも気体でもないというのが現実的な答えである、が、ここで考えるべきはもちろん、音それ自体ではなく、人の頭のなかで鳴っている音の物理学である。イメージにおける音の三態。さすがに三態だと話がややこしくなるので、「水のような音」と「島のような音」の二者択一に単純化することにしよう。

  1. 島のような 一定の輪郭をもつ 剛体的な 図地の図のような 音
  2. 水のような 一定の輪郭をもたない 流体的な 図地の地のような 音

とおいたとき、イメージのなかに存在する音は常温常圧のもとでAとBのどちらが主流を占めるだろうか。答えは言うまでもない、Aである。

 

人間のイメージのなかで音に限らす万物が固化していく傾向は、ひょっとしたら人はメドゥーサの末裔なんじゃないかという合理的疑いが生じるほどにすこぶる強力なものである。灯火に群がる夏の蛾のごとく、人は形あるもののほうへと引き寄せられていく(正の走光性ならぬ正の走形性)。進むべき決まった道はないのに、ついつい道路に敷かれた白線の上を歩きたくなるのは、ものに揺るぎない輪郭を与えてくれる頼もしい線への愛着のなせる業に違いない。形あるものを、見つからなければでっちあげてでも求めてやまない心性は、万物流転の只中にあって個体として定まった形姿を得ることによりいっときこの世に存在している人間にとっての、広い意味における同朋愛のようなものなのかもしれない。

 

「このへんの空は、じつにふしぎだね」、サハラ砂漠の真ん中で、暮れなずむ空を見上げながらある人が言った――「ぼくはよく空を見ていると、それが何か堅固なものでできていて、その背後にあるものからぼくらを庇護してくれているような感じがする」。 *1

You know, the sky here’s very strange. I often have the sensation when I look at it that it’s a soid thing up there, protecting us from what’s behind.

荒川紘著『東と西の宇宙観(紀伊國屋書店)』やブラッカー・ローウェ編『古代の宇宙論海鳴社)』によると、人間の見上げるまなざしの中で天空が石のように固化していく現象は、歴史をとおして洋の東西を問わず世界じゅうで認められる共通項である。近代科学が普及する前の人間界において、空がa solid thingであるということはポート・モレスビーの言葉と裏腹に少しもstrangeではなかったようだ。

 

古代中国を例に取ると、蓋天説と渾天説という二つの代表的な天空構造のモデルがある。両説とも空に固有の形があるという点では一致をみており、対立点はその具体的な形状に関してである。天円地方の思想を源とする初期の蓋天説は、開いた傘のような形状の丸くて平らな天が平らで四角い大地のはるか上の方に架かっているというものであった。いっぽうの渾天説では鶏卵のような形の宇宙を想定していて、黄身にあたる中心の位置に大地があり、天はその上を卵殻のように円く取り巻いている。中国では蓋天派と渾天派の蓋渾論争が数百年にわたって続いたが、渾天説のほうがもろもろの天文現象をよりよく説明できることから、6世紀ごろまでには渾天派の優勢勝ちでほぼ決着がついたようである。

 

ただその辺の仔細は今はあまり重要ではない。エジプト、シュメール、バビロニア、インド、ユダヤ、イスラムスカンジナビア、ギリシア、西欧とよりどりみどりのケーススタディのなかから中国の例を取り上げたのは、上述の二大学説の陰に隠れて目立たないながらそれらとまったく毛並みの異なる第三の説が同時代に知られているからである。

 

その説、宣夜説の説くところはこうである――空が青く見えるのは、別にそれが青銅や碧玉で出来ているからではない。はるか遠くのほうの山々を眺めるとどれもみな青っぽく見えるのと同じ原理である。限りある存在である人間が限りないものを見はるかそうとして目が眩む、その際に生じる錯覚の色が青なのだ。見上げる空の青さは天を縁取る物体がまとっている膚の色を教えるものではなく、天が無限に高く遠く広がっていて涯がないことの証である。空に瞬く星々はその広大無辺な空間のなかを、何物にも根を下ろすことなくまちまちに遊動している――というわけで、宣夜説はジョルダーノ・ブルーノに千年以上先立つ、まごうことなき無限宇宙論なのである。 *2

 

どうやら人類のなかには、メドゥーサから幸運にも(不運にも?)邪眼を譲り受けることなく産まれてきた異端児が大昔から少数混ざっているようだ。大空を仰ぎ見て、大多数の人が「どのような縁に囲まれているのだろう?」 *3 と描線の引き方を思案しているところに、「どのような拡がりなのだろう?」 *4 と別の問いを発することのできる人。人間のなかの多数派を占めるメドゥーサ系の連中が凝固させてしまったものを、逆向きに相転移させることのできる稀な資質の持ち主である。

 

宣夜説の時代から千年余りの時を経たヨーロッパの頭上の空をめぐる、両陣営の言い分を聞き比べてみよう。ジョルダーノ・ブルーノの『無限、宇宙および諸世界について』の第五対話に登場する保守的知識人の代表者アルベルティーノは、ブルーノの代弁者フィロテオに向かって、世の常識をこう説いてみせる。

まず第一に、この世界の外には場所も時間も存在しえないということから始めましょう。第一天あるいは第一の天体というとき、それは我々からもっとも遠くにある第一動者を意味します。通常私たちが天と呼んでいるものは、この世界を限っている境界のことで、そこではすべてのものが、動かずに固定され安静であります。 *5

対するジョルダーノ・ブルーノの自己紹介の弁。

ごらんなさい。今あなたがたの前に立っているこのわたしこそ、大気を通り抜け天空を貫いた男なのです。星々の間を進み行き、宇宙の果てをもさらに越えて、天体の間に設定されていた、盲目で通俗的な哲学の用いる誤った数学によって描かれた架空の境界――第一の天界、第八の、第九の、第一○の、その他ありとあらゆるその架空の天体の架空の境界を打ち壊した男、それがわたしなのです。 *6

これはただ単に、地球を宇宙の中心とみなすか否かだけに起因する見解の食い違いではない。大空にすら輪郭を設けずには気が済まないような形への欲望、その有無によって両者は袂を分かっているのである。

 

Caminantes...Ayacuchoの空

ブルーノの詩を歌詞に据えたノーノのCaminantes...Ayacuchoでは、ブルーノが唾棄する天の「架空の境界」が、カトリック教会御用達の楽器であるオルガンによって再現されている。Christina Dollingerの本によると、ノーノはCaminantes...Ayacuchoのあの印象的なオルガンのドローンのことを、「あれは音域を限界づけるBilderrahmen、額縁なんだよ」とAndré Richardに語っていたそうである。 *7

 

No hay caminos, hay qua caminarがG音だけで、A Carlo ScarpaがCとSの二音だけで作られた曲だということはよく知られているが、Caminantes...Ayacuchoも基本的にA、B、C、G、Hの5音だけからなる音楽である(この制約にとらわれずさまざまな音高を自由に放浪していくのはアルト独唱とバスフルートの二人のソロイストのみ)。くだんの5音の由来については、Prometeoをはじめとする多くの後期作品にノーノが用いているscala enigmatica(主音Hの場合)の構成音ではないか、いや、Il canto sospesoをはじめとする多くの初期作品にノーノが用いているall interval row(A音ではじまる場合)から採ったものではないかなどいくつかの可能性が取り沙汰されていたが、ノーノのスケッチによるとどうやらもっと単純に、Giordano BrunoとAyacuchoから来ているらしい。この5音をノーノはC-GとA-B-Hの二組に分ける。そして、C-Gの下にvuoto(=void)と書き添えている。 *8 かたや果てしない宇宙空間を連想させるひろびろとした空虚5度の2音、かたや地上に生きる者の重力に縛られた鈍重な歩みのごとく半音の歩幅でゴニョゴニョと蠢く3音という、天と地の対比である。

 

管楽器、弦楽器と異なりオルガンには微分音が用いられないため、オルガンがとりうる音のレパートリーは文字どおり上記の5音に限られる。さらにノーノはオルガンに関して、

  1. G-CとA-B-Hの二組の音を混ぜて使用しない
  2. 別のオクターブに属する音を同時に鳴らさない

の二つのルールを厳格に適用しているため、オルガンが一度に出すことのできるピッチは、最大でも3つまでである。Caminantes...Ayacuchoのオルガンがこのたいへん厳しい制約のもとで担っているのは、ドローン発生装置としての役割である。単音(8回、計71小節)、2音(14回、計132小節)、もしくは3音(4回、計34小節)からなる、5~14小節にまたがる一定ピッチの持続音、それがこの作品でオルガンが発する音のすべてである。 *9

 

全324小節からなる楽曲の4分の3近い237小節で鳴り響くこの平坦な持続音を、いつものように「海」と呼びたいところだが、実際のところそれは、ノーノの作品のなかにたびたびひらけてくる音の海の眺めとは明らかに異質な特徴を具えた、たいへん風変わりな海である。微分音を出せないという標準的なオルガンの構造上の制約ゆえに、ノーノの海を特徴づける微細なピッチの揺動が生じる余地が封じられているということがひとつ。ノーノの海の海水面を波立たせるもうひとつの大きな要因はダイナミクスの変化(ダイナミクスの変化に付随して生起するもろもろの微細な音現象を含む)であるが、こちらのほうもつねに一定の、pppppに保たれている。結果としてオルガンのドローンは、初夏の夜に聞こえてくるクビキリギスの鳴き声のように単調で起伏のない、前代未聞のMare Tranquillitatisの相貌を帯びることになる。

 

ではこの海?が額縁と呼ばれる所以はどこにあるのか。作中のオルガンの音域の分布を小節数で表したヒストグラムに答えを探してみよう。

 

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みてのとおり、音域は高音と低音に二極化の傾向――高音側に大きく偏っているが――を示している。c5-h5とC1-H1は、初演の行われたミュンヘンのコンサートホールに設置されているオルガンの、それぞれ最高音域と最低音域であった。オルガンに関するノーノの構想メモにはakuto、bassoの文字(「鋭い、高い」の意味のイタリア語アクートの綴りはふつうacutoだがノーノはよくakutoという書き方をする)が書かれていて、当初から使用する音を高低の両極端に分かつ意図があったことがうかがわれる。 *10 要するに「額縁」の語は、オルガンのか細い響きがつくる薄い被膜が音響空間の上方と下方に張られて作品世界をすっぽり包んでいるという状況を指しての言葉とみられるのである。

 

なお、先に述べた二組の音群の性格的対比から、地の音A-B-Hが低音域に、天空の音C-Gが高音域に配されている布置を漠然と想像しがちになるけれども、このような対応づけまったく認められない。Caminantes...Ayacuchoのラストシーン、adtolle *11 の歌声に促されて仰ぎ見る空に架かるオルガンの天蓋は、a5(296~300小節)→a5、b5(301~305小節)→a5、b5、h5(306~310小節)→b5、h5(311~315小節)→h5(316~最終324小節)と推移する。 *12 h5が全曲の至高点(至高天)である。天の遥かな高みに境界線を引いたのがそもそも誰だったのかを思い出してみれば、それが地上由来の3音を材料に造られていることを訝しがる道理はないだろう。

*1:ポール・ボウルズシェルタリング・スカイ』、大久保康雄訳、新潮文庫、134頁

*2:ジョセフ・ニーダム「中国初期の宇宙論」、矢島祐利・矢島文夫訳、『古代の宇宙論』、海鳴社

*3:ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』、清水純一訳、岩波文庫、43頁

*4:同上

*5:『無限、宇宙および諸世界について』、213頁

*6:ブルーノ『聖灰日の晩餐』より。フランセス・イエイツ『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』、前野佳彦訳、工作舎、351頁

*7:Christina Dollinger (2012). Unendlicher raum - zeitloser Augenblick: Luigi Nono: >>Das atmende Klarsein<< und >>1° Caminantes.....Ayacucho<<. Saarbrcken:Pfau, p. 116

*8:Ibid., p. 114-115.

*9:Ibid., p. 116-118.

*10:Ibid., p. 116.

*11:adtolleの語は、ブルーノの詩の最終行の神への呼びかけのなかに出てくる。adtolle in clarum, noster Olimpe, Iovem.「われらがオリンポスの神よ、澄み渡った天に頭を持ち上げよ(加藤守通訳)」、それを人間の言葉に変換すれば、「空を見上げよ」と読むことができる。見上げる視線は横たわるものの視線であり、つまりは有限者の生のはじまりと終わりを縁取る視線である。

*12:Dollinger (2012), p. 117.