アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の上 3/9

水浸しの島

港は青い時の終りではない 阿部良雄『夢の展開(沖積舎)』、33頁

無辺のものを産みだすためになにものかの辺が必要とされるという反射の逆説を、ノーノはラグーナに浮かぶ小舟の上で漏らした最後のひとことでさりげなく乗り越えようとしていたのだろうか。ヴェネツィアの空間が奏でる永遠の音楽に「私はいつでも浸かって(ドイツ語訳ではeintauchenおよびversinken)いた」。反射によって生じた海に「浸かる」のは物理的にさぞ難しかろう。石や水面が跳ね返した音は私の皮膚もおおかた跳ね返してしまうだろうから。このやや非現実的な「浸かっている」感覚の背後に、ジョルダーノ・ブルーノの息遣いを感じとることができる。

 

ブルーノ主義者が無限というものをここではないどこか遠くに探し求めるような愚を犯さないのは、「宇宙は縁も境界もない広大無限のもの」 *1 であることと、その宇宙のいたるところに無数の有限物を規定する縁や境界が引かれていることとが、同一のものの二つの側面であることを心得ているからである。そのなかに無数の諸事物が鏤められた無限の宇宙の姿を、ブルーノ本人は次のように描写している。

知るべきことは、一つの無限な容積をもつ拡がりないし空間が存在し、それが万物を包み、万物に浸透しているということです。 *2

 *

無限とはそのなかに地球や月や太陽のごとき数えきれぬ無限の物体が存在している広大無辺のエーテル界のことです。我々はこれを充満と空虚とで合成された諸世界と呼んでいます。というのはこの精気、この空気、このエーテルは、たんに諸物体をとり囲んでいるだけではなくて、万物のなかに浸透してそれぞれのなかで本具化しているからです。 *3

 

決定的に重要なのは、ブルーノがエーテルと呼ぶ際限のないひろがりが、ただ単に万物を取り巻くだけでなく万物に浸透している点である。ブルーノにとってこれは無限なるものの必須の要件である。「そのなかに無数の諸事物が鏤められた無限の宇宙」と聞いて浮かんでくる図はいっけん群島的だが、ブルーノ版の群島はここで彼の言うエーテルを水に、万物を島に置き換えたものである。とすれば、ブルーノの海を充たしている水が絶対に具えていなければならない性質はあらゆる島に対する透過性である。この点を踏まえた新たなる群島モデルを提示しよう、名付けて「水浸しの島」モデル。

 

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水は島の境界線によって断ち切られることなく、また島の境界線を崩すことなく、島の内ふところに満遍なく浸透して、無辺際と呼ぶにふさわしい真の連続性を具現している。島は水の連続性を妨げることなく点在し、水は島の形状を損なうことなく遍在する。分かれていること(断片性)とつながっていること(連続性)の同時成立をきわめて単純明快に表現したモデル。この眺望に限りあるもの(島)の点在をみるか、それとも限りないもの(水)の遍在をみるか、要するに有限をみるか無限をみるかは、ひとえに視点の置き方次第だ。

 

「水浸しの島」の語は岩成達也の詩から拝借したもので、岩成達也はそれを下に挙げるシャルル・ペギーの詩から得ている。

昼はあたかも海にうかぶ島々のようなものです。それは、海を分断する島々、分断された島々のようなものです。

しかしながら、海は続いているのです。

過ちをおかしているのは島々のほうです。

それと同じように、過ちをおかしているのは昼のほうです。分断された昼こそが夜をさえぎっているのです。

とはいえ、昼がたとえ何をしようとも、

昼はそれ自体、

夜の中に浸っているのです。

ちょうと海が水の宝庫であるように、夜は存在の宝庫なのです。

熱をおびた昼が、たとえ何をしようと無駄なことです。

昼は大海に、夜のただ中に、ま夜中に浸っているのですから。

散らばっているのは昼です。砕けているのは昼です。

昼は点在するものです。

しかし、いっぽう夜は、

かつて聖パウロ渡航した、

大海なのです。 *4

「この本をまとめてみて、私の関心が〈いま・ここ〉で肉を離れることのできない『個』と、知を触発してやまない『無限/全体』とに、一貫して集中していることがよく判った」と、2013年の『誤読の飛沫(書肆山田)』発刊に寄せた著者メッセージで記していた詩人のアンテナは、ペギーの描く昼と夜の関係性に、限りあるものと限りないものの接触の様式の一モデルを検知しているのだろう。

 

「なにかを取り巻くと同時に浸しているものな~に」というなぞなぞの答えはほかにも考えられる。ブルーノ的な無限の似姿は案外いろんなところで見つかるものなのだ。エルンスト・ユンガーは『母音頌』でこう述べている、「人間の言語は語詞からなるとともに、純然たる音韻からなる言葉があるのであって、後者は前者をつつみこんでおり、また、そのなかに滲みわたっている」。 *5 たとえばpastのような全身を子音の堅い甲皮で覆われた言葉でも、よく見れば内部に母音の大洋の水が滲みこんでいる(past)。言語よりさらに身近な例――いや、身近というよりは身そのものというべきか。生物個体を構成する細胞の存在様式はまさに絵に描いたような「水浸しの島」である。ところで、一個の細胞は、n個の細胞からなる一個の生物個体の縮図でもある。わたしがたったいま飲んだ水はこのあとどれほどの期間「わたしの水」であり続けるのか。重水のような安定同位体入りの水をマーカーに用いた直接的な測定結果によると、体内に取り込んだ水が半減するまでに要する日数はだいたい7~14日なので、一人の人間の体に個々の水分子が滞在している時間は平均すれば2週間かそこらといったところが相場のようである。人体の構成要素の代謝回転は水だけに限った話ではないが、たとえば骨を構成する物質の生物学的半減期に比べて、水の回転率は当然格段に高くなる。わたしの中のじつに6割を占める、ということは四捨五入すればわたしそのものであると言っても過言ではない最大勢力の水は、いっぺん2週間ばかり軽井沢に避暑で訪れただけの人を軽井沢町民だとは呼びがたいのと同じ理由で「わたしの水」だとは到底言いかねる、通りすがりの匿名分子の集まりなのだ。水はわたしという一個の器を打ち砕くでも壊すでもなく、「水浸しの島」の流儀で淡々と無抵抗にすり抜けていく。

 

参考:中西夏之の語る器と水の理想的な関係。器に収まり限られていながらもなお無限へとひらかれていること。

私はつね日ごろ水を飲むとき、口造りが内側に向いたり、外側に花弁のように垂れ下がろうとするものではなく、あくまで薄く、真直ぐ無限の外側に放射するような口造りを愛している。注がれ、盛られた水もやはり完璧な円型をなし、一口一口と器の縁から薄い円型の被膜を呑みとることによって、円型の水面の水位を下げてゆくのである。何層もの円を呑みとってゆくのである。 *6

 

ブルーノの宇宙像について少し補足することがある。すなわち、ブルーノが「展開された無限(全体の無限)」と「内包された無限(全的に無限)」という二種類の無限を区別している件について。『無限、宇宙および諸世界について』の第一対話において、この両者は宇宙と神の区別に明確に対応づけられている。「宇宙には縁も終りもなく、これをとり囲む表面もない」ので全体の無限であるが、「宇宙から採り出すことのできるその各部分は有限なもの」なので全的に無限ではない。いっぽう「神は全世界にくまなく遍在し、そのそれぞれの部分のなかで無限かつ全的に存在している」ので、全体の無限であるだけでなく全的に無限でもある。 *7

 

『原因・原理・一者について』の本論でブルーノが開口一番説いているのも、全的に無限である神と全体の無限でしかない宇宙の間に横たわる、一方が彫刻家だとすれば他方はその彫刻家の彫った作品だというぐらいに遠くかけ離れた彼我の格差であるが、加藤守通が指摘するとおり、その後の議論では頁を繰るほどに宇宙の格が高まっていき、最終的には神と宇宙がほぼ同一視されるまでに到る。 *8 中ほどあたりの章でブルーノは、宇宙という物体を構成する三つの要素を挙げている。あらゆるものに存在を与える一つの知性=「諸形相の付与者」としての、普遍的知性、あらゆるものを創りそれに形を与える形相原理=「諸形相の泉」としての、世界霊魂、そこからあらゆるものが創られ形を与えられる「諸形相の受皿」としての、無限の広がりをもつ質料である。 *9 このうち普遍的知性は、世界霊魂の具える一能力として、もともとそのなかに含まれるものだとされる。ブルーノが宇宙を丸ごとひとつの巨大な生き物 *10 *11 だとまで呼び称する所以は、宇宙における世界霊魂の遍在にある。加藤守通曰く、「宇宙とは、世界霊魂に浸透された、無限の広がりをもつ生の海なのである」。 *12 もっとも、世界霊魂が宇宙を充たしているさまは、水が現実の海を充たしているありかたとは趣を異にしている。

 

ブルーノは世界霊魂の存在形態に関して、それがある種のしかたで声に似ているということを言っている。声が「部屋全体と部屋の各部分に全体として存在して」おり、「たとえ千人の人々が居合わせようと、すべての人々によって全体として理解されるように」、  *13 世界霊魂は宇宙のいかなる部分にあっても全体として完全に存在するのだという。要するに世界霊魂は全体の無限ではなく全的に無限なありかたで、無限にひろがる質料のすみずみに遍く内包されているのである。世界霊魂と言葉の最高の意味での一体化を遂げた質料はもはや単なる諸形相の受皿ではなく、「現実性の泉」、「自然物の母」と呼び得るような、あらゆる形相を自らの胎内から産み出すことのできる能動的性質を、任意の一点において均しく帯びることになる。そのような質料をブルーノはそれ自体「神的なもの」 *14 だと評価する。最終章(第五対話)ではもはや神という言葉はほとんど使われなくなり、かつては神のものだとされていた属性がそっくりそのまま宇宙に冠せられるようになる。

 

No hay caminos, hay que caminarの初演前日に行われた武満徹との対談のなかでノーノは、「多くの中心が互いに重なり合い、影響し合うことで全体をなしているような」ジョルダーノ・ブルーノの空間をモデルとして、演奏会場の7箇所にオーケストラを分散配置する着想を得たという趣旨のことを述べていた。 *15 自覚なきブルーノ主義者が自覚的にブルーノについて語る事柄はせいぜいこの程度である。

 

No hay caminosは全篇がG音で(より正確にはG音を中心として四分音の間隔で並ぶ7音で)構成された音楽である。12とおりの選択肢のなかからノーノはなぜGを選んだのだろう?G音はイタリア語でsol、solは太陽soleにつうじる。ノーノのなかで実際にこの連想がはたらいていたことは、No hay caminos初期のスケッチにまさしくsol = soleの書き込みがあることによって確かめられる。 *16 No hay caminosの楽譜に多数個の音符で書き込まれているsolは、作品世界に鏤められたいくつもの太陽なのだ。と同時に、それらすべての星々には同じひとつのsol音が(水のように)満遍なく滲みわたってもいる。solは多数の個物として空間および時間に散在するとともに、一として遍在する――水のように、というよりはむしろ声のように、魂のように、作品世界のいかなる部分においても均しく全的に鳴り響く不変のsol音として。これはノーノが武満徹に向かって意識的に語っていた「ただの群島」の布置を遥かに凌駕する、ブルーノの無限宇宙のきわめて正確な音楽的表現である。

*1:ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について』、清水純一訳、岩波文庫、187頁

*2:同上、160頁

*3:同上、82頁

*4:シャルル・ペギー『希望の讃歌――第二徳の秘義の大門』、猿渡重達訳、中央出版社、372~373頁

*5:エルンスト・ユンガー「母音頌」、『言葉の秘密』、菅谷規矩雄訳、法政大学出版局、15頁

*6:中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』、筑摩書房、89頁

*7:『無限、宇宙および諸世界について』、63~64頁

*8:加藤守通「第4部 ジョルダーノ・ブルーノ 第一章 世界霊魂と個人の魂――イタリア語著作を中心に」、『イタリア・ルネサンスの霊魂論』、三元社、182~215頁

*9:ブルーノ『原因・原理・一者について』、加藤守通訳、東信堂、117~118頁

*10:『無限、宇宙および諸世界について』、122頁

*11:『原因・原理・一者について』、9頁

*12:加藤守通 前掲論文、186頁

*13:『原因・原理・一者について』、94頁

*14:同上、162頁

*15:武満徹対談集『歌の翼、言葉の杖(TBSブリタニカ)』に収録

*16:Erik Esterbaurer (2011). Eine zone des Klangs und der Stille: Luigi Nonos Orchesterstück 2°) No hay caminos, hay que caminar.....Andrej Tarkowskij. Würzburg: Königshausen & Neumann, p. 77.