アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 12/14

ジョルダーノ・ブルーノの船

「つまり宇宙に存在する運動には、無限の宇宙から見るならば、上も、下も、あちらも、こちらも、区別ないのです。こういう区別は、そのなかにある有限の諸世界から見られたものであって、」 *1 ――無限そのものには左も右も高いも低いも近いも遠いもないというブルーノの基本認識が、その志向なき無限を志向することへのなんの妨げにもなっていないことは、『英雄的狂気』を一読すれば明白である(「無限への進行」 *2 「高所を希求する精神」 *3 「神へと向かい、神を目指す」*4「把握不可能な真理に向かってつねに進み続ける」 *5 「魂全体が神へと向きを変え」 *6 )。ブルーノにとって重要なのは、「神は近くに、われわれとともに、われわれの内にいる」 *7 という言語表現の中で生じている神=無限への漸進的な空間移動を可能としてくれる「道」を見つけ出し、あるいは作り出し、そしてその道を熱意をもって進んでゆくことである。

 

ジョルダーノ・ブルーノは見る人である――「愛はあらゆる感情の基礎をなす」 *8 そして、「あらゆる愛は見ることから生じます」 *9 /「見るという行為を通じて美しいものが提示される」 *10 /「愛は視覚を通じてもっともよく働きかける」。 *11 視線という言葉はあっても聴線、嗅線、触線、味線とは言わない。ブルーノが視覚をすべての感覚の中でもっとも霊的なものとして最重視するのは、視覚の突出した指向性の高さゆえに、まなざしが限りあるものと限りないものを結ぶとりわけ通りやすい連絡路の役を果たすからである。

 

壁だけで扉や窓――要するに穴――のない家に暮らすことができないのは、魂の家である肉体についても同様だ。

魂は、長い間、質料とより親しいがために、神的英知の輝きと神的善の形質との二つの光線によって貫かれるには、あまりにも固く不向きだったのです。彼が言うには、この間、心はダイヤモンドによって周りを飾られていました。つまり、熱せられ貫かれるにはあまりにも固く不向きな情念が、愛の打撃を防いでいたのです。 *12

視線は体に穿たれた穴の一つである目から伸びる光(眼光)である。穴を穿つとは、穴がアフォードする「通り抜ける」という行為によって内を外をつなぐ一筋の道を作ることである。通路としての穴は出口でも入口でもあり(「神性を見ることは神性に見られること」 *13 )、目という穴を介して光の矢は内から外へ、あるいは外から内へと双方向に行き交う。たとえば、入口としての目――「そして幾多の光のうちでこれらの光のみがわたしの目を通して/わたしの心へのたやすい入り口を見出した *14  解題:英知の輝きと太陽であるところの能動知性を現出させるこれらの光は、『心』、すなわち情念一般の実体、に至るための『たやすい入り口』を見出したからです *15 」、出口としての目――「このことは、目の光である矢が放たれることで生じるのですが、目というものは、傲慢で反抗的であったり、あるいは寛容で慈悲深かったりするのに応じて、天国あるいは地獄へと導く扉になるのです」、 *16 出口――「可視的な形質を獲得するために目から光線を放つ」、 *17 入口――「外の光と可視的な形質を内へともたらす役目を果たす水晶体」。 *18

 

目は光の出入口であるとともに、光とは別のものの少なくとも出口でもある。『英雄的狂気』第二部の第三対話では、目から溢れ出る水すなわち涙の理由について狂える者の目と心が語りあっている。目がしゃべること以上にその話の内容が又聞きした人間を不思議がらせる――「けれども、目が用いる大げさな表現には、驚いてしまいます。そこでネレイデスたちが日の出に向かって頭をもたげる、海の水よりも多量の水を、目が提供するですって。それに比べたらナイル川が七つの細流を持つ小川に見えるほど数多くの大河を(現実に流しているのではなく)流すことができるという理由で、目が大海と同等にみなされるですって」。 *19 目はどうして「海の種子」 *20 となり得るのか?「わたしの目のそれぞれが大海を含んでいる」 *21 とはいかなる理由によってなのか?一言で言えばそれは目が無限へと接がれた穴だからである。目と心の愚痴のこぼし合いのようなすれ違い気味の対話をとおして徐々に描き出されていくのは、船が海面に浮かぶようにわたしの内と外のちょうど境目に位置する目を通り抜けて内なる心と外なる世界(宇宙)とを環流し続けるひとつの回路である。この回路において目は入出力のインターフェース――ライヴ・エレクトロニクスで言えばマイクロフォン兼スピーカー――の役を担っている。

目は、この議論において二つの機能を持っています。ひとつは心に印象を刻印する働きであり、もうひとつは心から印象を受け取る働きです。同様に、心にも二つの働きがあります。ひとつは目から印象を受け取る働きであり、もうひとつは目に印象を刻印する働きです。目は緒形質を認知し、それらを心に伝えます。心はそれらを熱望し、自らの熱望を目に提示します。目は光を捉え、それを拡散し、心に火を付けます。心は熱せられ、火を付けられて、目によって消化されるために自らの体液を目に送ります。このようにして、最初に認識が情念を動かし、次に情念が認識を動かすのです。 *22

溢れる涙の原因はわたしの心の中で燃え上がる情熱の炎、心の火の原因は目が捉えたわたしの外の世界の対象物――と因果の連鎖を遡っていくと、結局「外の光景は [内なる情念が] 存在する発端だった」 *23 と知れる。わたしの内から外へ溢れ出してくる水は、元を辿れば外界へと突き出たわたしのまなざしの井戸から汲み出されてきた水であった。ライヴ・エレクトロニクスにおいてスピーカーから出力される音が、元を辿ればマイクロフォンから入力された生の演奏音の変容した姿であるように。目は光の出入口であるとともに、その裏面では水の出入口でもある。わたし自身は有限者だとしても、わたしが「対象に無限なしかたで関わ」 *24 っているかぎり、つまり、まなざしが無限なるものへと向けられているかぎり、汲み出される水は無尽蔵で限りがない(ところで、人の顔に空いた別の穴、鼻と口は空気の出入口で、目が海の種子であるのと同様の理由により風の種子である。それゆえ、「もしも最高善と無限の美とを終わりなく熱望する情念から生じる溜息をわれわれが数えるとしたならば、あたかも(アエオルスの強風の吹きすさむ洞窟の中の)すべての風が溜息に化したかの印象を受ける」 *25 のである)。

 

メルヴィルとノーノの船は「自らが航行していく海を自ら生み出す船」だと先に述べた。海に浮かぶちっぽけな船体がどうして海の種子となり得るのか?上にみた対話の内容はその疑問に対するブルーノの答である。じじつブルーノは人間の両の目を「魂の船首に輝く双子の光」 *26 と形容していた。目が船の形象を帯びるのは、五感の中でも飛び抜けて高い視覚の指向性が虚空を貫いて伸びるまっすぐなまなざしをいかにも航路めいたものにしていることに加えて、「濡れることと乾くことの両義性」という船の基本的な存在形態を目が具えているからでもある。

目は、動かす立場にあるときは、鏡として再提示する機能を果たすために、乾燥しています。しかし、動かされる立場にあるときは、熱意を持って事に当たるので、混乱し変化しています。実際、観想的な知性が最初に美と善を見、次に意志がそれを欲求し、その後で熱意 [意志] を持った知性がそれを得ようと努め、追求し、求めるのです。涙に濡れた目は、熱望されたものが熱望する者から分け隔てられていることの苦境を示しています。 *27

 

目と心の対話につづく第四対話でブルーノは、「人間の精神が視線を神的な対象に定めることができないゆえにそれに対して盲目であることの九つの理由」 *28 を九人の盲人の慨嘆の形で順に挙げている。これは目指すべき方向に舳先を向けることができず船が航行不能に陥ってしまう海難事故の想定事例集である。船を見舞うトラブルの二大原因は濡れすぎによる難破と乾きすぎによる船火事である。例えば第五の盲人の言葉は難破による航行不能

いつも水に浸された私の目よ、

いつになったら、

かくも分厚い障害を通って、

目の光線から火花が放たれ、

わたしはあの聖なる二つの光を見ることができるのだろう。

わたしの甘美な災いの始まりであった二つの光を。

ああ、対立するものによって長きにわたって圧迫され打ち負かされたために、

この火花はとっくに消え去ってしまったはずだ。

 

盲人を通してください。

そして、わたしの二つの泉を見てください。

それらは、他のすべての泉を集めたものにさえ勝るのです。

そしてわたしとあえて論を交わす人は、

 

わたしの目のそれぞれが大海を含んでいることに

きっと気づくことでしょう。 *29

いっぽう船火事に関しては、「さかさまの太陽」とでも言うべき心の火が目=船を脅かす熱源として取り沙汰される。心の内で燃え盛る火が目に作用して引き起こされるのは本来なら湧き出る涙の溢水現象のはずであったが、「水と熱との交互作用」 *30 の危うい平衡がひとたび崩れれば、時にはその火がそのまま船に延焼する正反対の事態も起こりかねない。第七の盲人が訴える苦境はその一例である。

目から心へと侵入した美は、

わたしの胸の内に高貴な窯を作りました。

この窯は頑強な熱光を噴出して、

まず目の水分を奪いました。

そして、乾燥した元素 [火] を満足させるために、

わたしの他のすべての液体を呑み込んで、

わたしを、アトムに全部分解された

バラバラの埃にしたのです。 *31

 

「魂の船首に輝く双子の光」という船の隠喩で人の目を呼び表したブルーノが、その目が視線を向ける無限の対象をアンピトレテ(アンフィトレテ)という海の隠喩で呼び表している一節に、ブルーノ流航海術のエッセンスが凝縮されている。

こうして、神的な事象への想いである犬たちは、このアクタイオンを食い尽くし、彼を俗衆に対して死なせ、混乱した感覚の絆から解き放ち、質料の肉的牢獄から自由にします。したがって、彼はもはや彼のディアナをいわば穴や窓を通して見ずに、壁を崩して、地平線全体に現れる姿を熟視するのです。その結果、彼は、すべてを一なるものとして見つめ、もはや区別や数を通して見ることはないのです。区別や数というものは、いわば多様な隙間とも言える感覚の多様性に即して、混乱したかたちで見たり把握したりすることを、可能にするのです。彼が見るのは、アンフィトリテです。 *32

視野一面にひろがる海(アンフィトリテ)の眺めの前段階には穴や窓を通して覗き見る海の眺めがある。穴や窓のアフォーダンスが喚起する線的な道の形象は海の上の航跡である。アクタイオンが食い尽くされるその日まで、海の語彙で言い換えれば船が海に呑み込まれるその日まで、ブルーノはまなざしの船を操り意志的に海を渉っていく。梯子を上りきったあとは梯子を捨てなければいけないとしても、梯子がなければそもそも高みに上ることができない。ブルーノの船はその梯子である。「おお愛の海よ、それを知るのは溺れるものだけで、その海上を船でゆく者ではない!」だって?ブルーノにとって海上を船でゆくことは溺れるための前提条件である。

*1:ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙および諸世界について(岩波文庫)』、清水純一訳、93頁

*2:ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、188頁

*3:同上、191頁

*4:同上、204頁

*5:同上、205頁

*6:同上、111頁

*7:同上、149頁

*8:ブルーノ『紐帯一般について』、岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学(月曜社)』、49頁

*9:『英雄的狂気』、102頁

*10:同上、103頁

*11:同上、215頁

*12:同上、207頁

*13:同上、198頁

*14:同上、209頁

*15:同上、208頁

*16:同上、64頁

*17:同上、268頁

*18:同上、270頁

*19:同上、245~246頁

*20:同上、247頁

*21:同上、269頁

*22:同上、257~258頁

*23:同上、105頁

*24:同上、255頁

*25:同上、158頁

*26:同上、265頁

*27:同上、258頁

*28:同上、276頁

*29:同上、269頁

*30:岩成達也「木製扉への中途半端な接近」、『マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験(青土社)』所収

*31:『英雄的狂気』、272頁

*32:同上、237~238頁