アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 11/14

ノーノの白鯨スタイル

Carola Nielinger-Vakil会心の著書Luigi Nono. A Composer in Contextの分析 *1 を手引きとして、ノーノの白鯨スタイルのルーツを初期の「ガチガチの」セリー作品Composizione per orchestra n. 2: Diario polacco ’58 (1958) に辿ってみよう。

 

規則群:

A B Cの3種類の音のタイプ。これらはノーノがポーランド滞在中に経験した3種類の「感情の音調」である。 *2

 

A = sgomentoはワルシャワのゲットーとアウシュビッツを訪れた際の恐怖に心おののくような驚き

B = ammirato stuporeはワルシャワの公園やザコパネのタトラ山地、あるいはクラクフで自然や人工の美に魅了された時の陶然とした心地よい驚き 

C = entusiasmoは1944年の英雄的なワルシャワ蜂起を経て、ナチスの暴虐の嵐が去った戦後に新しい社会、文化を築こうとしているポーランドの人々の決然たる意志に接して感じた気分の高揚

 

目まぐるしく移り変わり、時にはほぼ同時に触発されるこれらの感情を表題のとおり日記風に音に書き留めていく。日記風とはノーノ自身の説明によると、「断片の並置。印象や直感のメモ――それらは日記においてはしばしば単一のセンテンスや感嘆詞で表される――のように」 *3 ということである。しかしこのメモは、メモとか走り書きと言った言葉から連想される気まぐれな軽い筆致とは似ても似つかぬ厳格なルールに則って記述されていく。

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曲はPart I~IVの四部に分かれ、それぞれのパートがさらに複数のセクションに分割される。各セクションは先に述べたA B Cのいずれかの音のタイプに対応する(Part II以降はA + Bの複合型も登場する)。セクションの総数は32個でセクションの長さは最小1小節、最大55小節。

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使用する12音列はCanti per 13 (1955) 以来の初期ノーノのお気に入りであるAllintervalreihe (all-interval series)。on F#を基本とするがPart II以降は移高形も用いられる。

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duration valueは4 5 6 7の四種類で、四分音符を何分割するかを表す。

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duration factorはduration valueに乗ずる倍数。1 /duration value × duration factorで音価が決まる。1から12までの整数で、短(1 3 5 11)、中(4 6 7 9)、長(2 8 10 12)の3グループに分けられる。Part IIIとIVでは各々の要素を2倍にした数値も併せて使用。

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12×12の魔方陣。使用する12音列を数値化して横に並べたものを11 8 1 6 9 10 3 4 7 12 5 2の順列に従って繰り返し並び替え、12行の数列を作る。この魔方陣の各列を下から上に読んで、左から順にR1~R12の12種類の数列(各数列の要素は12個)を得る。

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セクション毎に指定されるsubstitution chart。これを先の12種類のR1~R12の中から選んだ数列に適用して決まるのは、個々のピッチのduration factor、適用されるduration valueの個数、グループ毎の音高の異なるピッチの個数(1~4)である。最後に出てくる「グループ」が構造の最小単位である。グループ単位でピッチ、音価(ひとつのグループ全体を通しての合計値)、ダイナミクス、楽器編成が設定される。

 

以上の設計からは、1986年のエドモン・ジャベスとの対話以降ノーノが盛んに語るようになった、複数の相反する感情を同時に表現する歌の原型を既に認めることができる。と同時に、それら三とおりの感情が三種類の音のタイプに整然と仕分けされ組織化されていく手順がいかにもノーノらしい。固定や図式化を忌み嫌う常日頃からの、しかしとりわけ後期になって顕著になる再三の発言にも拘わらず、ノーノが音を扱う手つきは最初期から晩年に到るまで一貫してある種の図式的な固さ――大海原を舞台に展開される人と鯨の一大活劇を期待して頁を開いた『白鯨』の読者を戸惑わせずにはいられない、あのメルヴィル/イシュメイルの重箱の隅を突く堅苦しい晦渋な語り口のような――を伴っている。しかしその3種類の音=感情のタイプがセリーの徹底した法の手に委ねられ、1~4音単位で逐一性格の規定を受けた結果醸し出されてくるのは、感情が三色にくっきりと色分けされている状態からは程遠い、絶えざる流動と変転の印象である。楽譜やスケッチを精緻に分析した末にようやく判読できる三種の色分けは、三原色の細かいドットで点描された絵のように聴き手の耳の中で混ざり合い、ひとつに融合し、80年代のノーノがしばしば口にするキーワードで言うところのcon-fusioneの様相を呈してくる。この点に関してNielinger-Vakilの次の指摘はたいへん興味深い。

To counteract this immense fluidity and the gradual process of disintegration, Nono introduces two solidifiers with which he effectively defies the serial system: blocks of sound and echo formations.  *4  

作中の所々にセリーの秩序に従わない2種類の異端分子(音響ブロックとこだま)が挿入される、それらをNielinger-Vakiは、セリーの徹底的な行使が招く夥しい流動性に対抗する「凝固因子」と呼んでいる。鯨をあらゆる細部に到るまで言語化しようというイシュメイルの野心の産物である、ひとつひとつを取ってみれば生硬な記述の過剰な連続が『白鯨』の紙面にsomething of the salt sea海洋のにおい *5 を漂わせていたように、「ガチガチの」や「厳格な」といった固さのメタファーでとかく飾り立てられる音列技法に基づき音を細部に到るまでパラメータ化し掌握しようという作曲家の作為の過剰さが、この作品に横溢する、捉えどころなく移ろい続けて止まない水の気配の母胎になっている。メルヴィルとノーノの海の傍には、なにものかの細部を飽くことなく弄る能動的な手の動きがある。その手が弄り操作することができるのに必要なだけの固さを具えた基質の総称が「船」である。メルヴィルとノーノの作品に共通する、一見海の作(曲)家らしからぬ固さの要素は船板の固さである。それは海のために必要とされる固さなのだ、その固さを操ることなくしては海を渉っていくことができないどころか、その固さを弄ることによって海の水が発生するのだから。彼らの船の正式名称は「自らが航行していく海を自らが生み出す船」である。

 

ノーノの船の素材は様々で、Diario polacco ’58のようにセリーの場合もあれば、Cori di Didoneのようにウンガレッティの詩句の場合もあり、ノーノがヴェネツィアのなかぞらに聞き取ったはじまりも終わりもない音の海のように、ヴェネツィアの街のはじまりも終わりもある輪郭を纏った石造りの家々や舗道の場合もある。その系譜の末端に登場する最新鋭の船がライヴ・エレクトロニクスである。ここ数年、日本国内でもノーノのライヴ・エレクトロニクス作品が演奏される機会が何度かあった。どの演奏会も席が指定されていなかったので、私は会場の一角に設けられた「操舵室」のすぐ後ろに座って、船長に背後から人知れずエールを送るのを常としていた。空間を遊動する音を計器の銛を振るい次々に仕留めては鮮やかな手捌きで腑分けしていくキャプテンの頼もしい仕事ぶりを演奏中に後ろから覗き込んでいると、ライヴ・エレクトロニクスとはまさしく『白鯨』的な音の狩猟なのだという事実が如実に実感できる。作曲家の支配の手が及ぶのは、通常は演奏家が楽譜の記述にしたがって音を発するところまでである。それでは飽き足らない欲張りなアクティヴィストのための、所有と操作の領域の拡張ツールの側面をライヴ・エレクトロニクスはたしかに有している。空中に解き放たれ晴れて自由の身となったばかりの音に掴みかかり、電子機器の船上に引きずり込んでさらなる変形加工を施した結果もたらされるのは、しかし必ずしもより整序された判明な構造ではなく、しばしばその逆に不分明への溶暗である。ところで先ほど「会場の一角」と言ったが、ライヴ・エレクトロニクスの制御のための装備一式は一角どころか「中枢司令部」と看板を掲げたくなるような特等席に据え置かれることが多い。たとえばPrometeoのヴェネツィア初演では、サン・ロレンツォ教会の内部に設営された長方形の木の船のまさに中央の、聴衆より一段高い台座に機器一式を並べて、そこでHans Peter HallerやAlvise Vidolin、ノーノらが音響制御の任にあたっていた。 *6 「多中心性」という目を引くキーワードに囚われている単純な人間はその様を見て哂うだろう。中心は一つではないと言うけれど、全奏者を前にした指揮者の立ち位置よりもさらに権力的な空間のど真ん中の玉座に君臨して音楽の全貌を睥睨掌握しようとしている単一の中心が存在しているではないか、というわけだ。

 

ノーノは多中心性の概念をしばしばブルーノを引き合いに出して語っている。「かつてドミニク派の修道士のジョルダーノ・ブルーノは、この宇宙には同時に無限の世界が存在しているんだ、ということを言いました。(……)中心というのは、決してひとつではないんですよ。太陽が無数になるように、この世界には実にたくさんの中心が存在するんです」。 *7 多中心性とは、自覚なきブルーノ主義者ノーノが自覚している表面的なブルーノ性である。ノーノがブルーノから受け継いだ本当の真髄は、無限の大海へと漕ぎ出していくためのブルーノ流の熱き航海術である。晩年のノーノが座右の銘としていたトレドの言葉はヴェネツィア的であると同時にすぐれてブルーノ的なモットーであった。進みゆくものよ/私は方向づけられている、道はない/海にも喩えられる無限のひろがりは一切の方向性を欠いている、だが進まなくてはならない/だがそれでも私に授けられた志向性という素晴らしい船を私は決して手放したりはしない――限りないものへと差し向けられた限りあるものの情熱的な意志のこの高らかな肯定こそが、ノーノに息づく真のブルーノ精神の発露である。

 

進みゆくものよ、その「進む」というありふれた行為のうちにも端的に表れているわれらの意図や作為は、ジョン・ケージがやっている偶然性の音楽のような小細工でやすやすと消し去ることができるものだろうか。小細工――そう、あれはまさしく意図的な意図の放棄、作為的な無作為化である。庄野進による偶然性の音楽の「作曲手順」の解説では、「素材がそこにランダムに配置される」、「音と音とを物理的に切り離す」、「音と音の間に沈黙を挿入する」、「音と音との間の関係を断つ」といった、作曲者のあからさまな作為を指し示す表現を重ねた末に「作られた」個々の音が、「今、ここでの唯一性」という常套句で美化されていく。 *8 確率論と書かれた名札を幹にぶら下げた科学の大樹に全体重で凭れかかりながら「ほらほら、作曲家であるわたくしの意図は少しも働いてはおりませんよ」と嘯いてみせるあの猿芝居は、ノーノとはおよそ無縁のものである。

 

「おお フレベヴリイに似た男達よ 方向づけられてあるということ それは よく考えてみるとき かくて あなた達の悲惨さのすべてであり 同時に あなた達の恩寵のすべてではないか とさえ思えます」 *9 ――岩成達也のその言葉どおり、この地球上に生きている生物個体は徹頭徹尾方向づけられ、ミクロからマクロまであらゆるレベルに道の形象が現れる。DNAの遺伝情報は必ずコード鎖の5’(上流)から3’(下流)に向かって読み取らなければならない。遺伝子レベルで既に喚起される上流、下流という川の流れのメタファー。真核生物の細胞には微小管という線維状の蛋白質が遍在する。微小管は基本単位であるヘテロダイマーの付加されやすいプラス端とされにくいマイナス端の区別がある、矢印のような極性を具えた線であり、この性質のゆえに方向性をもった細胞内の搬送路としても機能する。未受精卵における動物極―植物極の分化にはじまって受精後の背腹軸、前後軸、左右軸の確立に到る個体レベルの極性形成にも微小管は主役級の働きを担っている。神経系の多数派を占める化学シナプスでは、情報伝達の方向がシナプス前細胞からシナプス後細胞へと、クロノロジカルな時間のように一方向に定まっている。

 

身内の葬儀で大きな啓示を受けた。火葬炉から出てきた骨格には一見して涸れ川の河床のような「流路」の印象がある。露わになった生の軸線。続いて行われる拾骨は骨格の闇雲な断片化によるその軸の解体作業ではない。足から頭へと、下から順に骨片が拾い上げられていく。喉仏(に見立てられた第二頸椎)のほかに眼窩の骨が特に慎重に取り扱われ、生体の位置関係を保ったまま骨壺に収められる。これで骨壺の氏名が刻印されているほうを正面に向ければ故人がこちらを向いていることになりますから、との説明。骨壺に収まる段になっても最小限保持されるひとりの人間の生の面影は「方向性」なのだ。下から上へ垂直に立ち上がる体幹の向き↑と、それに直交して水平に伸びる視線の向き→と。わたしの中に/わたしから/わたしへと伸びるいくつもの道筋。方向づけられていることの恩寵と呪いからわたしが逃れるすべはとてもありそうにない、ならばとことん進め、進み抜けというのが、ブルーノやメルヴィル、ノーノのモットーである。「進みゆくものよ、道はない、だが進まなくてはならない」――かくして「移動を行うための意志」をそのまま形にした船が洋上に航跡を刻む。無限の大海原の只中へと舵を切るブルーノの船の推進力は「英雄的狂気」である。英雄的狂気の「狂気」とは何か奇抜なことをせよという意味ではない。エソロジーの分野にはsupernomal(超正常)という素敵な用語がある。過剰に普通であること。物を見る、これは日常茶飯事である。狂える者は「通常以上に物を見る」。 *10 何かを穴の空くほど見つめる、空いた穴から溢れ出してきた水で溺れるほど見つめ続ける。ムージルがかつて「通常の状態」と呼んだ、志向的で能動的で生産的で建設的な、人間の精神の「鋭利で悪い基本的特性」 *11 をとことん突き詰めていった「超通常状態」においてひらけてくるはずの海にブルーノは賭ける。

*1:Carola Nielinger-Vakil (2015). Luigi Nono. A Composer in Context. Cambridge: Cambridge University Press: 95-122.

*2:ノーノによる作品解説 [link]

*3:同上

*4:Nielinger-Vakil (2015), p. 119.

*5:メルヴィル『白鯨』18章「印形」、阿部知二

*6:Hans Peter Haller (1995). Das Experimentalstudio der Heinrich-Strobel-Stiftung des Südwestfunks Freiburg 1971-1989: Die Erforschung der Elektronischen Klangumformung und ihre Geschiche Band 2. Baden-Baden: Nomos Verlagsgesellschaft, p. 169.

*7:1987年11月27日の武満徹との対談の中でのノーノの発言。『歌の翼、言葉の杖 武満徹対談集(TBSブリタニカ)』所収

*8:庄野進『聴取の詩学 J・ケージから そしてJ・ケージへ』、勁草書房、62~63頁

*9:岩成達也「渚について あるいは水際の教説」、『フレベヴリイのいる街(思潮社)』所収

*10:ジョルダーノ・ブルーノ『英雄的狂気』、加藤守通訳、東信堂、70頁

*11:ムージル「新しい美学への端緒」、早坂七緒訳、『ムージル・エッセンス』、中央大学出版部、58頁