アンキアライン

ルイジ・ノーノの音楽(主として後期作品)について

断ち切られない歌 後篇の中 10/14

白鯨スタイル

『白鯨』のスタイルとはなにかといえばまず何よりも、かれら捕鯨船夫は広大無辺の海原にあくまでもハンターとして対峙しているということである。「すべて海の凄絶怪奇なものごとに、だれよりもはるかに直接にぶつかってゆくのは彼らであり、その神変不可思議に、ただ目のあたりにぶつかるというだけでなく、腕をそのもののあごにさしのべて相闘うのである」。 *1 巨量の海は、能動的に働きかけるべき対象であるということ。鯨という捕獲対象を、海に浮かぶちっぽけな「陸の断片」であるところの船上に力ずくで引きずり込み、いまや「獲得され変形され消費されるもの」として手の内におちた鯨を、意のままに、徹底的に解体し尽す、それが彼らのやり方である。こうした通常の捕鯨行為の極限に、海そのものの化身であるかのようなモービィ・ディック(鯨とり達によってそれは、時間すら超越した存在だと信じられている)を仕留めてやろうというエイハブの野心、狂執が蠢いている。

 

だが『白鯨』にはもう一人、エイハブに勝るとも劣らない野心を秘めた狂える人間が登場する。この物語の語り手/水先案内人をつとめるイシュメイルである。イシュメイルという人物の異様さは、第102章で明かされる奇怪なエピソードが雄弁に物語っているとおりだ。「これから書きとめるところの骨の大きさは、わたしの右腕のいれずみから逐次うつし取るのだが、あのでたらめな放浪の時にあっては、その貴重な統計を確実に保存するには、そのほかに道はなかったのである。だが、わたしのからだの空間は混みあっており、そしてからだの他の部分の――少なくとも、まだいれずみされずに残っていたところは――当時わたしがつくりつつあった詩のために白紙として取っておきたかったので、わたしは、はしたのインチなどは切りすてた」。 *2

 

イシュメイルの体に起きていることは、鯨が一頭仕止められるたび、ピークォド号のさまで広くない甲板が血と油の川でおおわれ、切りとられた鯨の頭の断片やら巨大な古樽やらで物の置き場に困るほど混みあってくるという事態と等価である。つまり『白鯨』においては、エイハブ率いるピークォド号による鯨の狩と並行して、別の船/船長によるもう一つの狩――言葉による捕鯨が行われているとみることができる。この第二の船の船長にして、船そのものであるともいえるイシュメイルは、狙うべき獲物について、一面では次のようなたいへん悲観的な見通しを口にしている。「いくら分析してみたところで、わたしの力では、表皮をかすったほどのことしかできない。わたしは鯨を知らない。知りうる日はないだろう」。 *3 あるいは、「人がどのように考えてみようと、巨鯨とは世の終末まで描かれずして残る動物なり、と結論せざるを得ないであろう。時として、ある図面は他のものより多少正鵠に近づくでもあろうが、どんなものにしたところで、十分に正確であるという点まではいたり得ない」。 *4 だがそれでも彼にはエイハブと同じ不屈のハンターの血が流れている。「わたしは、この大鯨を取り扱おうと志を立てたのである以上は、この仕事においてわたしが遺憾なく全知であるということを、彼の血液の極微の生命分子をも見のがすことなく、また彼の腸のもつれの最後の輪まで引きのばしながら、証明しなければならない」。 *5

 

わたしが鯨を知りうる日はないという絶望と表裏をなす、この身の程知らずともいうべきかたくなな情熱が、イシュメイルを狂おしいばかりに衝き動かしている。物語のナビゲーターとしての役目などは半ば上の空で、イシュメイルは彼の手の届く範囲の鯨にまつわるあらゆる枝葉末節を飽くことなくまさぐっては、恐るべき執拗さで片端から言語化していくのだ。モービィ・ディックが姿を現す瞬間を洋上で待ちうける、あのいつ果てるとも知らぬ外洋の時間において「船が試みる、船が捉えうる限りのモゥビ・ディクあるいは海に関する細部片と意味片との延延たる集積作業」 *6 は、『白鯨』の紙面を「海とほぼ等身大の厖大で錯綜する言葉の系」 *7 で埋め尽くすにまで到るだろう。

 

『白鯨』の時代の捕鯨は、鯨の体から鯨油を抽出することを主目的としていた。鯨油は灯火用の油として、『白鯨』冒頭の語源部・文献部に登場する助手心得先生がひもとく本に書かれた鯨の記述を照らしだす「光明の原料」*8 となる。捕鯨とは要するに、海の暗がりから鯨を船(陸の断片)に引きずり込み光へと変えていく作業である。檣頭から遠望された一頭の鯨を危険な格闘の末に船上へ引き揚げることに成功したら、その時点で誰の眼にも人間の勝利は明らかなようにみえる。鯨はいまや「仕留め鯨」として手の内に文字どおり掌握され、わが所有物と化したのであるから、あとは好きなように変形、加工、消費してやればよいだけの話である。メルヴィルはしかし第98章「積み込みと片づけ」で、鯨を所有することに伴う憂鬱にふれている。鯨が一頭仕留められる、するとそのたびに、しみ一つない乾いた甲板に「血と油との川ができ」るとメルヴィル/イシュメイルはいう。鯨を解体すれば大量の体液が溢れ出してきて甲板を濡らすのは避けられない必然である。「もし捕えたならば、まちがいないところ、ふたたび古い樫材を汚し、少なくともどこかを、小さな油脂の一滴でぬらすだろう」。光へと通じる途であるはずの鯨の解体作業に朧な水の翳がどこまでもつきまとってくる。解体が進めば進むほど、鯨の体がそこから鯨を取りだしてきた当の大海原に漸近していくという事情を、岩成達也はこう説明している。「モゥビ・ディクあるいは鯨は、灯油への過程で、ほとんどが骨髄にいたるまで徹底的に分解され、また吟味されつくすが、それにもかかわらず、そこにはただ一つの内部もあらわれてはこないのである。内部と思われるものも、船の周辺では、それが採りだされるや直ちに、表面の一細部へと縮退していく。つまり、船が常に海面上を――その外側でもなく内側でもなく――移動するしかほかに途がないように、船にとってのモゥビ・ディクあるいは鯨は、いつでも、その奥行きを無限に奪われてあるものの謂であり、それ故にそれは、船に対して、欠如としてよりほかにその奥行きを示す途をもたないものである」。 *9 解体の涯の最終産物である「光明の原料」鯨油は、それもまた液体、しかも厖大な量の液体である。「鯨という生物は、その皮だけの一部から湖なす液体(such a lake of liquid)を産む」 *10 。所有と操作の領域の懐からとらえどころのない水のようなものがとめどなく滲み出してくるというこの奇妙な事態が、呼吸が体のなかで起こる一種の小出しにされた燃焼であるのと同じような意味で、衝撃を弱められた難破の様相を呈することは避けられない。

 

船上で展開される鯨の解体作業に伴う溢水現象は、紙上で展開される鯨の解読作業でもパラレルに生じている。その原因となるのがイシュメイルによる細部の過剰な言語化である。巨鯨の「血液の極微の生命分子」をも捉え逃がすまいとする執念によって狩り集められた厖しい細部が、まさしく「海のように」平板な記述の連なりとなって、起伏に富んだ物語の筋書きをほとんど水没させてしまうというジレンマはどうにも解消の手立てがない。鯨をさらに精緻に読み解こうとして細部を積み重ねれば、そのことがただちに海原のさらなる拡大を招くからである。記述はいわば水ぶくれを起こすのだ。

 

海上に船を走らせて行う捕鯨は鯨からプロメテウスの贈り物である火を取り出すいっぽうで、イシュメイルが紙上に筆を走らせて行う捕鯨は鯨をこれまたプロメテウスの贈り物である「万象の記憶をとどめる文字を書きまた綴るわざ」 *11 で言葉に変えていく。文字に変貌した紙上の鯨を灯油に変貌したランプの鯨が照らし出して、光の下で鯨が読み解かれる。第32章「鯨学」で鯨が種類ごとに本に喩えられ分類されているのは理由なきことではない。ではなぜ光の届かぬ海中を蠢く鯨を文字どおり「明らかにする」闇から光への道のりがいつもその傍らに掌握しがたい水の仄暗さを滲ませているのか。プロメテウスの贈り物の品目には漏れなく水が付録で付いてくるのだろうか。

 

プロメテウスがもろもろの技術を授ける前の人間は「もともと、何かを見ても、ただいたずらに見るばかり」 *12 だった。見ることは知ることの基本である。見ることを見る、つまり、見るという典型的な志向性を可視化してその形状を観察すれば、水の発生原因を知ることができる。

何故なら 滲む辺とは                光(((穴)))

(…それは (一つの管/井戸) なのだ それは明るみを闇へと浸し…

 あるいは それをつたって 闇が明るみへと立ち昇る (光(穴))…)

                     に ほかならぬだろうから *13

闇、あるいは昏い水に(「もとより水は闇によく馴染む性質をもつ」 *14  、「そういえば、水は闇にいくばくか似かよっています」 *15  )、一条のまなざしの光を差しいれる、するとその光の形状は井戸のような管のかたちをとる。まなざしが向けられた闇の一点には「常に光が臨み とぎれることなく 細部が そこに溢れてくる」 *16 、と同時に、闇(水)に光を差しいれた、まさにそのことによって、光の井戸を伝いなにか仄暗いものが明るみへと立ち昇ってくる、あるいは水のようなものが滲み出してくる。この水はアクティヴィストの手だけを濡らす水である。人は形なくむなしい闇を光で照らし出し形を与えるために見る、と同時に、光で照らし出された形態の世界を形なくむなしい闇に浸すために見る。

 

「白帆の翼に海上を翔ける、船頭たちの乗り物を造ったのも、私に外ならない」 *17 ――船もまたプロメテウスが人間に授けた技術のひとつである。対象へと差し向けられた志向性が原理的に抱えている両義的性格は、船においては乾くことと濡れることの両義性で表現される。それがもっとも端的に表れているのが、一艘の船の陽光に曝される甲板と水に洗われる船底の表裏一体の関係である。船を一冊の本だとすれば、甲板では『白鯨』冒頭の「文献部」の鯨が光と言葉に変わり尽くした陸の光景に向けて頁が繰られ、船底では『白鯨』末尾のピークォド号が跡形もなく難破したあとの「五千年前にうねったと同じようにうね」 *18 る海の光景に向けて頁が繰られる。航海はこの二方向の旅路の同時進行である。

*1:メルヴィル『白鯨』、41章「モゥビ・ディク」、阿部知二

*2:同上、102章「アーササイディーズの島の木かげ」

*3:同上、86章「尾」

*4:同上、55章「怪異なる鯨の絵について」

*5:同上、104章「化石鯨」

*6:岩成達也「モゥビ・ディクの短い見取図」、『マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験(青土社)』所収

*7:岩成達也「異火をみた男達 あるいは伝承の中の男達」、『フレベヴリイのいる街(思潮社)』所収:原文は海→荒野

*8:『白鯨』、97章「灯火」

*9:岩成達也「モゥビ・ディクの短い見取図」

*10:『白鯨』68章「毛布皮」

*11:アイスキュロス『縛られたプロメーテウス』、呉茂一訳

*12:同上

*13:岩成達也「十一月/糸屑」、『(ひかり)、……擦過。(書肆山田)』所収

*14:岩成達也「十月/水辺」、『(ひかり)、……擦過。(書肆山田)』所収

*15:岩成達也「水辺」、『(いま/ここ)で(書肆山田)』所収

*16:岩成達也「閏月/係留」、『(ひかり)、……擦過。(書肆山田)』所収

*17:『縛られたプロメーテウス』

*18:『白鯨』135章「追跡――第三日」